アニメ『サマーゴースト』(視聴メモ)

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感想・印象

「好き」3 「作品」3 「脚本」2

雨森さんが分析をしていて、40分ほどのアニメだということでふらっと見てみた。アニメによくある雰囲気だけでストーリーの本質から逃げているような作品。「受験競争」「死の病」「イジメ」よくある設定で、映像リテラシー中高生ぐらいが、こういう作品に出会うと雰囲気と設定だけで好きになってしまうが、物語力は弱く、構成を見ることでもわかる。こういう作品は、ビートがとりづらいのだが雨森さんの記事の補足をしておく。

カタリスト「アヤネに会う」、PP1「魂だけになる」は問題ないが文章がPP1の表現らしくない。非日常の世界で何が始まったのか明確に書くようにするとよい。魂だけになって、何をしようとしているのか? そう考えると、作品自体がうまく描けていないことが見えてくる。それがMPのとりにくさにもつながっている。雨森さんんはMP「アヤネの死因」がわかるところにしているが、ミステリーのプロットではないので、ふさわしくない。「PP1」からアヤネの秘密を探ろうとして魂になっていたのなら、その到達点として「アヤネの死因」がわかるは成立するが、そうは見えない。心のどこかで死にたいと思っていたトモヤが、アヤネと魂だけの時間(PP1からのアクト2)を過ごすことで、何らかの変化が起こる地点がMP。「美術館で思う存分絵画鑑賞をしたこと」なのか「アヤネと過ごした時間」なのかあいまいで、この作品が好きな人に好意的に解釈してもらおうとしているだけで、これが「ストーリーの本質から逃げている」ということ(分析的な言い方をすればキャラクターアークが描けていない)。ビートでいう「バトル」にあたるようなアークの核となる描写を音楽付きのモンタージュで片づけて逃げるのは最近のアニメ映像作家の誤魔化し方。キャラクターアークを考えるとき、トモヤのアヤネの会う前の気持ちとしての「絵を書くことへの気持ち」や「死にたい」と思っていた気持ち(※設定上、死にたいのでなければアヤメを見れない)が変化したといえるほど、誰が見ても納得できるほどに描写できているか?という観点に立つとよくわかる。キャラクターアークを描けない作家にとっては、中高生あたりの揺れ動きやすい「思春期」の設定には、キャラクターアークのブレから逃げる言い訳にもなるし、キャラクターたちと同世代が観客は雰囲気に飲まれやすいので、日本のアニメがこういった雰囲気のストーリーが量産されるのだろう。ともかく、描写は稚拙だが「PP1」~「MP」で「トモヤはアヤネとの時間を過ごして、トモヤは潜在的に何らかの変化をした」として、次に「アヤネが体を見つけたい」(18分)と言ったところを起点(「フォール」)として、後半の「死体探し」のプロットが始まる。本来なら、MPまでの変化を受けた次の段階が始まるのがキャラクターアークだが、唐突に「宝捜しプロット」が始まる。外的なwantなのでわかりやすいが「捜したい」「見つけたい」「絶対に見つけたい!」というトモヤの気持ちは見えないので、プロットの都合でストーリーが進んでいる印象になっている。ここまでの前半の雰囲気に共感できていなかった人は、ここで「やっと物語が始まった」と感じるかもしれないし、ここをPP1にもってくるような構成に整えることもできる。つまり、前半と後半で噛み合わないまま、2つのプロットをくっつけているだけになっている。修正段階であれば、どちらかのプロットに絞るか、両者がしっかり噛み合うようなアークを一本通すという方向性になる。フォールはから「死体捜し」が始まったのだから「PP2」は「アヤネの死体発見」となる。アクト3のビッグバトルではトモヤが「死体を見つけるのか、死の世界に行くのか?」(※この死の世界の設定も唐突で都合がいい)。ここを見せ場とするなら、MPまでのアヤネとの関係を「死へ向かっていく過程」とし、フォール以降の死体を見つける=「現実へ戻ってくる過程」とかであれば、アークを通すことができるが、そういう構成など作り手が意識していないのは描写(シーンやセリフ)を見れば明らか。リョウは最後のオチのためのキャラ、アオイはサブプロットだが、アヤネとの関係も薄く、時間稼ぎ描写。雨森さんは「40分じゃなくて、せめて1時間あったらもっともっとこの作品が好きだったと思います。」と書かれていたが、たぶん、40分だからギリギリ耐えられた作品。作り手のレベルからして、時間が延びても、キャラクターアークが描く方向性ではなく、サブキャラクターや、雰囲気シーンが増えるだけで、テンポはさらに遅くなり、眠たい作品になるのではないかと僕は感じる。雰囲気映画や雰囲気アニメというのは、個人的に好きというのは観客の自由だが、作品の質として見たとき、キャラクターアークにのっとったオリジナリティ溢れる描写があれば一流、キャラクターアークがなくても描写だけが優れていれば、それだけで質が高いといえるものもあるが、この作品で描かれているシーンと、過去のこういったアニメと較べて、この作品でしか見られないような描写があったか?と較べてみれば、どうかとわかるだろう。こういう映画は、ストーリーの本質が定まっていないので「PP1」っぽいシーンはあれど、プロットポイントですら機能していないので、直しの方向性も無限にある。結局、作者にあなたが書きたい(伝えたい)のは何ですか?というところから、掘り下げて問わないと、分析をしても修正方向は示しづらい。つまり、PP1が遅いとか早いとかって話ではなく、そのPP1で何を描こうとしています?という話。分析は難しいと思うが「プロットアーク」として表面上でいいからビートを当てはめてみると、作品の欠点が見えてくる。そういう分析を目指すと、崩れた作品からも得るものは多いはず。

緋片イルカ 2023.8.3

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