【物語にできること(1)】(文学#14)

今回は長くて小難しい話になると思う。
まずは偶像崇拝の話。

「偶像」というのは英訳すればidol、つまりアイドルである。

アイドルを崇拝するとは、ジャニーズや乃木坂46の熱烈なファンを想像してもいいし、そういう人達を俗に「信者」と呼んだりするように、宗教を闇雲に信奉している人も似たようなものである。

ブッダは入滅に際して偶像を作らないことを説いたが、弟子達は仏像を作り、それは今ですら残っている。信仰心がなくても、お寺や神社に行けば厳かで、ありがたい気持ちにもなるし、疎んじると罰があたるなどと言われると嫌な気持ちもするし、人間には理解や認識のできない超自然的なものを想像させられる。

「偶像を崇拝すること」と「超自然的なものを崇拝すること」は似て非なる。
だからブッダに限らず宗教の祖が「偶像崇拝」を禁じたのだろう。

そもそも原始的な生活をしていた人々は、自然を崇拝していた。アニミズムである。
太陽を崇拝し、恵を与えてくれる森や海に感謝して「神」として崇め、津波や雷は天罰や怒りとして受け止めた。それを鎮めるための宗教的な儀式も作られていった。

科学のなかった時代のことである。儀式には理にかなっていることも、そうでないこともある。理科的な原理の変わりに、よりどころとなったが物語である。つまり神話である。

日光が足りず稲の育ちが悪いときは祭りを行う。
それは天岩戸に籠もったアマテラスを引っぱりだすため、外でドンチャン騒ぎをしたのと合致する。
そもそもアマテラスが籠もる原因はスサノオが暴れたことだが、スサノオは嵐の神である。現代の気象でいえば、台風が多いような年は雨やくもりが多いのとも合致する。

舞をおどったアメノウズメは芸能の神になり、アマテラスがチラリと覗くために開けた岩を引き開けたタヂカラを力やスポーツの神になった。これらは、すべて物語におけるキャラクターと同じである。現代でもアニメやゲームの中に神々がキャラクターとして馴染むのも頷ける。一種の、二次創作である。

当時の人にとってコントロールできなかった自然=「未知なるもの」「理解できないもの」「超自然的なもの」との折り合いのつけかた、物語によって信仰の対象(八百万の神)とすることだったのである。未知のまま怖れているよりは、物語をつくって儀式をしている方が、不安が紛れるのである。

信仰や崇拝は、恐怖や不安があるところに生まれるとも言えるのである。

(長いので次回につづける)

緋片イルカ 2019/10/20

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