【物語にできること(2)】(文学#14)

前回は、信仰や崇拝が生まれるもとには「恐怖」や「不安」があるということを説明した。
それらの感情をポジティブに表現すれば「願い」や「希望」ともいえる。

たとえば現代科学でも、どうにもできない病気にかかった人は手を合わせるしかないことがある。己の限界を悟って「助けを願う」。世の中には、そうするより他ないような状況もある。

これを「他力本願」と言う。

「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで救われると説いた日蓮が、受けいれられるには、苦しい生活を送っている民衆が多くていたからである。

一方で、偶像崇拝も始まる。

たとえば、まったく勉強をしないで毎日、仏像に向かっていたところで受験に合格はしないのは誰もがわかることだろう。これはブッダが言うところの偶像崇拝の禁止につながる。

では「南無阿弥陀仏」のかわりに「努力をつづけていれば夢は必ず叶う」というのではどうだろうか?

どこかの歌手や、それこそ物語のキャラクターのセリフのようだ。
「努力をつづけていれば」という条件がついているぶん念仏よりは可能性は上がりそうである。叶っていなくても「努力がたりない」とか「これから叶う」という論理的な逃げ道もある。

これが正しいかは誰にもわからない。結果でしか語れない。
「夢」が何かにもよるが、叶う人もいれば、叶わない人もいる。
叶ったとしても、それが努力によるのか、運によるのかもわからない。

ただ努力をしたい人は「努力をすれば」を信じるし、頑張ることが嫌いな人や挫折をした人は「努力じゃない、運だ」と、別の形の行動をとって夢を叶えようとするかもしれない。

いずれにせよ、人はみな信じたい言葉を信じるのである。これは「言葉」という偶像を崇拝しているのにも似ている。言語崇拝、あるいは物語崇拝ともいえると思う。

(長いので次回につづける)

緋片イルカ 2019/10/20

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