【物語の因果律と自由意志】(文学#31)

ぼんやりと浮かんでいるものがあるが、まだまとまらない。忘れないために書いておく。

テレビレコーダーに溜まっていたNHK「100de名著」をまとめて見た。
1回25分×4回で一冊の本をとりあげるという番組だが4本まとめて見るのが好きだ。
今回はカントの『純粋理性批判』だった。

高校の倫理+αぐらいの知識しかなかったが、改めてカントの考え方がよくわかった。
哲学として気になる部分もたくさんあったが、物語と関連して思ったことがある。

番組内で因果律に関して、こんな説明があった。
以下の三つのイラスト、

「燃えているろうそく」

「窓から拭く風」

「消えるろうそく」

という三つの情報を見たときに、人は「風が吹いて火が消えた」と理解する、と。
これは映画のモンタージュの説明でよく使われるものと同じだ。
たとえば、

「カフェで座っていた男が顔をあげて、振り返る」

「女の人が店に入ってくる。手を振る」

と、くれば、何も説明しなくても「男が女を待っていた」と観客は思う。

そこで、

「女は、さっきの男の後ろにいた別の恋人の元へ歩み寄る」

と、ズラしたりする。

もう一つ、ふと思い出したのが、かなり昔に、たまたま雑誌で見かけた心理テストで、そこには4枚のイラストが並んでいた。

記憶が朧げだが、どれもカップルのイラストで、

A「幸せそうなカップル」

B「別れるカップル」

C「話し合ってるカップル」

D「出会うカップル」

たしか、こんなかんじの4枚だった。

心理テストとしては「この4枚を並べてストーリーをつくってください」というもので、

D → A → C → B

と「付き合って楽しいときを過ごしたが別れてしまった」というストーリーをつくる人は悲観的、

B → D → C → A

と「別れたけれど、再会して、幸せになる」といいうストーリーをつくる人は楽観的、

というような内容だった。

これを書いていて、今、気づいたが過去に仲間内で撮ったショートムービーは、この心理テストの影響を受けていたのかもしれない。

悲観的にせよ、楽観的にせよ、人は生きていると無意識に自分のつくったストーリーに囚われている。

「今日は仕事のシフトが大変だ」と思うとネガティブなエンドなストーリーを作っているし、「楽しい予定がある日」は朝からハッピーな気分だろう。

こういった日常生活でのストーリーは小さな因果律で、もっと大きな「人生」という因果律にも支配されている。

ストーリーで言い替えるなら、例にあげた映画のモンタージュや、イラスト並び替えの心理テストはシーン単位の因果律だが、もっと大きな因果律はモノミスである。

モノミスは太古からの人類が民話や神話に無意識に投影してきた因果律ともいえる。

因果律に従っていないストーリーにはリアリティがなくなったり、違和感がある。だから初心者が三幕構成を学ぶことには意味がある。

たとえば、さっきの心理テストで再会のストーリーとしたものから、Dを外してしまう。

B「別れるカップル」

C「話し合ってるカップル」

A「幸せそうなカップル」

すると、

「別れたのに、どうして話し合って、幸せになっているの?」

「別れてなくて、ケンカして、仲直りしたのかな?」

と、別の因果律が働いて、これはもはや再会のストーリーではなくなる。

僕が好きな監督の一人ミヒャエル・ハネケがインタビューで「ハリウッド映画は物事を説明しすぎる」というようなことを言っていて、そうだと思ったことがある。

この「説明しすぎる」というのは、見せるべきシーンをすべて見せて、誤解されないように伝えることでもある。

それはエンターテインメントの姿勢で、観客はただ受け取るだけで、わかりづらいのは創り手が悪いというのことになる。

アート映画は、崩れていたり、崩していたりして、その極致はゴダールのような映画だろうが、「観客を信じている」と語るハネケの映画ですら、わかりづらいことはわかりづらい。

ヨーロッパ的な映画は、「サラは走る」の記事でも書いたが、映像に対するリテラシーによってテーマは誤解されてしまう。

ハリウッド的な因果律は「三幕構成」であり、これはモノミスともつながる。

ここで、カントに戻る。

人が因果律に支配されているとすると、人は運命に支配されているということになる。

「100de名著」では、犯罪者の罪を問えなくなるという例が紹介されていた。

殺人を犯した男がいて、彼が不幸な環境で育ったということを考慮しだすと、悪いのは彼ではなく社会ということになって、彼には罪がないことになる。

そこに「自由意志」という考え方がでてくる。

不幸な環境に育ったからといって、人を殺さない人間はたくさんいる。意志をもって因果律に逆らう自由を人間はもっている。

そこからつづく、道徳的な生き方といったカント哲学はいまは置いておいて、この「自由意志」をストーリーにあてはめてみたいと思う。

三幕構成が因果律だとすると、その法則からいかに逃れて自由になるかということと言えそうだ。

プロットアークという視点から見ると、主人公は「非日常」や「旅」といった因果律に支配されている。

たとえば「夫婦関係が冷え切って孤独を抱えた主婦がいる」

そこに「やさしくて、紳士的で、素敵な男性が現れた」(カタリスト)とき、主人公は抗えるだろうか?

倫理観といったものから我慢はできる。だから主人公はいきなりは不倫しない。

けれど「夫の方の浮気が発覚したら?」(デス

不倫という非日常が始まるだろう。

こういった話は不倫プロットと呼べるぐらいに繰り返されている。

「自由意志」で不倫に逆らったとしたら、まったく別のストーリーになるだろうが、貞淑が美徳とされていた古い時代には、この種のストーリーもあるだろう(ニーチェはカントの考え方を受け入れなかったという話が番組内であったが、この貞淑なストーリーなどは、まさにニーチェが否定するようなもので、現代ではウケないだろう)。

また、ビートから考えるとしたら「ミッドポイント」や「ターニングポイント2」は主人公に自由意志が働くタイミングといえる。

ただし、上記は「主人公」と「プロット」という関係の中で、因果律と自由意志を考えたものである。

僕の疑問は「モノミスそのもの対する自由意志はストーリーとして成立しうるのか?」で、ゴダール映画のようにもはや映画とはいえないような代物になってしまうのだろうか。

そのあたりは、今後の課題だが、物語法則に逆らってでも描くべき価値があるものがあるとしたら、それは文学的なものだという気がしている。

自由意志という考え方を拡大していくと、おそらく実存主義につながっていくのだろう。サルトルやカミュはノーベル文学賞(サルトルは拒否だったか)。

哲学はカントに終わり、カントに始まるという言い方を聞いたことがあるが、そういうことも、よくわかる番組でタメになった。

どうでもいいが「100de名著」はずっと見ている番組だが初めてテキストを買ったNHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』 2020年 6月 [雑誌] (NHKテキスト)

緋片イルカ 2020/08/03

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