【物語にできること(3)】(文学#14)

前回は、人間は自分の信じたい言葉を信じるものだという話をした。

「努力が大事」「続けていればいつかは夢は叶う」と信じてつづけ、闇雲に信じ続けていく人がいる。こういう人は「言語崇拝」しているといえる。思想とかポリシーと言い替えてもいい。

たとえば物書きのような夢であれば、死ぬまで努力がつづけられる。一生、信じていられるのである。この生き様を否定するつもりは1ミリもないが、そういう人の書くものが稚拙であったりすれば、努力の方法などに問題があるため夢が叶わないといえるかもしれないが、もっといえば、その人は「夢を追いかけている」自分でいたいだけで、叶えることが目的ではないのかもしれない(僕の身近にもそういう人がいる)。

スポーツのような明確な制限があるものでは、諦めざるをえないときがある。憧れのスポーツ選手が言っていたようには「夢が叶わない」と知る。諦めは仏教では「諦念」と呼び、同時に「悟り」への道でもある。

「じぶんの努力が足りなかった」とか「やり方が悪かった」と悔やむかもしれないし、スポーツとは違うかたちの「新しい夢」を見つけて努力していくかもしれない。

いずれにせよ、何かを諦めることは、次への変化につながる。
これはヒーローズジャーニーという物語の構成とも一致する。

「精一杯に努力はしたが、それだけでは埋められない才能があるのだ」と考えを改めた人がいたとする。そういう人は、同じ夢をもつ若い人を阻害しようとするかもしれない。

「いいか、大事なのは努力+才能なんだ。俺も若い頃は……」などと、自分の物語をきかせる。

その人の人生であり、信じているものを語るときには「物語」になる。
だから「言語崇拝」は「物語崇拝」でもあるのだ。

ちなみに、たとえば棋士の瀬川晶司さんのように、年齢制限でプロになれなくても、後に特例で夢を叶えた人もいる。例外なんていくらでもある。

みんな、じぶんが信じたいものを信じているのだ。

(長いので次回につづける)

緋片イルカ 2019/10/20

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