「文学」はブンガると「文が苦」になる(文学#21)

「自分にしか書けないことを、誰にでもわかる言葉で書くこと」

これは井上ひさしさんの言葉だが、文学の本質だと思う。
文章の基本だし、もっといえばコミュニケーションの基本ですらあると思う。

必ずしも、自分のことを誰かに伝える必要はないけれど、いざ伝えようと思ったら、伝えるために一生懸命に語る。
その語り方は拙いかもしれない。うまく伝わらないかもしれない。それでも、相手に伝えたいという気持ちで、一生懸命に語る。

そうすれば、聴く方でも「この人は何かを伝えようとしているから、こっちも一生懸命に聴き取ろう」としてくれる。

コミュニケーションによって人類は争いを減らし、進化・発達してきた。
「わかる奴だけわかればいい」という不遜な態度で語るべきではない。

文学だとか芸術だとか、創り手がアートを気取ると「わからないことこそカッコイイ」と勘違いする人がいる。

過去には、人には理解されがたい表現を貫いた偉大なアーティストがいる。
彼ら(彼女ら)は、あえて「わかりづらいを表現」をしたのか?

絶対にちがう。

そんな気取りだけだったら歴史には残らない。

彼らは、元々、理解されがたいズレを抱えていた。
それでも理解されようと一生懸命に語ったから、理解されたのだ。理解されたから、歴史に残っているのだ。

文学気どりの作家がいる。

「自分にしか書けないことを、誰にでもわかる言葉で書く」どころか、
「誰でも知ってるような話を、自分にしかわからない言葉で書いている」

文学を気取ってる。ブンガる、とでも呼ぶ。

そもそもが、そういう喋り方をする人ならいい。
それは人格であり、個性である。
拙いことは悪ではない。一生懸命に語っているなら、読みづらくとも、こちらは読み取ろうと思う。

だけど、インタビューなんかでは流暢に俺語りをしているくせに、小説になると途端に気取りだす。
よみづらい、わかりづらい、何を言っているのかわからない。

「あなたは、本当に誰かに伝えようとしているのですか?」

ロックミュージシャンが奇抜な恰好をしている。それでも歌がよければファンはつく。
歌がよいことが本質で、奇抜なのはおまけに過ぎない。
だから、そのミュージシャンに憧れて奇抜な恰好を真似したところで、いい歌を歌えなければ誰も聴かない。
大事なのは、いい歌の方だ。
それさえあれば奇抜だろうが、普通だろうが、地味だろうが、容姿は関係ない。

日本の文学なんて売れなくて、ためしに読んでみても、読みづらくて、「文が苦」が多い。
そんなエゴ小説が、出版社の煽り文句の帯に巻かれて、でかい顔して本屋に並ぶ。

「雰囲気がいい」とか「感じればいい」とか、
盲目的に評価する人もいる。
自分だけは良き理解者だと言うことで、先駆者にでもなったつもりなのだろうか。

その作品が、本当に耳を傾けるべき物語だったかどうかは歴史が判断する。

「自分にしか書けないことを、誰にでもわかる言葉で書く」

自分にしか書けないこととは何か?
それはむずかしい。

まずは己の人生を一生懸命に生きなくてはならない。
そうすれば「自分にしか書けないこと」に必ず出会う。
人は苦しみから逃れることはできないから。
その苦しみと向き合おうと決心したとき、詩や音楽や、物語が生まれる。
誰かに伝えたくて、一生懸命に語ろうとしたとき、本当の文学が生まれる。

緋片イルカ 2020/02/23

SNSシェア

フォローする