小説を読むと、作者の声が聞こえてきます。どんな声の質で語るのか。どんな抑揚で。どんなリズムで。どんなピッチで。作品の要請する声を、作者の持つ本来の声とどう練り合わせてつくりあげてゆくか、ということに、小説家は精魂をこめます。
これは「声」という題のついた川上弘美さんの第161回芥川賞選評です。
100文字小説の選考作業をくりかえしていて、ふと、この言葉を思い出しました。
「第一印象について」でも書いたとおり、はじめに直観的に「いい」「ふつう」「よくわからない」の3つのグループにわけて選考しました。それぞれA、B、Cグループと呼びました。
Aグループからは第一印象が思っていた以上に大切だと感じたことを学びました。
Cグループの「わからない作品」に耳を傾けることは前回の記事で書きました。
今回はBグループの「ふつう」に入った作品を選考する中から学んだことです。
「作品」に宿る声
選考では公平性を保つため、作者名を削除しました。
これは「作者」と「作品」が切り離された状態です。匿名の作品と言えるかもしれません。
匿名というと、すぐに浮かぶのがネットの書き込み、ですよね。
顔が見えないことをいいことに犯罪的な中傷を書く人もいますし、現実の自分から解放されて普段は言えない愚痴を吐けるという人もいるでしょう。
ペンネームも匿名の一種です。
『カッコウの呼び声』という小説があります。
作者は、この作品がデビュー作となるロバート・ガルブレイスとなっていますが、じつはハリー・ポッターシリーズの著者J・K・ローリングです。
読者に、ハリーポッターの作者という先入観を持たずに読んでほしいとペンネームをつかって出版したそうですが、気づいた人も多く、のちに自分が書いたと認めたそうです。スティーブン・キングにも同じような逸話があります。
余談ですがAIの解析によると、ストーリーやプロットを変えて別の作者を装っても、前置詞、代名詞、句読点などの使い方にクセが出るそうです(『ベストセラーコード』)。
「作者」と「作品」が切り離されていても、「作品」には作者の声が宿っているのだと思います。
声が聴こえてくると……
声を聴こうとして読んでいくと、選考として困ったことが起きてきました。優劣などつけられなくなるのです。
声は一人一人ちがいます。
その声に対して、どちらがいいととか、悪いとか判断することはできません。
「100文字小説大賞」なんて、辺鄙なサイトで開催している、賞金もたった500円しか出ないような賞に応募してくださった方々。
ふだんは学校や仕事や家庭でやらなくてはいけないことがあるでしょう。
そんな中から、人生の時間を割いて、感じて、考えて、書いて、送ってくださった「作品」。
きれいごとのようですが、どれも素晴らしいと感じてしまうのです。優劣などつけられないのです。
この体験は、僕としては、ちょっと感動的でした。「みんな生きてるんだな~」と。
けれど、小学校のように「みんな受賞です!」なんていう訳にはいきません。コンクールと称している以上は、順位をつけなくてはいけません。
応募してきた方々にも、順位がつくという覚悟があるはずですから、選考委員としても、その覚悟に応えなくてはいけません。
では、どうしたらいいのでしょう?
歌で評価する
声を「好き」「嫌い」だけで評価するなら簡単です。でも、それはコンクールとは思いません。選考委員の好き嫌いを選ぶだけのコンクールなど応募者に失礼です。
声は評価できないけど、歌は評価できます。カラオケの機械でも点数をつけてくれます。
評価基準があるからです。機械はそれに基づいて点数化しているだけです。
同じように、小説としての評価基準を決めてみようと思ったのが、「小説らしさ」とは?という記事にまとめた内容です。
これが、絶対的に正しいなどとは全く思っていません。今後も、考え方は変わっていくと思います。
でも、少なくとも、この「100文字小説大賞」の審査基準としてはこのように考えました。
これを明示しておくことは、応募者の方々へのマナーとも思いました。
すべての「作品」は、作者が意識していなくとも、声が宿っている……
その声には優劣はない。一次選考までだったとしても、その声が悪かったという訳ではない……
では、何が基準で順位をつけたかといえば、歌としての技術の差である……
と思います。このことだけは、応募者の方々に伝えたいと思いました。
技術を磨けば、どの作品も、必ずよくなります。
「作品」の評価は、けっして「作者」という人間の評価ではありません。
緋片イルカ 2020/06/24