バイアスと対話(文学#76)

ある番組で、バイアスについて考えるきっかけがあった。

バイアスという言葉を偏見と同じ意味に悪いものとして使う人がいるように思う。

心理学で「認知バイアス」といったときには生物の仕組みとしての偏りを指すので、この記事では丁寧に呼び分けていく。

生理的なレベルでの「認知バイアス」は、たとえば自然界での経験に基づいて「赤は熱い、青は寒い」と感じること。

炎がみな青々とした星で生まれ育った人間は「青を熱い」と感じるかは知らない。

今のところ人類は地球で生まれ地球で育つので、こういった「認知バイアス」が先天的か後天的かは判断しようがない。

とりあえず、自然界や身体に基づく認知バイアスを「先天的なバイアス」と呼んでおく。

これに対して「後天的なバイアス」は経験則そのもので、危険を感じたり報酬を得たものを記憶して、情報処理の効率化を図るために形成されていくバイアス。

たとえば、毒をもつ虫やキノコに危険を感じた経験があれば、似たような模様のものを避けるようになる(これがどこまで先天的かどうかは知らない)。

もっと、卑近で個人的な例でいえば「小学生の頃に空手を習っている人にいじめられた経験があれば、その人はバイアスとして空手を習っている人に警戒心を抱く」。

小学生の頃にいじめをした相手と、大人になってから出会った空手を習っている人は別人で「空手=暴力」などではないことは思考ではわかっていても、身体の方が警戒してしまうということがある。

多くの恐怖症などは、そのようにして、頭でわかっていてもコントロールしきれないバイアスとなるし、認知を修正していく「認知行動療法」が有効なのも頷ける。

個人のレベルでは、いかようにも「認知バイアス」をもっているし、それを修正するのは難しい。

年をとればとるほど、それぞれの生きてきた経験がある。

教育も仕組みとしては「後天的バイアス」を植え付けるものである。

「他人には親切にしよう」とか「税金を納めよう」とか、生まれ育った地域にふさわしいバイアスをもつことで、地域の集団に適応する。

人類の歴史をみれば「自分たちこそ正しい」というバイアスをもった集団同士が、戦争をして価値観を押しつけあってきた。

「お国のために」「鬼畜米英」という戦中日本の教育もバイアスだし「ユダヤ人は〇〇である」というバイアスは古くからある。

悲劇の大戦を経て「戦争はいけないこと」という目標(もちろん、これもバイアス)と、技術のグローバル化によって、多種多様な価値観をもった人と触れあう機会が増えるにつれ「差別や偏見はやめよう」という考えが生まれてきた。

「バイアスの偏りをなくそうというバイアスをかけること」すなわち「偏見や差別はやめましょうという教育」は、グローバルな視点からは相応しいとは思う。

島国日本は物理的なグローバル化がゆっくりしているから、価値観も遅れてはいるけど、それでも変わってきている。

冒頭に掲げたアメリカの番組では「先天的なバイアス」にも黒人差別は根ざしているというような展開があったのに、強い違和感をおぼえた。

無自覚なバイアスを、自覚させる実験というのは良いと思う。

でも、バイアスをゼロにすることが「偏見や差別をなくすこと」ではないと思う。

「後天的バイアス」がないのは、人間の本能の否定だし、そもそも不可能ではないかとも感じる。

バイアスをなくすことが良い社会をつくるのではなく、バイアスがあることを前提にした上で「対話」する力を身につけることが大切ではないか。

僕にとっての「対話」とは「きちんと話すこと」と「きちんと聴くこと」。

嫌だと思ったことや、相手に対して変だと思ったこと、自分がどういう考えをもっているかを「きちんと話すこと」。

話すには勇気がいる。嫌われる可能性や、ときには怒る人もいるだろう。

けれど、無関心・無関係な態度をとることは、社会から孤立につながっていく。

一方、自分が何か言われたときには、苛立ちや不安を抑えて、言われた内容についてよく考える。

冷静に客観視できれば、自身のバイアスに気づかされるかもしれない。

相手が違うと思えば、また、きちんと話す。

話し手と聴き手は、常に入れ替わる。

バイアスに気づいて、自分が悪いと思っても、すぐに直せないかもしれない。

頭でわかっていても、体が反応してしまうのがバイアスだ。

だから、何度も話す必要がある。

「対話」は大変な作業である。

戦争よりも平和を維持することのが大変なのは、歴史を見れば明らかだ。

「大変だ。だけどやらなくてはいけない」というバイアスも必要だ。

そういう希望を持たなければ、この分断の時代は超えられない。

緋片イルカ 2023.3.20

SNSシェア

フォローする