※あらすじはリンク先でご覧下さい。
※分析の都合上、結末までの内容を含みますのでご注意ください。
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【ログライン】
突発的に笑ってしまう持病がありながらも母の介護やパフォーマンスの仕事に勤しむアーサーは、同僚から貰った拳銃で暴行を加えてきた証券マンを射殺したことで吹っ切れ、夢だったコメディアンを本格的に目指したり、父親探しをしたり、恋人を作ったりと社会と対峙していくが、母親の話が嘘であったり、恋人が幻覚であったり、憧れのコメディアンから馬鹿にされたりといった形で裏切られ、ジョーカーとして覚醒し、悪のカリスマとして暴徒たちに祭り上げられる。
【フック/テーマ】ジョーカーの過去/社会の生きづらさ、恵まれないものの心情を恵まれた人間は理解できない(その逆も)
【ビートシート】
Image1「オープニングイメージ」:「少年たちから暴行され、倒れたアーサー」ピエロのパフォーマンスの仕事をしているアーサーは、不良少年たちに看板を盗まれ、追いかけたところでリンチにされる。倒れたアーサーを背景にタイトルが出る。
GenreSet「ジャンルのセットアップ」:「少年たちによるリンチ」バイオレンス、サスペンスであることをセットアップ。
Premise/CQ「プレミス」/「セントラル・クエスチョン」:「狂っているのはぼくか、それとも世界か?」世界との向き合い方、狂気の捉え方などを巡るストーリー。
want「主人公のセットアップ」:「コメディアンになりたいんだ」市の福祉によるカウンセリングで、カウンセラーに日記を見せる際、『コメディアンになりたいんだ』と打ち明ける。彼は日記にジョークのネタなども書いていた。カウンセリングの最後に『辛いのはたくさんだ』という切実な気持ちを打ち明けるが、町の治安や貧富の差は酷い状況である。帰宅中のバスの中で、アーサーは神経の損傷から突然笑い出す病気を患っていることが明らかになる。帰宅後、アーサーと二人で暮らし、世話を受けている母親からトーマス・ウェインから手紙の返事があったかを訊かれる。母親は何度もその男に助けを求める手紙を出しているようだ。
Catalyst「カタリスト」:「ランドルに銃を貰う」少年たちにリンチにされた話を聞いた同僚のランドルに拳銃を貰う。断るも押し付けられる。
Debate「ディベート」:「銃暴発」好きな芸人、マレーの番組を見ながら拳銃で遊んでいると、暴発してしまう。また、それ以外にも黒人の女性ソフィーとの出会いや、仕事をクビになるなどの、アーサーを惑わす出来事が色々と起きる。
Death「デス」:「証券マン殺害」電車の中で絡んできた証券マン三人を射殺し、駅から逃げる。逃げた先で踊り出す。
PP1「プロットポイント1(PP1)」:「漫談に出演」証券マンを射殺したことで何か吹っ切れたのか、コメディアンになるための具体的な行動として、漫談に出演する。初めは持病の発作で危ぶまれるも、最終的にはウケる。
F&G「ファン&ゲーム」:「この街のヒーローよ」帰り道、自分の事件が新聞記事になっているのを目撃。漫談を観に来ていたソフィーから『この街のヒーローよ』と言われる。通りすがる車の中にいたピエロの仮面を被った男と目が合う。
Battle「バトル」:「社会や自分の過去や未来と向き合い、戦う」母の手紙に、ウェインが自分の父だと書かれていたのを見て、彼に会うが否定されて殴られる。刑事が取り調べに来たことで母が倒れて入院してしまう。マレーのショーで自分の漫談が笑い者にされるのを見てしまう。
MP「ミッドポイント」:「マレーの番組に招待される」自暴自棄になり冷蔵庫に入ってしまった(何故?)ところで電話が掛かってきて、先日の漫談の評判が良かったとのことで、マレーの番組に招待される。
Reward「リワード」:「マレーの番組への出演権」
Fall start「フォール」:「母の過去を知る」精神病院で母の記録を奪い、その過去を知ってしまう。アーサーは養子で、父から暴力を、母からはネグレクトを受けていた。
PP2(AisL)「プロットポイント2」:「母を殺害」入院中の母に「何がハッピーだ。幸せなどなかった。ぼくの人生は喜劇だ」と言い残し、枕を押し付けて殺害する。
DN「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」:「ピエロのメイク」音楽を聴きながら、楽しげにピエロのメイクをする。
BB(TP2)「ビッグバトル(スタート)」:「ランドルとゲイリーが訪ねてくる」メイクの途中で、元同僚のランドルとゲイリーが酒を持って訪ねて来る。ゲイリーはアーサーを心配していたが、ランドルは証券マンを殺害したのはアーサーだと気付き、自分が拳銃を渡したのを警察に話さないよう口裏あわせを頼みに来たようだ。アーサーはランドルを殺害し、ゲイリーは逃がす。
Twist「ツイスト」:「逃走劇とマレー殺害」ジョーカーとして覚醒したアーサーが階段で謎のダンスを踊っていたところ刑事二人がやってきて逃走劇が始まる。電車内で刑事たちがデモ参加者たちにリンチにされたことで事なきを得る。その後アーサーはマレーの番組に出演し、世の中のおかしさを主張して、自分を馬鹿にしていたマレーを射殺。
Big Finish「ビッグフィニッシュ」:「暴徒たちに祭り上げられる」マレー殺害をきっかけに街で暴動が巻き起こる。そんな中逮捕されたアーサーは警察に護送されていたが、暴徒たちの襲撃で助け出され、祭り上げられる。
Epilog「エピローグ」:「理解できないよ」精神病院のような場所で笑っているアーサー。看護師のような女性にどうしたのか訊かれ、「ジョークを思い付いた」と言う。そしてその内容を訊かれるも、今度は「理解できないよ」と。
Image2「ファイナルイメージ」:「血みどろでコミカルに逃げ回るジョーカー」看護師を暴行したのか殺害したのか、血みどろで歩いていたアーサーは職員に見つかり、コミカルに逃げ回る。
【作品コンセプトや魅力】
ジョーカーという人気キャラクターのルーツを、人間味のある過去として描いている。本来共感不可能な狂人を、元々は人間らしい弱者だったという設定にすることで共感させ、社会や世の中の矛盾を説いている。
【問題点と改善案】(ツイストアイデア)
アクト2が何の話なのかが曖昧なように思った。自分のかこや社会といった現実との対峙なのだとは思うが、証券マン射殺してコメディアンとして人前に出る勇気が出たということなのだとしたらあまりピンと来なかった。父親探しをメインにした方がスッキリする印象。
【感想】
構成的にはイマイチな部分もあるが、個人的には勢いがあってかなり好きだった。映画そのものではなくジョーカーに対するイメージの違いでも好き嫌いが別れそう。ぶっ飛んだキャラクターなだけあって扱いが難しそうだと思った。
「好き」5「作品」4「脚本」3
(脚本太郎、2026/5/28)
分析会にて
担当・進行:脚本太郎
●ライターズルームの統一見解
●スリーポインツ
PP1:職場を去る(38分/32%)
MP:冷蔵庫に入る(69分/60%)
PP2:母を殺害(81分70/%)
●担当者コメント
最初は退屈なシーンも多く、アクト2に入ってからも何をしたいのかが明確ではなく(実際PP1がとこかの意見がかなり割れました)、ジョーカーというアイコンがなければ取っつきにくい作品だったかもしれませんが、ジョーカー(アーサー)の人間性が魅力的で、一部のビートは取りにくいものの、構成自体は意外と分かりやすく、証券マン殺害以降は観やすかったです。ミニプロット寄りでもこういったものもあるのだと勉強になりました。最初はあまりビートを意識していないのかと思いましたが、皆で議論を深めてみると、構成的には筋が通っていることに気付き、むしろアクト2が迷走ぎみであることをミニプロット的に上手く描いているのかもしれないと思いました。
| 好き | 作品 | 脚本 | |
| 雨森 | 4 | 5 | 4 |
| 米俵 | 5 | 5 | 4 |
| 太郎 | 5 | 4 | 3 |
| さいの | 3 | 4 | 3 |
| しののめ | 3 | 5 | 4 |
| 山極 | 4 | 4 | 4 |
| イルカ | 5 | 5 | 4 |
| 平均 | 4.1 | 4.6 | 3.7 |
イルカより
イルカの過去の分析
映画『ジョーカー』(三幕構成分析#30)
個人的には過去に分析をしていて、構成上の捉え方はも、個人的な感想や印象もずいぶんと変わりました。
まずは構成の補足から。
PP1とデスについて
PP1/PP2に関しては、ライターズルームの見解とほぼ一緒です。アクト1は社会の低層で暮らしていたアーサーが、銃をもらい、サラリーマンを殺してしまった「デス」、それをきっかけにアクト2に入っていくという構造です。よくあるパターンとして、アクト1の主人公は「問題を抱えているが、行動できないでいる状態」であることが多く、その問題と向き合わない限り、主人公は追い込まれていく、その限界点に「デス」というビートが置かれます。他の人の死など(例えばコメディアン仲間が死んでしまう)があって、主人公は「このままでは自分もやばい、変わらなくては」と決意するのです。「デス」=「死」というのは象徴であって身体的な死だけではありません。「会社をクビになる」など、象徴的な死も含まれますが、ともかく、主人公が「デス」を体験することによって決意するのです。主人公が死なないのは、死んだら作品が終わってしまうからで、転生ものなどファンタジーやSFであれば、主人公自体が死んでしまう「デス」が置かれることもあります(その場合でも、カタリストで死ぬことが多い気がするが)。また、神話論でいえばグリム童話「いばら姫」の眠りなどは「デス」で主人公が死ぬことに相当します。主人公が死んでしまっているので、王子様のキスを待つしかないのです。
今作の「デス」では、アーサーが能動的に人を殺しています。これは「デス」が「ターニングポイント1」として機能しているパターンです。よくあるパターンの主人公であれば「変わるに変われない
」悩みを抱えていた主人公が、他人の「デス」を見て決意するので、「デス」と「ターニングポイント1」は機能としてはかなり似ています。主人公が本気の決意をすることによって、「非日常」であるアクト2の世界に入っていけるのです。同時に新しいwantが発生し、その動きが「バトル」をつくり、MPに向かっていくのです。アーサーの場合は「キレている」かんじで「決意」と同時に人を殺してしまっています。ゆっくりしたアークの『ジャーカー』を想像するのなら、「デス」でサラリーマン達からボコられて、悔しい思いをして「これからは俺も思うままに生きてやる」と決意して、アクト2に入っていくというアークも想定はできます。その場合、アクト2では「思うまま」の頂点として、サラリーマンに復讐したり、母を殺す展開も想定されます。ですが『ジョーカー』としての魅力は劣りそうな気がします。今作の「キレて殺す」方がジョーカーらしいといえます。
ちなみに、イベントが物語を動かすストーリードリブン、キャラクターが動かすキャラクタードリブンという言葉がありますが、実質はイベントとキャラの感情変化の繰り返しで物語は成立します。○○ドリブンというのを、ストーリーのタイプに当てはめる人がいますが、これは、どちらかに偏ってしまっている作品を指摘するときに使われるべきだと思っています。例えば、ミステリーやアクションは、ストーリードリブンになりがちではありますが、だからといってキャラクターの感情が疎かになってしまってはいけないので、アクションのすべてがストーリードリブンでいいという使い方ではなく、キャラクターが疎かで「ストーリードリブンになってしまっている」と使うべきです。
話を戻します。
うちのビートシートでは「ターニングポイント」という用語を採用しておらず、「プロットポイント」をつかっています。これらの用語が似ているのは、そもそも「三幕構成」と「ビートシート」を提唱している人たちが別グループであることに起因しています。要はいろんな人が、いろんなことを言っているのです。うちは、使えるものは何でも使う方針なので全体像をつかむときには「スリーポインツ」を重視し、より細かいアークをみるときには「ビート」を使うようにしています。ライターズルーム統一見解のPP1「職場を去る(38分/32%)」は、言葉でとるとわかりづらいのですが、ショットとしてとったものです。「アーサーがピエロの会社で片付けを終えて、階段を下りていくショット」からPP1=アクト2に入っていったというショットです。PP1は「入っていく」「出ていく」といった、非日常への入り口を表現するものを、潜在的に演出することが多いため、こういうショットが入ることが多くあります。分析会でもう一つ指摘されたのは、サラリーマン達を殺したあと、トイレで踊り、そのあとの「トイレから出ていく背中越しのショット」です。指摘はありませんでしたが、その直後には「隣人の女性の扉に入り、キスをする」というシーンもあります。時間順に並べ替えると、
1:殺人をした後、トイレから出ていく
2:隣人の部屋に入り、キスをする
3:会社をクビになり、職場を去る
どれも、3つともPP1的なショットと言えますが、僕が採用するのであれば1の「トイレから出ていく」にします。ここはBGMとスローモーションがかかり、いかにもアクト2へ入っていくかんじで、演出的にも「ついにジョーカーになった!」という「ファン&ゲームズ」にもなっています。ただし、3の「職場を去る」が間違いかというと、そんなことはなく、ここでもBGMはかかっていますし、階段を下りた先、ドアの向こうは、光り輝いていて、新しい世界に入っていく感はとても強いといえます。物語の構造と違い、演出的なショットではここをPP1としようという意識で作られていることはあまりなく、主人公が新しい世界へ踏み出していくときには、無意識的な演出として「出ていく」「入っていく」というショットになりがちということで、2つ「PP1」っぽいショットがあってもかまわないのです。これも先述したように「デス」での「ターニングポイント」感が強いことに派生して出てきている違いとも言えます。これも「よくあるパターン」であれば、PP1は「ここだよな~」とブレることはあまりないです。
分析を作業としてやっている人には、PP1を書くときに、どうすればいいんだ?という疑問も浮かぶとは思います。
ハリウッド式の「ビートシート」だけを採用しているなら「デス」がないので「サラリーマン達を殺害」を「ターニングポイント1」として、すんなりとれます。
「三幕構成」を採用していて「プロットポイント」しか使わない人も同じように「サラリーマン達を殺害」としてしまいそうですし、僕の過去の分析もそれに近くなっています。僕の過去の分析表では、分析表のPP1のラインをPP1より下のセルに引くようにしていましたが、ある時期から上のセルに引くように変えました。なので、「コメディアンとして舞台に立つ」からがPP1という書き方になっています。当時はショット単位でのPP1までは考えていなかったので、今ではやや違和感があります。
今回の分析会を経て、今の僕なら「PP1」には「(サラリーマン達を殺して)新しい居場所探しを開始」とします。
前半では括弧書きで「デス」の内容について触れています。「デス」でも、PP1の文章にも殺人のことを触れていくことが大事だと感じたからです。こういう書き方を許容すると、何でもかんでも説明的で長い文章にしてもいいのだと勘違いしてしまう人がいるかもしれませんが、今作の「デス」がよくあるパターンとして違って「ターニングポイント」的な意味合いが強いことまで理解した上で、「あえて書いているのだ」ということは理解してほしいと思います。あくまで基本は、シンプルな一言、箇条書きのように書く方が良いと思います(ごちゃごちゃ書くクセがつくとビートを掴むセンスが養われない)。
後半の文章にある「居場所探し」というのは、別の言い方もたくさんありえます。分析会では、僕が横やりを入れてPP1の文章は「○○開始」というかんじにすると良いと伝えてたので、そのリアクションであがった例をあげておきます。
「社会と向き合う」
「アイデンティティを探す」
「承認を目指す」
「父親探し」
「人間性喪失」
どれも「○○開始」の○○に入れる言葉の感覚として読んでいただき「居場所探し」よりもしっくり来る言葉があれば、それで良いと思いますが、「ビート」との関連は意識した上で言葉選びをして欲しいと思います。PP1での「○○開始」は、主人公の「デス」での決意を受けて、新しいwantに基づき、アークをつくっていく流れを掴んだ言葉であるべきです。
アクト2のアークについて
話が戻るようですが、もう一度、丁寧にアーサーのアークを考えると、サラリーマンにキレて殺してしまったことから変化は始まります(念のための確認ですが、その「きっかけ」を作っているのはカタリストである「銃をもらう」ことです)。まずは殺人直後のシーンを追っていきます。
1:「逃走」
サラリーマンを撃った直後、キーという不協和音とともに頭を押さえます。「くそう」とつぶやいていて、発作的に殺してしまった後悔の念も見えます。その後、走って逃げるシーン。まずは階段を上がる。この映画では階段は象徴的に使われているので、階段を上がろうとするのは、社会に適応しようとする気持ちの提示ともとらえられます。殺してしまったことに対して「逃げなきゃ」という気持ちは適応の気持ちであり、脚本的にとらえるなら、アーサーが殺人を行う場は地下鉄のような低い場所でなければならなかったということです(創作でははこういう意味づけも意識してシーンを考えられると魅力的になります)。階段に意味があるなんて、こじつけのように感じる人もいるかもしれませんが、作中に何度も現れるモチーフは、意図的な演出と解釈できます。映画は編集でコントロールできますので、何度も入るということは意図的に残していることが多く、他の階段シーンと比べてみると、意味が一貫しているのであれば、明らかに演出です。一貫しておらず、ブレテイル場合は、コントロール不足か、作者の無意識的な好みの表れなだけの場合もあります。そこは、前回の分析会解説で触れた作り手への信頼度に関わります。
また、話が逸れましたが、階段の後、トンネルを抜けて、町中を走り、トイレに駆け込みます。
2:「トイレに入る」
呼吸を整えて、やがて踊り出す。これはホアキン・フェニックスのアドリブだったそうですが、ジョーカーと踊りの関連は言うまでもなく、そもそも、踊りというのは精神の解放も意味します。
3:「出ていく」
先述したPP1のショット。踊るときのBGMの流れでスローモーションもかかりながら、扉を出ていく。観客にはジョーカーとしての始まりという印象も受けますが、正確にはこの時は、まだジョーカーの名をもらっておらず、アーサーが何かを解放して新しい自分になったのです。
4:「隣人の部屋侵入、キス」
これもPP1のショット。このサブプロットは妄想であり、僕の初見の印象がかなり悪かったのですが、その要因となっているのは、PP1として変化したアーサーが直後にやったことが「女性へのキス」であるからです。もう少し、サブ的な位置(ピンチ1とか)に置いていれば、アーサーの内面を象徴するサブプロットとして効果的にできたと思うのですが、ここに置いてしまっているのはかなりのマイナス作用だと思います。また、人によっては「ここから、すべてがアーサーの妄想だ」という解釈をする人がいるそうですが、それは『キング・オブ・コメディ』に引っ張られ過ぎで、丁寧に分析をしていない人の乱暴すぎる素人意見だと感じます。続編があること(アーサーが刑務所にいるところから始める)はもちろん、回想や妄想は、入りと戻りが丁寧に編集されている(観客が混乱しないようにしている)ので、作り手がそんな解釈を求めていないことは明らかです。
5:「職場」
前日の殺人事件が話題になっています。この時の、アーサーは肝がすわったというか、失うものが何もない態度で、すでにアクト2に入っているかんじがあります。タイムカードをぶっこわして、階段を下りていきます。先述したショットは、アクト2に入ってる感から、PP1のショットとしては採用しづらいと僕は感じますが、ここから「コメディアンになる」というアークが始まると捉えるのであれば、ここを「PP1」として捉えることも可能です。その場合、コメディアンとしてFalse victoryとして「テレビにアーサーが映った」(出る方ではなく、病室で見ている方のシーン、ここでジョーカーという名前をもらっている)などと調整する必要があると感じます(この捉え方をする場合、ジョーカーになるということも、社会最大のピエロになるというような捉え方をするべき)
6:「ウェインをテレビで見る」
クスリ(最後のクスリ?)が映るが飲んだのかどうかは映らないので不明。あとで飲むのをやめているという台詞があるが、この段階でどうなのかは不明。母に呼ばれてテレビを見る。ウェインが、社員を殺されて犯人を卑怯者呼ばわりしている。ジョーカーは足を揺すってイライラしています。この段階では「父親探し」は始まっていないので、アクト2を「父親探し」のアークとするなら、まだアクト1にいるという捉え方になってしまうので、「父親探し」は明らかにアクト2のメインプロットではないといえます。
7;「福祉局で面談」
相談員と話す。ピエロの時の名前が「カーニバル」だった、誰も僕を見てなかった、僕は存在するのかと感じていたと話す。相談員は自分の話を聞いていないと主張を始める。「僕はずっと、自分が存在するのか分からなかった」「でも僕はいる」「世間も気づき始めた」と。これらは殺人によって、社会での自分の居場所を感じていることを表しています。「コメディアンになりたい」というのは前の面談でも言っているので新しいwantではないが、殺人以降、能動的になっているのが変化として見えます。
8;「コメディアンとして舞台に立つ」
殺人以降、「ジョーカーになったのか?」という観客の期待をよそに日常的なシーンがつづいてきました。アーサーのリアクションには明らかに変化が出ているので、アクト2に入っているといえますが、アーサーが行動として新しいことをしないので、物語が停滞しているようにも見えます。それが、明確な大きな変化なのが、この舞台に立つシーンだと感じられます。
ここまでを整理すると、殺人以降、アーサーの中で何かが変わったのは明らかですが、その後、動き出しまでに時間がかかっているという印象です。
4:「隣人の部屋侵入」ではラブプロットが始動(しているように見える)
5:「職場を去る」→8「コメディアンとして舞台に立つ」
では、コメディアンになるというアークが動き出しているが、5の段階では辞めているだけで、これからどうするかが語られていないので、方向性が示されていないので停滞感がある。
6;「ウェインをテレビで見る」
これも、父親探しのアークの前フリではあるが、まだ始動しているとはいえない。フリ段階なので、停滞感がある。
7に至っては、内面の説明的な会話シーン。これぐらいの位置に置くのは悪くないが、メインが停滞しているなかで、置かれると停滞を助長しているように感じる。
上記から、ようやく動き出したと感じるのが8の舞台に立つシーンからで、過去の僕分析では、ここからをPP1としていました。今回、改めてみると物語として停滞はしている(ストーリードリブンが弱いといえる)、とはいえアーサーの感情としては、アクト2に入っているのは明らかなので、PP1はやはり殺人直後としてしまって良いと思いました。その上で、アクト2のアークを考えると、「コメディアンになる」(社会での居場所探し)、「父親探し」(家庭での居場所)が大きなアークで、それらをまとめて「居場所探し」としました。「アイデンティティ」という言い方も違和感はありません。殺人以降、能動的に社会に関わっているので「社会と向き合う」というのも悪くないと思います(父親のところを社会という言葉で拾い切れているかが、少しだけ引っかかる)
「人間性喪失」という言葉に関しては、分析会でも伝えた通り、やや違和感があります。PP1の殺人以降で、どんどん「人間性を喪失しているか?」というと、アーサーはむしろコメディアンになろうとしたり、父親とつながろうとしたり、積極的になっています。ビートのつながり(つまりPP1からのアークとMPのつながり)を、やや掴めておらず、作品全体を捉えていったのだとしても、アーサーがジョーカーになったということは「人間性を失った結果なのか?」と問うと、やはり違和感があります。アーサーは極めて繊細で傷つきやすく、人間的に見えるし、むしろジョーカーになってしまったのは、繊細すぎる人間が社会になじめなかった結果だと感じます。人間性を喪失してなったのではなく、むしろ人間的すぎるからこそ、なってしまったという気がします。マレーがジョーカーに殺される直前に言っている台詞。”What do you get when you cross a mentally ill loner with a society…”「精神を病んだ孤独な人間と社会を掛け合わせると何ができるか……」というのが、この作品を象徴しているようにも感じます。
この言葉を挙げてくださった方は、感覚としては理解はしていると思いますが「人間性」という言葉の問題だとは思います。仕事もなく、家族を失い、精神病を患い、困窮もしているアーサーを「人間性を失った」という言葉で掴むことはできなくありませんが、辞書的にも一般的な使われ方の「人間性」とは、ややズレているような気がするので、違和感をもちました。ただし、「人間性とは何か?」という議論は、哲学的な話になっていくので、ここでは、これ以上は避けたいと思います。
MPについて
ミッドポイントは、PP1以降、始まったアークの頂点あるいは中継点という感覚が一つの基準です。
アクト2のアーサーのアークは、もちろんうまくはいっていないので、上昇しているというよりは、下降している印象ですので、落ちきった点という感覚が参考になるかと思います。
候補として、分析会で出た案も含めて、いくつか挙げてみます。
1:「マレーの番組で取り上げられて、馬鹿にされる」
これは「コメディアンになる」というアークの落ちきった点であり、その後、番組から出演依頼は「フォール」(登り始めとなるフォール)として綺麗に整います。
2:「劇場の廊下で踊る」
分析会であがった意見。劇場という場所にミッドポイント感があるし、ジョーカーらしいダンスが入っているのや、喜劇王チャップリンが映るのも、演出的にはMP感はあります。例えば、アーサーが招待されて劇場にきているのであれば、「認められた」「居場所を見つけた」というアッパーなかんじになりますが、そうではないので、ストーリー上のビートとしては違うかもと感じます。ただし、主観と客観がズレているアーサーというキャラとしては、面白い捉え方でもありますが。
3:「ウェインに殴られる」
「父親探し」というアークであれば「父親に会う」となり、「殴られる」は「フォール」になりますが「会う」という言い方をしている方はいませんでした。「父親探し」は、母の手紙を見て以降の始動なのでサブプロットですし「父親に会う」という言い方よりも「殴られる」が相応しいと言えます。僕もここをMPとします。理由は後述。
4:「冷蔵庫に入る」
ライターズルームの統一見解です。コメディアンのアーク、父親探しのアーク、いずれも失敗して底に落ちたときの描写シーン。引きこもるように冷蔵庫に入る(ちなみに、これもホアキンのアドリブらしい)。ショットとしての、一番、落ちている点という取り方であれば、ここになるかと思いますが、PP1同様、ビートシートつぃてはショットとしての感覚よりも、ストーリーとしての印象を優先した方が分析としては有益だと感じます(こういうシーンを思いつくようにという参考としては良いと言えます)。
ということで、僕は過去の分析と同じ「ウェインに殴られる」としますが、意義を補足しておきます。
アーサーは母子家庭で、父親はいないまま育っているので、父親の欠如、父親探しは潜在的なテーマである。始動するのはサブプロットであり、構成上はメインテーマではないと言えるが、潜在的なテーマとしては、父親の不在、父親殺しがある。もちろん父とはキリスト教観と重なり、だから欧米には刺さりやすいストーリー。今作には、ウェインとマレーという二人の象徴的な父が登場していて、母がテレビを通して好意的に見ている。どちらも社会的な地位も高い。母がウェインが生活から助け出してくれると願っているが、アーサーにとっては母という呪縛から解放してくれる存在でもあったのかもしれない。そのウェインに否定され、殴られる。殴るという描写も「君の父ではないよ」と知るだけであれば、わざわざ入れなくてもいいが、入れてあるのは意味が強い感じもする。ウェインに否定された後、もう一人の父、マレーからの誘いがあり、そちらに近づいていく。MPで父に否定され殴られたアーサーは、アクト3の「ビッグバトル」では父を殺すことになる。ビート的にも、ウェインに会う前に、マレーに否定され、ウェインと会った後にマレーに誘われるというMPを挟んだミラー構造も見てとれる。「フォール」で出演依頼を受けたとき、アーサーがどこまで殺すことを考えていたかはわからないが、「やったーラッキー!」というテンションではなく、ここから殺人のアークが動き出しているといえる。それについては、次の項で。
「フォール」以降から「PP2」「アクト3」について
番組への出演を受けたあと、精神病院へ生き、ウェインが嘘をついているのか、母が嘘をついているのか、調べにいきます。結果的には、ウェインが正しかったように見えますが、後で登場する母の写真にはウェインからのものらしきサインがあり、やや疑問を投げかける形にしてあります。とはいえ、ストーリー展開上では、母が嘘であり、もう一つのサブプロットの隣人との関係が妄想であったことも自覚し、自分も主観と客観がズレていたこと、母と同じだといった感覚を持ち始めます。ミッドポイントまで、能動的に社会と関わろうととしていた言動とは違います。悲劇か喜劇は主観次第だという論点が何度か登場しますが、まさに、悲劇と思っていたことを喜劇だと思い直すまでのアークともいえます(この辺りは人間性の喪失という言葉にも言えそうではありますが)。そして、母親を殺し、能動的に結論を出します。母を殺すという能動性は、PP1で殺人を犯してなければ、できなかったことかもしれません。PP2は「母親殺し」で、象徴的なスリーポインツを書いてみるなら、
アクト1:社会に存在しないような生活
PP1:殺人により社会とのつながりを求め始める
MP:父親からの否定
フォール:社会との向き合い方の変化(悲劇と喜劇の逆転の過程)
PP2:母親殺し(過去との決別)
アクト3:犯罪者/喜劇王になる
といった、解釈もできそうです。
「アクト3」については、細かく言うまでもないので、過去の記事、太郎くんの分析に譲りますが、1つだけ引っかかる点は、感想の項で述べます。
イルカのスリーポインツまとめ
PP1:「(サラリーマン達を殺して)新しい居場所探しを開始」
MP:ウェインに否定されて殴られる
PP2:母を殺害
感想など
この映画の公開当初、賛美する人が多くて、同調圧力のような気持ち悪さを感じていたことを思い出しました。今作はアークプロットを使って「社会から虐げられた人が暴れることは正しい」というテーマを肯定するプロパガンダ映画のようで、日本では実際にジョーカーを真似した事件も起こりました。よく、こういう映画は子供などに悪影響を与えるという人たちがいて、それをバカにするように芸術とはそういうものじゃないといった反論があります。悪者を描いたからといって、そのまま子供が悪者に憧れるという単純な構造をもっているとは全く思わないけれど、例えば、アーサーのような鬱屈を抱えた若者がいて「それでも、頑張って生きていこう」というメッセージの込められた映画と「暴れることは正しい」という映画を見たときに、テーマの掘り下げが同じレベルの完成度で描かれていたら、見た映画に影響されやすいと思っています。ここで注意しなければいけないのは、完成度が重要で、学校などで見せられるようなマナー映像のようなものが、そのまま観客に影響することは少ないということ。運転免許更新のときに見せられる事故映像などで、価値観が変わるか?と言われると「気をつけないとな~」と思う程度でしょうが、交通事故による悲劇的なストーリーを高い完成度で見せられたら、「もう、スピード違反は絶対にやめよう」と思える可能性は高い。完成度の高さとは、その人を洗脳する強さみたいなもので、物語には人の価値観を変えてしまう力があるのです。感動というのも、それに近い。物語なんてフィクションなのに、その話を見て、涙を流すというのは、見た人の身体にまで影響を及ぼしているのだと考えると、その力の凄さがわかります。幸いにして、多くの人は、他人を洗脳できるレベルの作品を作れることは稀です。映画レビューを見れば、その通りで、★5もつけば、1をつける人もいる。少数ならともかく、何万人が★5しか付けない映画など、独裁国家の選挙のようです。『ジョーカー』は完成度の高い映画だと、改めて感じました。前回も、素直に認めたくないと感じたのは、そのことを肌感として感じていたからこそ認めたくなかったのだと思います。そのことは、今回見ても、やはり作り手の「視点」に、この作品がどういう影響を及ぼすかという立場に欠けていることを感じました。一つだけ「ツイストアイデア」としてあげるなら、アクト3で暴動の中で、アーサーが立ち上がってジョーカーとなる(口を赤く塗る)シーンで、カットバックでブルース少年のアップを映すことです。これだけでも、ジョーカーのアンチテーゼとしてのバットマンの存在を予感させられて、作り手がジョーカー以外の「視点」をもっていることがわかります。この話を分析会でしたら、ブルースが映っているショットがあると言われましたが、それは次の面談中のシーンで、面白いジョークが思いついたという中で、遠いショットでブルースが立っているショットが差し込まれます。ジョークの内容は明かされませんが、今後のバットマンとの闘いを予想させる意図はありつつも、ジョーカー主導のイメージに過ぎず(厳密にいうとジョーカーがウェインを刺した訳ではないので回想ではなくイメージ)、対立項としては機能していません。作り手は、フィクションのジョーカーというキャラに真摯に向き合い、掘り下げて作り上げただけなのかもしれませんが、その結果が、こういう作品を生んでしまうことに、面白さと怖さを感じます。おそらく、ジョーカーに共感する人は世界的にものすごく多く、社会の格差は公開当初よりも広がっているので、今のがもっと多いかもしれません。フィクションのジョーカーに憧れているうちは、まだ健全の方で、実際は、映画ではない政治家やインフルエンサーなどの「ストーリー」に乗せられています。一部の人のことを言っているのではなく、人間誰しも、ストーリーの影響を受けないことなどなくて、僕のこの価値観だって、過去にみた作品や、出会ってきた人との関係からできあがってきたものです。大切なのは、他人のストーリーに呑まれないことだと思います。自分で自分のストーリーをつくること。手放しで賛美することは、自分の人生を誰かに委ねてしまうことにもなるのかもしれません。改めて見てみて、そんなことを、いろいろ考えさせられる映画でした。今回の分析にあたって『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』も初めて見ましたが、こちらが駄作であることは、ある種の安心すら感じました(駄作なのは、作り手の視点が変わったとかではなく完成度の低さ)。
分析会について。日頃、課題として提出してもらっているだけだと、なかなか見識が深まらないと感じたので始めたライターズルームでの分析会。3回目ですが、話を聞いてみると、感じていることなどは、みなさん似ているし、同じような感じですが、言語化したり体系化したりする部分で、ゆるさがあると感じています。分析会ではスリーポインツだけにしているのは、会の時間が足りないだけでなく、何より、全体構造をしっかりと掴む感覚がないと、ビートやキャラクターアークも拾えないという感覚を掴んで欲しいからです。『ジョーカー』は見心地はわりとシンプルで、ビートの位置だけ拾えば、「だいたいこの辺でしょ?」と簡単なものですが、それは「点」だけを掴んでいるようなもので、物語がどういう構造をしていて、どういうアークでつながっているかという「線」を意識すると、なかなか難しく、構成上、ブレたりしているところもいっぱいあります。そういう意味では、とても良い題材だったとも思います。いまいち、しっくり来ていない人は、納得いかないところ、違和感があるところなど、すっきりするまで真剣に考えたりしてみると良いと思います。作り手が悪いという評価を下すのは、簡単で、自分の成長を止めます。まがいなりにも、大ヒットしているし、受賞もしている映画です。多くの人が、この作品のどこを、どういう風に評価しているのかを、細かく掴んで、良いところは真似したり、悪いところは真似しないように注意するのが、分析を創作に活かすということです。学校の課題のように、ビートの答えがあって、寄せ合って、答え合わせをする会ではありません。この辺りを、改めて意識していただけると、分析会が、気づきや成長の場として、より良くなっていくと感じます。引き続き、続けていきましょう。続けることも何より大事ですし。
イルカ 2026.6.3
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