同作会の方と話していた中で、気づいたこと、感じたことを残しておこうと思います。
今回はシーンで「時空」すなわち「時間」と「空間(場所)」をセットアップすることの意味です。
「時間」と「空間」を合わせて「時空」と呼ぶことは一般的ではありませんが、個人的に呼び慣れているので、そう呼んでいます。
以下にくわしく説明していきます。
柱の書き方
映像脚本を書いたことあれば「柱」というものをご存知かと思います。見本を示します。
○喫茶店・店内(夕)
こういうものをシーンの一行目に書くのが一般的なルールとなっています。
目的は撮影場所を明確にすることで、○は撮影時にシーン番号を書き込むときの名残りです。
( )に入る時間帯は、ライティングのためのもので(早朝)(夕)(夜)(深夜)ぐらいです。は何もついていなければ暗黙に昼と判断されたりします。
日本の脚本ルールは「厳密なルール」ではないので、人や教える場所で、微妙な差異はあると思いますがなすが、脚本で「柱がない」ということは、ありえないといえます。
初登場の場所であれば、通常、柱のあとには、その場所の雰囲気を伝えるト書きが数行、入ります。
○喫茶店・店内(夕)
よくあるチェーン店。学生などで賑わっている。
とか
○喫茶店・店内(夕)
昔ながらの喫茶店で、タバコを吸う客が数人いるだけで空いている。
などです。柱の部分が同じでも、ト書きによって、どんな喫茶店かが変わります。
小説を書く人が脚本を書くと、勘違いして描写しすぎる人がいますが、ト書きの目的は、撮影場所の指定なので、細かすぎる説明は弊害があります。「二階建てのスタバで、窓から街並みが見下ろせる。」などあると、撮影時に「その条件の喫茶店を探さなくてはいけないのか?」となりますし、「タバコを吸って、競馬新聞を読んでいる初老の男性がいる」などと書かれると、登場人物の一人なのかと読み手に勘違いされます。
上に示した「学生などで賑わっている」というのも「近くに学校が多くて……」といった裏設定などを伝えたいわけでもありません。あくまで、読む人に「だいたい、こんなかんじのところね」と伝える感覚です。
以上、あくまで、脚本における柱の説明ですが、これを踏まえて、シーンの時空について考えていきます。
どこなの? いつなの?
出版されているようなプロの小説でも、ときどき「これ、どこなんだろう?」「時間帯はいつなんだろう?」と思うときがあります。
読んでいるうちに、自分の持っていたイメージと違って「あれ?」と思って、読み直してみたら、いつの間にかシーンが変わっていたりしたなんてこともあるのではないかと思います。
これは柱がある脚本では起こりません。シーンが変わるごとに、一行空けて、新しい柱を書くのがルールになっているからです。ちなみに書き慣れていない人の脚本は、パラパラとめくっただけで、柱がやたらと多いのが視覚的にわかることがあります。内容を読まなくても、一つ一つのシーンが薄っぺらいのではないかという可能性がみえます。
小説で「場面転換」が、読者に伝わっていない原因は、次の2つのうち、どちらかではないかと思います。
1:「そもそも作者自身が、自覚しないで書いてしまっている」
2:「説明したつもりになっているが、読者に伝わっていない」
1に関しては、論外とうか、物語に対する訓練不足のようなものなので、ここでは扱いません。他人の文章をたくさん読んで「あれ?」と感じたり、自分が書いたものを読んでもらって指摘されることで成長するでしょう。
問題なのは2です。
国語の読解問題であれば「きちんと書いてあるのだから、よく読みなさい」とも言えます。
実際、読者側のリテラシーが低いせいで、読み違えられるという場合もあります。
たとえば、時代小説で「羽釜」とあっても、映像が浮かばない人がいるでしょう(※わからない人はクリック→こういう鍋です)
映像として見れば「ああ~」となりますが、名称を知らなければ、読者に伝わりません。
知らなくとも「釜」という漢字から想像してくれる読者はまだ良い方ですが、羽釜を「はかま」と呼んで「袴」と勘違いするようなレベルであれば、読者側に問題があると言えそうです。(※まさか「袴」がわからない人はクリック→こういう服です)
ここで、作者として考えなくてはいけないのは「どういう読者を想定するか?」です。
時代小説に慣れていない読者を想定していれば、ていねいに説明してわかりやすくなるところでも、本格派の読者からしたら当たり前のことをくどくど説明されるのはうんざりです。
児童書であれば、大人が当たり前と思っていることでも、説明が必要になるかも知れませんし、挿絵が入るのです。
自分が想定したレベル、求められるレベルに、合わせなくてはいけないのです。
歴史に限らず、サイエンスとか芸術とか、専門分野のことは、作者がわかっていても、読者に伝わらないことが多々あるし、逆に専門性を発揮することが文章の魅力になることもありえます。
時空のセットアップ
作者の文章と、読者の読み方にはギャップがあることを示すため、知識の差を例にあげました。
読者には知識があるのに、説明が悪いために伝わらないという場合があります。
柱の説明で「喫茶店」の例をあげましたが、読者が「あ、ここ、喫茶店だったんだ。自宅だと思った」というようなパターンです。
こうなってくると責任は読者ではなく、書き手の方にあると言えそうです。
では、どのように情報伝達したらよいのか?
柱のように明記するというのはひとつの手です。
「ここは新宿駅の改札前。時間は午後の二時を過ぎたところ。私はある人からの電話を待っている。」
情報としてはわかりやすいので、入っていきやすい反面、小説の描写としては味気ない印象もあります。説明的です。
的確すぎる情報のせいで「私」が固い性格の人物に見え、サスペンスやハードボイルドの空気が出てしまっています。待っている「ある人」はデートの相手には見えません。
また、新宿駅にはたくさんの改札があります。西口なのか、東口なのかで雰囲気が違います。
作者がはっきりと「新宿駅西口の」と書いていたとしても、東口にしか行ったことのない読者は、勝手に東口のにぎやかな景色を想像するでしょう。
読んでいくうちに「あれ、新宿に公園なんてある? 新宿御苑?」と思ってしまうかもしれません。
こういった、小さいズレの積み重ねで、読者は物語の世界観から離れてしまい、やがて本を閉じてしまいます。
「読者のリテラシーが低い!」と切り捨てるのは作者の自由ですが、ズレを解消していくように描写していくのは描写のテクニックではないかと思います。
小説は、一方的な語りです。
目の前の相手に話してるのであれば、「わかる? 伝わってる?」と確認することもできますし、相手から質問してくれることもあるでしょう。
しかし、小説では、数万文字もの情報を一方通行で伝えなくはいけないのです。
学生時代にいつも眠くなってしまう先生の授業がありませんでしたか?
機械の音声読み上げみたいに、教科書の文章を読み上げているような語りには、耐えがたいものがあります。
このことを考えると、読者のリテラシーよりも、作者の技術の問題の方が、大きいのではないか?と思えてきます。
具体的な技術についてもいくつかありますが、機会があったら記事にしていきたいと思います。
緋片イルカ 2021/10/04