描写を考える⑥その他(文章#37)

7月に描写を考えるシリーズとして書こうと思っていたメモがあったので、簡単にまとめて覚えがきとしておきます。
今さら、ひとつひとつを記事にするモチベーションはなくなってしまいましたが、反響があれば、改めて記事にするかラジオで話すかもしれません。もちろん読書会などで質問していただければ答えます。

●カメラワークと描写の文量
小説の地の文と、脚本のト書きの関係について。ト書きで書いたものは必要最小限で、カメラに映される。映像化されたものでは、監督などによるプラスαが加わっている。これらの映像的なセンスは、小説の地の文の描写と関連する。すなわち、情景の描写などが多すぎる場合=映像ではちんたらと景色ばっかり映しているシーン。冗漫。無駄な描写が多い場合=余計なものが映り込んでいる。たとえば、重要でもないエキストラを大写ししたりすると、見ている側への印象が強すぎて、混乱の原因となる。もちろんミスリードのための演出ならともかく。また、映像的な演出=ライティングや色、形、象徴アイテムなどの使い方は、そのままシーン描写にも応用できる。とくに心理描写を重ねながら、情景を説明していくことは、小説の妙技だと思う。

●ウェルニッケ遊びとブローカー遊び
ウェルニッケ中枢とことばの関連=リズムについては前回の記事で書いた。ブローカー中枢の遊びとは要は言葉あそび。掛詞とかダブルミーニング。もう一つ、漢字などので字面であそぶ、視覚的な遊びも小説にとりこめると思う。

●感覚器官、五感
一人称に限らず、五感に関する描写というのはとても重要で、大切にしなくてはいけないと思う。五感には適応範囲があり、それは描写にも投影できる。たとえば、ラブストーリーで視覚描写は知らない人にもできるが、体臭や香水などの嗅覚描写はある程度、身体の距離感がないと出てこない。触覚、味覚しかり。これは重要テクニックなので、記事にするとしたら、上級編で書くと思う。

●言葉の哲学、白黒わける=わかる
たとえば、こんなような文章があったとする。
「憧れ」と「夢」はちがう。憧れというのは座って眺めているだけで、夢は手を伸ばしてつかむものだ。
こんな風に、似たような言葉や概念を、呼び分けることは、言葉をあつかう作家の仕事である。もちろん辞書的な定義に従う必要もない(それは学校の先生の仕事)。
同様に、以下のような文章もある。
「憧れ」も「夢」も真冬のコーヒーみたいなものだ。すぐに冷めて、苦さだけが残る。
これは比喩を使って、類似性を見つける言葉の使い方。さっきとは逆ともいえる。
こうやって、言葉をつかって、言葉の扱い方を生業とするのが作家。いわば哲学の哲学者のようなものである。

●作家の弁護、作家への論難
作家仲間に対してはひいき目に立ちたいという気持ちがある。拙い部分、粗い部分があったとしても、書いたことがない人間には絶対にわからない迷いや苦しみがある。いや、全く書いたことがない人は、作家を批判しない。中途半端な執筆経験がある人ほど、他人の粗を批判する。書くことに本気で取り組んで入れば、うまく書こうと思っても書けない現実と向き合っているから、弁護したくなる気持ちがある。同時代作家はみな仲間であるという意識もある。一方で、自身には技術の甘さは許したくないとも思う。プロとしての意識や、追及しつづけることが、やはり作家だとも思う。書くことに対する気持ちには常に寄り添う仲間でありたいと思う。けれど、技術に関しては仲間であれど、客観的でありたいと思う。

●セリフ描写。小説のセリフ
小説のセリフと、脚本や映像のセリフはまったく違う。後者は役者が読むためのもの。同音異義語は避けるべきだし、漢字にしないと伝わりづらい言葉などは、説明の仕方に工夫がいる。一方、小説のセリフは人間の発声としては不自然ではあるが、地の文からのリズムとして扱われることが多い。小説では許容されてしまっている部分だが、脚本出身の人間からすと、きもち悪いし、セリフでは生の言葉を残したいと思う。地の文とのバランスのとり方には、まだまだ研究が必要だと思う。

以上。

緋片イルカ 2021/09/19

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