「年の離れた妻」

 どうやら風邪を引いたらしい。妻は私が不調を訴えるよりも早くそれを察知した。
「大丈夫ですか? どこか痛みますか?」
「ああ」
 頭が響くように痛い。ちょっとした動きに合わせて激しく痛む。それを抱えながら全身が震える。悪寒だ。妻が会社を休む方向で処置を始めようとしたので声を荒立ててしまった。特に今日はどうしても休めない理由があった。妻はすぐに翻(ひるがえ)っていつも以上の手伝いをしてくれた。肌着を余分に用意して、食欲が無いのも自ずと配慮して朝食には白飯を熱い緑茶につけ梅干しがのせてあった。肌着を二枚も着られたものかと苛立ったが着てみたらそれが思いの外に暖かい。茶漬けも食べてみると飯粒が散蓮華(ちりれんげ)の裏でひしゃいであって餅のようで容易(たやす)く喉を通った。妻に何か言ってやりたかったが気配を感じない。構わずに出かけようとしたところで鉢合わせになった。どこかに出ていたらしい。
「もう行くのですか? お待ちになって」
 妻が手に持ったビニールをがさこそやり出したので、行く手を阻まれたように感じたがその考えは間違っていた。妻は栄養ドリンクを差し出した。その時の私の表情から妻は何か読みとってくれただろうか。一息に呷(あお)って空き瓶を渡した。
「今日は遅いのですか?」
「わからない」
 会議は午前中だったのでそれが終わったら帰るつもりと声に出すのが億劫だった。せめてもに言った。
「行って来る」
「はい」
 歩き出した私の背で扉を勢いよく閉める音がした。風に押されてそうなったのだが妻の気持ちが風に乗って聞こえてくるようだった。今はそれが症状を悪化させる原因のように思えてならなかったが。

 後始末まできれいに終えて会社を出たのは一時近くだった。気の張りも抜けていよいよ体が重い。明日は行くに行けないかも知れない。それは片面からすると煩わしいがもう一方から見れば愉快な気分にさせた。妻に言っておきたいことがある気がする。
 朝に妻が閉めた扉を同じくらいの強さを込めて開けた。男物の革靴が揃えてあった。私のものより上質なものなのか手入れが行き届いているのか薄暗い玄関でも黒光りしている。若々しい靴だと思った。礼儀正しく外向きに揃っているのがすぐに逃げられる準備のようだと思った。妻はリビングにいた。私の顔を見ると引きつったように驚いた。部屋の入り口まで来た妻は私の手から鞄を受け取った。
「早かったのですね」
「ああ、会議だけ終わらせて帰ってきた」
「そうですか、もう寝られますか?」
「ああ」
 部屋を覗くと妻の座っていた向かいに男が座っている。きれいな身なりをした若い男だ。私と目が合うと、申し訳なさそうに口を「どうも」と動かした。
「お昼はどうしますか? 何か食べていらっしゃいましたか?」
「お客さん?」
「え?」
 妻は若い男を振り返り、曖昧な返事をした。男はこちらを見たままもう一度小さく頭を下げた。妻へ向けてか、私に向けてか迷ったが二人に向けてだろうと思った。私はその男を無視して寝室に向かった。
「寝る」
 妻はついてきて、床に潜り込むまで手を貸してくれた。私はすっかり眠れる準備が整ってから聞いた。
「お客さんは? いいのかい?」
 妻はどうしてそんなこと聞くのかといったかんじだった。
「ええ。大丈夫でしょう」
 男について聞こうか逡巡して顔を見ていると、妻は私の考えを見通して付け足した。
「保険屋さん。入ってもらおうと必死だったから。少しぐらい待っていてくれるでしょう」
「そうか、ありがとう」
「おやすみなさい」
 私はさっきの男を思いだして、あの清潔な身なりは保険屋の印象にぴったりだと思った。妻を半ば強引に勧誘していたところに私が帰ってきたのなら、あんな表情も出るだろう。部屋を出て行く妻を呼び返して言った。
「あの男の話をよく聞いて、良さそうならばかけておくといい。ただし相手はよく選ぶんだよ。後悔しないようによく見極めるんだ。君は若いから」
 妻は何も返事をせずに出ていった。私とずいぶんと年の離れた若々しい妻は。
(了)

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