書籍『瀆神』ジョルジョ・アガンベン:ゲニウスとコズモゴニックアーク

『涜神』ジョルジョ・アガンベン

※商品内容はリンク先からどうぞ。

ゲニウス

「ゲニウスがわたしたちの生であるのは、わたしたちの生はわたしたちによって生み出されたものではなく、ゲニウスがわたしたちを生み出したからである」。もし彼がわたしたちと一体化しているように見えるなら、それはただたんに、その直後にわたしたち以上の存在としての姿をあらわすためであり、わたしたち自身がわたしたち自身以上でも以下でもあることをわたしたちに示すためである。ゲニウスにおいて暗示されている人間のとらえかたを理解することは、人間がただたんに〈私〉および個人的意識だけではなく、誕生から死にいたるまでむしろ非個人的で前個人的な要素と共生していることを了解することを意味している。すなわち、人間とは、(まだ)個人として生きていない部分と、すでに個人的な運命と経験によって印付けられている部分との複雑な弁証法によって生じた、二面性を持つユニークな存在なのだ。しかしまた、非個人的でいまだ個人化されていない部分は、何かわたしたちがそれからきっぱりと決別してしまい、記憶の力を用いて臨機応変に呼び戻せるような、年代的に過去に所属することがらではない。それは今もなおわたしたちのなかにわたしたちとともに現在しているのであり、良くも悪くも、わたしたちとは分かちがたく結びついているのである。(『瀆神』p.10-11)

わたしたちは主体をゲニウスと《私》が対極にある緊張の場として見守らねばならない。その場には、結合してはいるが相反する二つの力が通過している。ひとつは個人的なものから非個人的なものへと向かい、もうひとつは非個人的なものから個人的なものへと向かっている。ふたつの力は共存しており、絡まりあったり離れたりするが、一方が他方から完全に自由になることもなければ、完璧に同一化することもない。(『瀆神』p.14)

それでは、《私》にとって、ゲニウスについて表現する最良の方法は何だろうか。《私》が書きたがっていると仮定してみよう。あれこれの作品を書くのではなく、ただたんに書く、それだけでいいのだ。この欲求は次のこと、すなわち、《私》はどこかにゲニウスが存在していると感じているということ、書く行為へとうながす非個人的な潜勢力が《私》のなかにあると感じているということを意味している。しかし、ゲニウスが必要としている最後のものが作品なのだ。(『瀆神』p.14)

《私》が書こうという意識が強すぎると、それは個人的な言語表現になる。非個人的なものから個人的なものへと向かってくる力を、掴むために「意識の流れ」の手法が活用できると感じる。コズモゴニックアークとも呼ぶ。「剥離された言葉」は言葉にできないので、言葉にした時点で言葉として固着されてしまう。それでも、「ただたんに書く」ことで、ゲニウスの面影を言葉に宿すことができるかもしれない。芸術家が特殊なアプローチによってゲニウスを表現しようとすることもあれば、無為の素人が自覚もなく表現していることもある。

しかしながら、書くことによって、わたしたちはあれこれの作品の作者として自らを個人化し、ゲニウスから遠ざかる。ゲニウスは、けっして《私》という形式をとることができないのである。いわんや作者という形式をとることはなおさら不可能なのだ。ゲニウスをわがものにし、ゲニウスに自らの名で署名させようという、《私》という個人的要素のあらゆる試みは、必然的に失敗するべく運命づけられている。作品を解体し破壊することによってゲニウスの存在を証明する、アヴァンギャルドの作業のような皮肉な作業が的を射たものであり、成功をおさめているのは、このためである。(『瀆神』p.14)

大半の人間は、自らの非個人的部分を前にして、怖気づいて逃げ出すか、または、偽善者ぶって、それを自らの小さな器に押し込めようとする。そのとき、拒否された非個人的なものが、さらに非個人的な症状やチックのかたちで、さらに大きな傷として、再び現れるということが起こりうる。しかし、同じように滑稽で軽薄なのは、ゲニウスとの出会いを特権として体験する者、気取ってもったいぶってみたり、さらにひどいことには、授かった恩恵に偽りの謙虚さをもって感謝する詩人だ。ゲニウスを前にすれば、偉大な人間はいない。誰もが等しく小さいのだ。しかし、なかには、ゲニウスに体を揺さぶられ穿たれるままになって、崩れ落ちるまで気づかない者もいる。ほかには、非個人的なものを体現することを拒み、自分のものではない声に自らの唇を貸すことを拒む、よりまじめな、しかしだからといってそれほど幸せではない者もいる。(『瀆神』p.16)

感動するとは、わたしたちのなかにある非個人的なものを感じ、苦悩または歓喜、安心または動揺としてゲニウスを経験することを意味している。(『瀆神』p.18)

「魔術と幸福」で書かれている魔術、「審判の日」で書かれている写真も、ゲニウスと呼ばれているものとの関係について語っていると感じる。言葉にすることのできないものなので、呼び方は変われど、それらは同じもの。そして、論理的に説明したり、完璧に捕らえることはできない(完璧に同一化することもない)。(緋片イルカ2022.6.14)

※「助手たち」以降は読んでから追記予定。

瀆神礼賛

ちまちまと読んでいるうちに、一年近く経っていた。現在2023.5.27

「瀆神礼賛」はとても響いたので、とりあえず気になって付箋をつけた箇所を、読解の意味もこめて引用しておく。
太字はイルカの気になった箇所。

事物、場所、動物または人を共通の使用から除外して、分離された領域に移すものが宗教であると定義できる。分離をともなわない宗教といったものは存在しないだけでなく、あらゆる分離がその内部にひとつの純粋に宗教的な核を含有または保存しているのだ。分離を実行して統制する装置が供犠である。ユベールとモースが忍耐強く目録を作成した、文化の多様性に応じて異なる、一連の綿密な儀礼をとおして、それはどんな場合も、神聖でないものから神聖なものへ、人間の領域から神の領域へ何かが移行することを認可する。必要不可欠なのは、この二つの領域を分ける分割線、生贄が横断せねばならない閾であり、どちらの方向に行くかは重要ではない。儀礼的に分離されてきたものは、儀礼によって神聖でない領域へと返還されうる。瀆神の最も単純な形式のひとつは、こうして接触によって(contagione)、人間の領域から神の領域への生贄の移行を実行し統制する供犠そのもののなかで実現される。(p.106-107)

レリギオー[religio:宗教]という語は、面白みもなければ正確さも欠いた語源学が言うように、レリガーレ[religare](人間的なものと神的なものを結合するもの)ではなく、レレゲレ[religere]に由来する。この語は細心と配慮の態度を指示しており、そこには、神々との関係が、神聖と瀆神の分離を尊重するために見守るべき形式を――そして唱えるべきもろもろの定式を――前にした不安なためらい(「読み返し」[rileggere[=relegere]])が、刻印されているはずである。レリギオーは、人間と神々を結合するものではなく、引き離したままにしておくように見張るものである。したがって、宗教に対置されるのは、神性にたいする不信仰と無関心ではなく、「怠慢」である。すなわち、事物とその使用、分離の形式とその意味にたいする、自由で「うかつな」――つまりは、規範への配慮(レリギオー)から解き放たれた――態度である。神聖を汚すとは、次のこと、すなわち、分離を無視する、というかむしろ、その特殊な使用をおこなう、怠慢の特別な形式の可能性を開くことを意味する。(p.107-108)

神聖なものから神聖でないものへの移行は、神聖なもののまったく不整合な使用(というかむしろ再使用)をとおしても起こりうる。遊びにかんするものがそれである。神聖なものの領域と遊びの領域が密接につながっていることはよく知られている。わたしたちが知っている遊びの大半は、古い神聖な祭式、典礼、かつては広義における宗教的な領域に属していた占いの儀式から派生している。(中略)遊びは神聖なものの領域から人類を解放して奪い去るが、単純にそれを廃棄することはない、ということである。神聖なものが使用できるようになったと言っても、その使用は、功利的な消費とは一致しない特別なものである。じっさいにも、遊びの「瀆神」は宗教的領域だけにかかわるものではない。たまたま手にしたがらくたがどんなものであれ、それで遊ぶ子供たちは、わたしたちがまじめなものとみなすことに慣れてきた、経済や戦争や法律やその他の活動の領域に属するものまで、おもちゃに変えてしまう。自動車、銃器、法的な契約がいきなりおもちゃになってしまう。共通しているのは、これらの場合も、神聖なものを汚すときと同じように、いまではもう偽りのもの、抑圧的なものと感じられている配慮(レリギオー)から、真の配慮(レリギオー)としての怠慢への移行である。そして、このことが意味するのは、不注意ではなく(遊ぶ子供の注意力にまさるものなどない)、子供と哲学者が人類に与える使用の新しい次元である。(p.108-110)

 瀆神の器官としての遊びはいたるところで没落している。近代人がもう遊べないことは、まさしく、新旧の遊びの目もくらむような増大によって立証される。じっさいにも、遊びや踊りや祭のなかに、彼は、そこに見出すことができそうなものと正反対のものを、絶望しつつも執拗に探し求めている。それは、失われた祭にもう一度接近する可能性であり、神聖なものとその儀礼への回帰である。たとえ、見世物的な新宗教のくだらない儀式、あるいは田舎のホールにおけるタンゴのレッスンといった形式においてであるにしても。この意味では、大衆的なテレビゲームは新しい典礼の一部となり、無自覚的に宗教的な意図を世俗化している。遊びを純粋に瀆神的なその使命に返すことは、ひとつの政治的な課題である。
 この意味においては、世俗化と瀆神を区別する必要がある。世俗化はひとつの排除の形式であり、もろもろの力に手を触れることはせず、ある場所から別の場所へと移し換えるにとどまる。こうして、神学的概念(主権のパラダイムとしての神の超越)の世俗化は、天上の君主制をを地上の君主制に転位することしかせず、その権力は手つかずのまま残す。
 逆に、瀆神は、神聖を汚すものの中和を含意している。使用できずに分離されていたものは、ひとたび神聖を汚されれば、そのアウラを失い、使用へと返還される。どちらも政治的な操作である。しかし、世俗化は、それを神聖なモデルに関係させることによって保証する権力の行使とかかわっている。瀆神は、権力の諸装置を無力化し、権力が剥奪していた空間を共通の使用へと返還するのである。(p.110-112)

 「宗教としての資本主義」は、ベンヤミンの遺稿のなかで最も洞察の鋭い断片のひとつに付けられたタイトルである。ベンヤミンによれば、資本主義は、ヴェーバーの言うように、たんにプロテスタントの信仰の世俗化だけを表象しているのではなく、それ自体が基本的にキリスト教から始まって寄生動物のように発展する宗教的な現象なのである。そうであるなら、近代の宗教として、それは三つの特質によって定義される。一、それは文化的な宗教であり、これまで存在した宗教のなかでおそらく最も極端で絶対的なものである。そのなかでは、すべてが、教義や理念にかんしてではなく、信仰の遂行にかんしてのみ意味をもつ。二、この信仰は永久的なもので、「休止もなく仮借もない[sans treve et sans merci]信仰の称揚」である。ここでは、祭日と勤労の日の区別はありえず、単一の不断の祭日があるのみで、そのなかにあって労働は信仰の称揚と一致する。三、資本主義という信仰は贖罪あるいは罪の浄化には向けられず、罪そのものに向けられる。「資本主義はおそらく、罪を浄化するのでなく罪を着せる信仰の唯一の事例である。……贖罪を知らない怪物的な罪の意識が信仰に変化するのは、信仰のなかでその罪を浄化するためではなく、罪を普遍化するためであり、……最終的に神自身を罪のなかに捕獲するためである。……神は死んだのではなく、人間の運命のなかに組み入れられたのである」。
 宗教としての資本主義は、まさにそのもてる力をすべて駆使して、贖罪にではなく罪に向かい、希望にではなく絶望に向かうがゆえに、世界の変形ではなく、その破壊をめざす。そして、その支配はわたしたちの時代においてはかくも全体に及んでいるため、近代の三人の偉大な預言者(ニーチェ、マルクス、フロイト)も、ベンヤミンによれば、それと共謀し、なんらかの仕方で、絶望の宗教と連帯しているほどである。「人間という惑星が、その軌道の絶対的な孤独のなかで、絶望の家をこのように通過することが、ニーチェの定義するエートスである。このような人間が超人なのである。すなわち、資本主義という宗教を自覚的に実現しはじめる最初の人間である」。しかし、フロイトの理論もまた、資本主義という信仰の聖職に属している。「抑圧されたもの、罪深い表象は……資本であり、無意識の地獄がその利子を払っている」。そして、マルススにあって、資本主義は、「罪の役割を果たす単利と複利によって……ただちに社会主義に変化する」。
 ここでわたしたちに関心のある展望に立って、ベンヤミンの考察をたどってみよう。そのとき、次のように言えるのではないか。資本主義は、キリスト教にすでに存在していた傾向を究極まで押し進めることによって、宗教を定義する分離の構造をあらゆる分野で一般化し、絶対化する、と。神聖でないものから神聖なものへ、神聖なものから神聖でないものへの移行を供犠が刻印していた場所に今あるのは、単一で多形的な、たえまない分離の過程であって、この過程は、あらゆる事物、あらゆる場所、あらゆる人間の行動を巻き込んで、これを自分自身から分かつのであり、神聖なもの/神聖でないもの、神/人間の分割線にはまったく無関心なのである。資本主義という宗教は、その究極の形式においては、分離すべきものがもはやないような、分離の純粋な形式を実現する。余すところのない絶対的な瀆神は、今や、同じくらい空虚で全体的な聖別と一致する。そして、商品においては、分離が対象の形式自体に内在していて、対象が使用価値と交換価値に分かれて、とらえがたい物神に変化するのであるように、今や、作用を及ぼされ、生産され、体験されるもののすべてが――人間の身体も、性も、言語活動も――、それら自身から分割され、もはやいかなる実体的な分割も定義することなく、そこではあらゆる使用が永続的に不可能になるような、あるひとつの分離された領域のなかに転位される。この領域が消費である。もし、すでに示唆されてきたように、あらゆるものがそれ自身から分離されて展示されている、わたしたちが体験しつつある資本主義の究極の段階を見世物と呼ぶなら、見世物と消費は使用することの単一の不可能性の両面である。使用されえないものは、そのようなものとして、消費か見世物的展示に供される。しかし、そのことは、神聖を汚すことが不可能になったこと(あるいは少なくとも特別な手順を要請すること)を意味する。もし神聖を汚すことが神聖なものの領域のうちに分離されていたものを共通の使用へと返還することを意味するなら、資本主義という宗教は、その究極の段階においては、絶対的に《神聖を汚すことのできないものImprofanabible》の創造をめざすのである。(p.116-119)

使用はつねに所有不可能なものと関係しているのであり、それは所有の対象となりえないかぎりで物とかかわっているのである。しかし、このようにして、使用は所有の真の性質をもあらわにする。所有とは人間たちの自由な使用を分離された領域に移す装置でしかなく、その領域のなかにあって使用は権利に転換されるのである。もし今日、大衆社会の消費者たちが不幸であるとするならば、その理由は、自らの使用不可能性を自らのうちに組み込んだ対象を彼らが消費していることだけに求められるのではない。それはまた、とりわけ、それらの対象にたいする彼らの所有権を彼らが行使していると信じているからなのである。というのも、彼らにはそれらの神聖さを汚すことができなくなってしまっているからである。(p.121)

しかしながら、資本主義という宗教の土台にある《神聖を汚すことのできないもの》というのはほんとうにはそのようなものではなく、今日でもまだ瀆神の有効な形式が産出されるということはありうることである。このためには、瀆神は、使用が宗教的、経済的あるいは法的な領域のなかに分離される前に存在していた何か自然的な使用のようなものをたんに復元するのではないということを想起しておく必要がある。その操作は――遊びの例が明確に示しているように――より狡猾で複雑であり、たんに分離の形式を廃止して、それのこちら側か向こう側に、汚れのない使用を再発見するにとどまらない。自然のうちにも瀆神は見られる。まるでそれが鼠であるかのように糸玉で遊ぶ猫は――古くなった宗教上のシンボルや経済的領域に属していた物で遊ぶ子供とまさに同じように――、捕食行動(あるいは、子供の場合には、宗教的儀礼や労働の世界)における自らのふるまいを、それと意識しながらむだに使用しているのである。これらのふるまいは消去されるのではない。が、糸玉が鼠に(あるいは玩具が聖具に)取って代わったおかげで、それらは無力化され、このようにして、新しい、可能な使用へと開かれるのだ。
 だが、いったい、それはどんな使用なのか。猫にとって、糸玉の可能な使用とは何なのか。それは、ある特定の領域内への遺伝的登録(捕食行動、狩り)からふるまいを自由にすることにある。こうして解放されたふるまいは、当のふるまいを束縛していた行動の諸形式を再生産し、再び身振りで演じる。が、それらの形式からその意味とひとつの目的に縛られていた関係とを奪うことによって、それらを開き、新しい使用に供するのである。糸玉での遊びは、獲物となることからの鼠の解放であり、鼠の捕獲と死へと必然的に差し向けられていることからの捕食行動の解放である。しかしまた、それは狩りを定義してたのと同じふるいまいを演じる。こうして、その結果生ずる行動は、純粋な手段、すなわち、手段としての性質を頑強に維持しながらも、ある目的との関係から解き放たれたひとつの実践に転化するのであり、それはすでに自らのめざすところを喜んで忘れてしまっていて、いまではそのようなものとして、目的をもたない手段として、みずから姿を現すことができるのである。すなわち、新しい使用の創造は、人間にとっては、古い使用を無力化し、それを不活性化することによってのみ、可能となるのだ。(p.124-125)

神聖を汚すということは、たんに分離を廃棄し、消去することではなく、それらから新しい使用を作り、それらと遊ぶすべを学ぶことを意味するからだ。階級なき社会というのは、階級的格差の記憶のすべてを廃棄してそれを失った社会ではなく、階級的格差の諸装置を無力化し、新しい使用を可能にし、階級的格差を純粋な手段に変えることのできた社会のことである。
 しかしながら、純粋な手段の領域ほど、こわれやすく一時的なものはない。わたしたちの社会では、遊びもまた、挿話的特質をもっており、この挿話のあとで、通常の生活はその歩みを(そして猫は狩りを)再開せねばならない。そして、玩具が、それの使われた遊びが終わったとき、いかに残忍な不安の種となりうるかを、子供ほどよく知る者は誰もいない。そのとき、解放のための道具は不細工な木片に、少女が愛情を注いだ人形は冷たくてみっともない蠟の操り人形になりかわり、よこしまな魔法使いがそれをつかまえて呪いをかけ、わたしたちに危害を加えるために使うこともできるのである。
 このよこしまな魔法使いは、資本主義という宗教の大祭司である。資本主義という信仰の装置がこれほどまでに有効だとするなら、それらの装置が作用を及ぼすのが、第一義的なふるまいにたいしてだけでなく、純粋な手段、すなわち、自分自身から分離され、そのようにして、目的との関係から離れたふるまいにたいしてだからである。資本主義は、その最終的段階においては、純粋な手段の、すなわち、瀆神的なふるまいの、巨大な捕獲装置でしかない。あらゆる分離の無力化と破棄を表象している純粋な手段は、それはそれで、ある特別な領域に分離される。言語活動がその好例である。たしかに、どんな時代でも、権力は、自らのイデオロギーを広め、自発的な服従を引き出すための手段として、言語活動を利用することによって、社会的コミュニケーションの統制を確保しようとしてきた。しかし、今日では、この道具としての機能は――体制の周辺では、危機的な例外的状況が起こった場合には、なおも有効ではあるが――別の統制の手続きにその座を譲ってしまっている。それは、言語活動を見世物の領域に分離することによって、空回りの状態に、すなわち、その可能な瀆神的潜勢力[potenziale profanatorio]にゆだねようとするものである。ある目的へと差し向けられた道具としての言語活動にかかわる、プロパガンダの機能よりも重要なのは、すぐれて純粋な手段の捕獲と中和である。すなわち、コミュニケーションの目的から解放され、こうして、新しい使用に供される言語活動の捕獲と中和なのだ。
 メディアの装置は、まさしく、純粋な手段としての言語活動がもつこの瀆神的な力を中和するという目的、それが言葉の新しい使用、新しい経験の可能性を開くのを阻止するという目的をもっている。すでに教会が、希望と期待の最初の二世紀が過ぎたのちには、自らの機能を、パウロがピスティス[pistis]すなわち信仰と呼んでメシア的告知の中心に据えた言葉の新しい経験を基本的に中和することに向けられていると認識していた。これと同様にして、見世物的宗教の体系のなかにあって、メディアの領域に宙吊りにされ展示された純粋な手段は、自らの空虚をさらけ出し、自らの無だけを言う。それはあたかも、いかなる新しい使用もありえないかのようである。言葉のいかなる他の経験もいまやありえないかのようである。(p.127-129)

あらゆる権力の装置はつねに両義的である。それは、一方では、主体化の個人的なふるまいから生じ、他方では、分離された領域へのその捕獲から生じる。個人的なふるまいは、それ自体では、しばしば、非難されるべきものをなんらもっておらず、それどころか、解放的な意図を表現しうる。非難されるべきは、もしかすると――状況や力に強制されたのでない場合には――装置に捕獲されてしまったことだけかもしれない。ポルノスターの破廉恥な身振りも、ファッションモデルの無感動な顔も、そのようなものとしては、とがめられるべきものではない。逆に、恥ずべきは――政治的かつ倫理的に――それらをそれらの可能な使用から剥奪したポルノグラフィティの装置であり、ファッションショーの装置である。
 ポルノグラフィティという《神聖を汚すことのできないもの》――あらゆる神聖を汚すことのできないもの――は、まさしく真正な意味においての瀆神的な意図の捕縛と逸脱のうえに築かれている。このために、その都度、もろもろの装置から――あらゆる装置から――、それらが捕獲した使用の可能性を奪い取らねばならない。《神聖を汚すことのできないもの》の神聖を汚すことは、来たるべき世代の政治的課題である。(p.134-135)

イルカメモ
・「世俗化」は、物語におけるビートシートに似る
・「二つの領域を分ける分割線」は、英雄が越える境界線(プロットポイント)に似る。
・瀆神はコズモゴニックアークに似る。

緋片イルカ 2023.5.28

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