「主人公の感情」と「観客の感情」(演出5)

前回:「視覚」と「聴覚」と(演出4)

前回の記事では「画面」「音響」と、それらの「時間」によって「映像」が成り立っているということを考えた。

その「映像」を通して、観客はストーリーを理解し、感情や身体を動かし、感動したりしなかったりする。

今回は補足的な内容になるが、安易に言われる「主人公に感情移入させる」といったセオリーが、いかにズレているかということを考えてみる。

「主人公の感情」が伝わること

主人公の生い立ちや現在の立場、価値観、性格、目指しているもの(want)などが、しっかり伝わるというのは、とても重要である。

そもそもストーリーを考えた段階で、それらが「設定」されているか?

センスのある作家であれば、感覚的に掴んでいるだけでも、キャラの統一感を生むことができるが、細かい設定部分で、特にシーンに関わる部分はきちんと定めておく必要がある。

キャラクターの履歴書を創るといった創作論がある。

設定を考えたり、キャラの本質(キャラクターコア)を意識もせずに書くような作家にとっては有効だと思う。あとは長期的なシリーズだったり、チームライティングであれば、設定資料が共有されていることは大切になってくるだろう。

ただし、地味な設定に引っ張られすぎて、シーン自体が地味になってしまう可能性もあるので、キャラの動きを邪魔するように無意味な設定はない方が良いということもある。

次に脚本の段階で「描写」されているか?

これは、どれだけ綿密なキャラクターシートを創り、それをどこかで公表したとしても、それを前提に物語を展開することは、望ましくない。

信者のようなマニアックなファンが確立されているクリエイターであれば、そういった描写不足を、資料で補ってもらえ、ときにはそれが「深み」と言われすらするが、それでもストーリーに関わる重要な要素は作品内のシーンで「描写」されていなければ伝わらないし、キャラが魅力的にできない。

「本当はいい人なんです」と言われても、それが見えるシーンがなければ、観客を説得はできない。

最後に演出段階で「表現」されているか?

職業や家族関係や年齢など、一般的な情報は、どこかで提示していなければ伝わらないし、場合によっては「セリフで言わせているだけではダメ」という場合もある。

きちんと伝えるべきかどうかは、ストーリー次第なので、たとえば、作品によっては主人公が「34歳」だろうが「33歳」だろうが、どうでもいいこともある。

けれど、絶対に伝えていないといけない情報というものがある。

それらが正確に、観客の印象にきちんと残るように表現されていることが「主人公の感情」が伝わるということである。

観客が「主人公の感情」を受け取る

説明の便宜上「主人公の感情」と言っているが、もちろん主人公に限らず、なるべく多くのキャラの感情が伝わる方が良いに決まっている。

主人公の感情は一番重要で、それが伝わらないのは物語として大きな欠陥があるといえる。

主人公の感情を伝える技術が身についてくれば、アンタゴニストや脇役たちの感情もきちんと伝える技術も自然に身についてくる。

ともかく、観客は「登場人物たちの感情」を理解する。

観客は千差万別だから、その主人公を好きになるか嫌いになるか、何とも思わないかもいろいろ。

安直な物語論に「観客を主人公に共感させなければいけない」「だから主人公はいい人間でなければならない」という言い方がある。

ある時代や地域によっては、好ましいとされる人物像が明確なので、こういうやり方が効果的なこともある。

だが、観客は「主人公」を理解したからといって、共感してくれるとは限らない。

なるべく好感度の高いキャストを使えば、してもらいやすくはなる。

主人公が親切な性格であることは、暴力的であるよりも、共感しやすくはなるだろう。

だが、必ずではない。

「主人公の感情」をしっかり描くことは物語にとっての重要な要素なので、しっかりと守るべきことであるが、イコール「観客の感情」が動く訳ではない。

「観客の感情」が動くとき

では、観客はどういうときに、感情が動いているのか?

それだって千差万別であるが、自分なら「どういうものなら見たいと思うか?」と考えたり、「テレビでCMをまたいで続きを見たくなってしまうときはどういうときか?」と考えたりすることがヒントになる。

そこに、好みは確実にある。

ラブストーリーを好きな人もいれば苦手な人もいる。ホラーやアクションやミステリーしかり。

自分が書くとき、興味を惹かれる側としてのテクニックを理解していれば書きやすい。

たとえば、ホラーで「どうやって観客の恐怖を煽れるか?」という演出をたくさん見ていれば、書くこともできる。

このとき「主人公が怖がっている」のと「観客が怖がっている」のはまるで別である。

「物陰に殺人鬼が潜んでいることを知らずに、主人公が歩いてくるシーン」があったとする。

このとき、観客は殺人鬼の存在を知っていれば「主人公がどうなるか?」という興味やスリルを味わう。

だが、主人公は知らないのだから恐怖を感じていない。

これが「主人公の感情」と「観客の感情」の違いである。

当サイトの記事でいえば、中級編にある「キャラクターアーク」と「プロットアーク」という考え方は、これらに対応する。
参考記事:「キャラターアーク」と「プロットアーク

どちらも、とても重要であるがイコールではない。

「主人公の感情」をきちんと描くのは絶対に必要である。

しかし、観客を「主人公に感情移入させる」必要はない。

観客の気持ちは物語に引きこめばいいのである。

演出家の勘違い

「キャラクターアーク」と「プロットアーク」はどちらも描くべきものだが、あえて、どちらが重要かといえば、脚本で重要なのは前者の「キャラクターアーク」といえる。

ドラマをしっかり描くこと。つまりキャラクターの心情や、何に葛藤し、どう変化したかを、構成が多少アンバランスになってしまっても、しっかりと描くことは脚本どころか物語の本質ともいえる。

「プロットアーク」は演出にも関わる。

例えば、主人公の変化をどれだけ効果的に、演出的に、シーンとして見せられるか?

これは演出家が後から付与できるものでもあるが、脚本段階で(要はシーンやセリフ単位で)演出できている方が効果的なのは言うまでもない。

演出家が「プロットアーク」を理解していない場合、かったるい演出になることが多い。

たとえば、ラブストーリーで「主人公が恋の相手が、自分を好きかも知れないと浮かれているシーン」があるとする。

演出家がキャラクターの感情を大事にして、浮かれてハッピーな演出のシーンを長々と続けたとする。

キャラクターの感情を大事にすることはいい。大切だ。

だが、観客は「それが主人公の勘違いであることを知っていた」としたら?

この演出家は「主人公の感情」を優先して「観客の感情」を無視してしまっている。

観客としては、早く「勘違いだと気づく瞬間」や「その後、どうなっていくか?」が見たい。それなのに「いつまで浮かれてるんだよ、こいつ」「かったるいな」という気分になっていく。

これは極端な例として示したが、ストーリーの意義を汲み取れず、冗漫な(ときに演出家のカッコつけとしか思えないような)演出に時間や予算をさいてしまっているものはたくさんある。

「奇抜なこと」をやって興味を引くことが演出ではない。

脚本と演出が、がっちりとタッグを組んだ映像はとても強い。

緋片イルカ 2023.12.30

次:ショットの要素1:概略(演出6)

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