自信とは過去の自分を「信じる」ということ。
他人を信じることを「他信」とは言わないが、他人で考えてみると「信じる」とはどういうことかがわかりやすい。
例えば、誰かにお金を貸して、その人が返してくれるかどうか?
その人の過去の行いや、性格を踏まえて信じられるかどうかが決まる。
同じように過去の自分が成功体験をしていれば、自分を信じることができる。すなわち自信を持てる。
例えば、何かのテストがあるとする。
過去問や模擬試験で合格点をとっていれば、受かる自信を持てる。
それも1回や2回じゃなく、5回10回と合格点を取れていれば自信はさらに増す。
世の中、何が起こるかわからない。真に100%はない。
成功率99%あっても失敗する人もいるし、成功率1%しかなくても成功してしまう人もいる。
こういう場合については完全に運だが、そもそもの成功率を上げるのは努力でしかない。
運だけで成功した1%の人は2度目、3度目は続かない。
99%になるまで努力してきた人は、運が悪くて失敗しても、2回目3回目では成功する。
失敗を運のせいにして努力を怠っていると、成功率は上がらない(実力がつかない)。
つまり適切な努力を続けていれば、必ずいつかは成功する(成功までのタイミリミットの問題もあるが、それは「適切」という表現に含める)。
全く初めて挑戦することに対して自信を持つのは勘違いの可能性がある。
例えば、剣道か柔道か、対戦するタイプの試合があるとする。
初めての対戦相手で、相手の実力がわからない。
けれど、自分はたくさん練習してきたのだから勝てる自信がある。
これは自分の努力を過大評価しているだけかもしれない。
あるいは相手が弱いと過小評価しているだけかもしれない。
こういう場合は、やってみないとわからない。
勝つかもしれないし、負けるかもしれない。
だけどフィフティ・フィフティではない。
予想不能なだけで、自信があろうとなかろうと、実力のある方が勝つだけ。
ちゃんと両者を客観的に見れている第三者からすれば、どっちが勝つかは明白という場合もある。
試合当日の「自分を信じる!」なんて暗示は、不安を沈めたり緊張をほぐす役割でしかなく、それはそれでパフォーマンスを上げる効果はあるが、本当の自信ではない。
本当にやるべき努力をこなしてきた人間は不安にならない。なっても勝てる。
緊張してパフォーマンスが落ちても勝てる。圧倒的な実力は運を凌駕する。
それが本当の自信。そういう実力に対する自信は、人生を切り拓く自信。
人生を切り拓く自信とは、客観的な視点を持った自信である。
剣道の試合で言えば、相手の実力をしっかりと分析し把握し、それを超えるだけの練習を自分がこなしてきた事実に基づく自信。
簡単に言ってしまえば、試合で戦う相手よりも強い相手と、日頃から練習していれば、勝てる自信はあるし、実際に勝つだろう。
裏付けがある自信は、知らない人からはビッグマウスに見えても、結果的に有言実行になる。
こういう自信と努力を続けていく人は、必ず人生を切り拓いていく。
「誰に何を言われようと関係ない」なんて言い草はかっこよくも見えるが、一歩間違えれば、他人のアドバイスを無視しているだけでもある。
客観的な視点を持っていれば、受け入れるべき意見は誰が言おうと関係なく従う。
客観的な視点を持っていないと、誰が言ったかに左右されて、偉い人が言ったすごい人が言ったと鵜呑みにして、追従したり権威主義的になったり。
あるいは、客観的に有効な意見であっても、誰が言ったかを気にして素直に取り込めない。
客観的な視点があっても、努力をしなければ実力は身に付かない。
自信があろうがなかろうが、努力をしない人間が成功するなどあり得ない。
運がよくて一時的に成功しても、絶対に続かない。
それがわからないとしたら、客観的な視点を持てていないといえる。
物語創作に照らし合わせてで言っておくなら、物語の「面白い」とか「売れる」とか「価値がある」といったことを客観的に掴めるようになることが一つ。ここに「自分の好み」が入ると客観の度合いが濁る。「自分の好きなもの」=「良いもの」と思うのは客観性に欠けている。「自分の好きなもの」を否定する必要はないが、区別する必要はある。ある程度は「売れる」ものを書かなければ仕事にはならない。売れなくてもいいから「自分の好きなもの」を書きたいなら書けばいい(それはとても素晴らしいこと)。みっともないのは「自分の好きなもの」を「売れる」と思い込んでいて、売れない不満を誰かのせいにすること。客観的な視点が持てていない証拠である。客観的な視点で「良い物語」の基準が掴めれば、あとはそれを作品として体現できるようになるまで徹底的に書くこと。練習すること。具体的に言うなら、たくさん分析をして、たくさん作品を書くだけのこと。このことは他の記事でも何度も言っているが、分析しかやらない人間は他人を批評するだけの皮肉屋。「他人の作品に文句言ってんなら、お前がもっと面白いの書けよ」と言われても返せない。皮肉屋はどんなにたくさん作品を見て、どんなに分析力があっても作家には絶対なれない。スポーツ観戦をしても選手にはなれないのと同じ。反対に客観的な視点がないまま、たくさん書いているだけの人は自己満足に陥りかねない。それでも客観的な視点を持ったアドバイザーが身近に居れば、良いものを書く可能性はある。こういう人は努力はしている。成功するかどうかは、やってみなきゃわからない試合のようなもので、運任せに近い部分があるが、努力を続けている人は成功率は上がる。
以上、きまぐれに思ったこと。
イルカ 2024.5.4
2024.5.4追記:自分の客観的な視点が合っているかどうかは、試してみないとわからない。剣道でいえば試合に出て対戦してみることでわかる。自分の視点がズレていたなら修正して、また頑張ればいい。いつまでも試合を見送って練習ばかりしていると修正の機会がなくなる。創作でいば試合は応募したり、誰かに見せて感想を聞いたりすること。