私には、学校での避難場所が一つだけあった。そこに居れば誰にも気付かれず身を潜めていられる安心感がある。そういう場所。
「前髪切り過ぎちゃったよ。変くない?」
リンコが言うと、レイナはすかさず言った。
「そんなことないって。少し幼く見えるけど、リンコ顔がキリってしてるから、それぐらいでも全然いいよ?」
「そう?」
レイナが私に向いて、
「ね?」
「え? あ、うん。変じゃない。」
「ほんとに?」
リンコが私に聞いた。
その時、小学校の時に言われた一言が、プレイヤーを再生したようにはっきりと流れだした。
「あんた、ほんとはそんなこと思ってないでしょ?」
「そんなことないよ…。」
「声、震えてんじゃん。嘘つき。」
私はあの時のあの場所に戻ったかのように脂汗が流れてきた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ちょっとトイレ行ってくるね。」
私は避難した。
白い壁に四方囲まれていると落ち着く。ここにいれば「何か」を強制する視線からも守られているのだ。
リンコとレイナの声がトイレに入ってきた。私は反射的に息を潜めた。
「あれ、いないね?」
「だから、嘘だったんだ。私の髪が変だから笑ってんじゃない?」
リンコが言った。
「そんなことないってば…?」
二人は急に黙った。小声で何か言ってるらしいが聞き取れなかった。
トントン。
私の個室をノックする音だった。私の体は固まって動けなかった。
トントン。
リンコが私の名前を呼んだ。
「違うんじゃない? 行こうよ。」
それきり二人の声はしなくなった。
休み時間終了のチャイムが鳴った。
私は開けたら、そこにリンコとレイナが立っているような気がして、出られなくなってしまった。
この話は誰にも話したことがない。
私はその日、夜までそのトイレに籠もっていた。
個室の中からでも、辺りが暗くなっているのがわかった。
人の声はしなかった。
真っ暗なトイレは人が誰もいないのでむしろ落ち着いた。
真っ暗な教室では私の机だけ散らかったままになっていた。
私は「何か」から逃げるように、一つ隣りの駅まで歩いて、そこから電車に乗った。
家に帰るとそのまま部屋に引き籠もった。
最初の頃、言い訳にしていた頭痛が、やがて本当に起こるようになった。
トントン。
母が部屋をノックする。私はその音を聞く度に鳩尾の辺りに、ぎゅっと掴まれたような冷たさを感じる。
「ご飯、ここにおいとくね?」
「…」
「わたし、仕事行くからね?」
「…」
それは家には誰もいなくなるという意味だった。母の優しさだった。
わたしは食事の載ったトレイだけ部屋に入れるとまた鍵をしめた。
学校に行っていた時はトイレに逃げれば大丈夫だと思っていた。
トイレから出られなくなった日、学校へ行かなければ大丈夫だと思った。
なのに、この部屋に籠もっていて、まだ大丈夫でない私は、ここから何処へ逃げればいいのだろう?
逃げても逃げても「何か」はどこまで私を追いかけてくる。
トントン。
私の鳩尾がぎゅっと掴まれた。
トントン。
私は耳を塞いだ。
トントン。
「これ以上、私を追い詰めないで!」
わたしはドアに枕を投げつけた。
「開けてよ?」
扉の向こうから声がした。
トントン。
「開けてよ?」
「だれ?」
「開けてよ?」
私はその声に聞き覚えがあった。私はゆっくりとドアを開けた。
リンコが立っていた。
「学校行こうよ?」
「どうして…?」
「あんたが来なくなったの、もしかして、私のせいかなとか思っちゃって…。レイナは違うって言ってくれたけど…。でも、私たち普通に心配してたんだよ?」
私の開けたドアから、「何か」がネズミのようにチョロチョロと逃げていった気がした。
「リンコ、前髪伸びたね?」
「ほんと?」
リンコは照れくさそうに前髪を手で押さえた。
(了)