花言葉が一つじゃないのは知っていたが、アザミには「安心」が似合っていると思っていた。
私は38歳の時、アザミを産んだ。
私の歳のことも心配だったけど、産まれてきたアザミは3000グラムを超える元気な赤ん坊だった。
風邪一つひかない元気な子、言うこともよくきく手のかからない子だった。体調を崩しがちの私を気遣ってくれるほど優しくて。
まさに、私にとって「安心」の子供だった。
アザミのその言葉を聞いて、最初、私は何よりも驚いた。アザミがそんなことを言うなんて思ってもみなかった。
そしてアザミと一頻り(しきり)口喧嘩をして、しみじみと思った。
アザミももう二十歳なんだ、と。
大学4年生の時一番の親友だったエリカは、大手企業じゃなければ就職浪人すると言っていた。今で言うバブルの時代で、みんなどことなく浮かれている気がした。
「これからは女も働く時代」
が、エリカの口癖だった。
私は社長を含め従業員5人の小さな町工場に就職した。車のエンジンの部品の一部を作っている会社だった。簿記の資格をとったので、それが使えればどこでもいいと思っていた。割と自由に休みをとらせてくれるのも私にはありがたかった。
エリカは私に言った。
「夢がない」
「いいのよ。どうせずっといる訳でもないし。そのうち結婚しちゃえばいいんだから」
そう言いいながら、私はその会社に10年以上もいることになった。
今の夫は、取引のあった自動車会社の営業マンだった。私が36の時で、夫は6つ上だった。
営業に似つかわしくない風貌と喋り方に親しみを持った。
「わたしなんて、結婚は諦めてますから」
と夫になるその男は言った。
「私もですよ」
私はその時、本心からそう言った。しかし夫の言葉は本心ではなかった。
飲みにでも行こうと誘われて、下心のなさそうな男に安心して私はOKした(けど男に誘われるのなんて何年ぶりかしら?)
夫は行きつけの安い居酒屋に、私を連れていった。居酒屋の主人が、私を連れてきた夫をからかった。夫は否定しながらも、まんざらでもない顔をした。
その顔を見て、私は「ああ私はこの人といずれ結婚するんだ」と思った。
それは嬉しくもあり、悲しくもあった。
諦めていた結婚ができる喜びと、それが最後のチャンスであるという言い難い悲しみ。
エリカは「好きにすれば?」と言った。
「今は個人の自由の時代だから」と。
エリカは外資系の会社の社長秘書をしていて、英語もできるし、オートロックのついた港区のマンションに住み、もらったというベンツに乗って、貯金も私とは0の数が違う。
「大した違いはないのよ。どう生きたって」
タバコの煙を吐くエリカの口元、厚塗りのファンでにヒビが見えた。
「エリカは結婚しないの?」
「もう、無理じゃないかね、私は」
「お見合いとかは?お金あるんだし」
「つまんない男といるなら、一人のが楽」
「付き合ってる人とかいないの?」
「もうごぶさた。3年くらい前までかな~?こっちから誘えば、若い子でも寄ってきたけど、35過ぎてからかな~。女として終わってる?」
「エリカ、綺麗だから、まだまだ通用すると思うけどね?」
「そう言ってくれるのは同年代だけだよ……」
私はエリカが羨ましいとも、可愛そうとも思わなくて、ただ似たようなもんだと思った。そして、結婚相手がいるだけ少しだけ自分のがマシなのかもしれない、なんて思っていた。
結婚自体は、何ともなかった。ただ子供が産まれたことは嬉しかった。
この子には幸せになって欲しいと思った。
いろんな可能性を持たせてやりたいと思って、小さい頃からピアノ教室やら絵画教室やらお習字、ソロバン……役に立つと思えば何でも通わせた。
子供が可哀想なんて言う人もいたが、アザミは嫌がる様子もなく、教室から帰ってきては習ったことを嬉しそうに私に聞かせてくれた。
私自身が人生をやり直しているような気持だった。
アザミのその言葉が、棘のように私の胸に刺さるまでは……。
「私、大学を辞めたいの」
夕食を片付け、いつもは部屋に入っていくアザミが再びにテーブルにつくと、そう言った。
「なんで?」
「やりたいことがあるの。」
「何?」
「……」
「言えないことなの?」
「……女優」
「ダメよ、そんな……。どうやってなるの?あういう仕事はなりたくても、なれるかわかんないでしょ?」
「……」
私をキッと睨んだアザミの瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙がたまっていた。
「……やりたいっていうなら止めはしないけど……大学を辞めるのは関係ないでしょ?」
「お母さんにはわかんない!!」
アザミが部屋を出て行った。
私は一人、静かな部屋でしみじみと思った。
アザミを育ててきた20年のこと。よかれとしてやってきたこと、否定されたような気持だった。
同時に私自身が二十歳だった時を思い出していた……。
私の両親は、何も言ってくれない人達だった。ああしろとも、こうしろとも言わず、私が相談したくて話をすると、「いいよ、お前のやりたいようにやるといいよ」とだけ言った。
それが私には物足りなかった。もっと心配したり、一緒に考えて欲しかった。
だからアザミにはそうしてあげてきた、つもりだった。
『応援してあげる?それが本当にアザミにとっていいこと?』
『後悔した時、アザミはどう思う?』
『その時は結婚すればいい?私みたいに?それが……幸せ?』
私の中でいろんな思いが「?」をつけて浮かんでは消えた。
「大した違いはないのよ。どう生きたって」
エリカの声がした。
『そうかもしれない。ならやりたいようにやらせてあげるのが正しい?本当に?』
私はアザミの部屋へ向かった。
ノックをすると、中から声がした。
「開いてる」
アザミはベッドに突っ伏していた。
「起きて?ちゃんと話ましょ?」
アザミが体を起こした。顔が赤く泣き腫れていた。
「何でその……女優?役者?……それになりたいの?」
「どうしても」
「大学を辞めないとそれは出来ないの?」
アザミはこっくり頷いた。
「どうして?」
「どうしても……」
「何でも『どうしても』じゃ話にならないわね?」
「じゃあ、お母さんは何でも言葉にできるの?今幸せ?その言葉で説明できる?」
「……」
「私はお母さんみたいになりたくないの!」
「お母さんみたいって?」
「自分は幸せだと思い込もうとしている人生」
「私は……」
……言い返せなかった。
「頑張る前に諦めて、それでもこれが正しいんだって思い込もうとしてる」
「……そうかもしれないわね」
「え?」
アザミが顔を上げた。
「いいわ。好きにしなさい。その代わりこの家を出て行きなさい。自分で働いて、自分の力で何とかしなさい」
私は言った。
「……」
「それがどれだけ大変かわかってる?」
「わかってる。」
「わかってないでしょ、あんたは?」
「わかってる。」
「そう。じゃあ、今月中に出て行きなさい。お父さんには私から言っておくから。」
私は部屋を出てから振り返った。
アザミが謝ってくるのを待っていたのかもしれない。
アザミは私の目をまっすぐと見つめていた。
つらくなったら帰ってきてもいいからね?
その言葉をグッと飲み込んで、私は言い捨てた。
「せいぜい頑張りなさい!」
わざわざ大学を辞めてまでアザミが何をしたいのか、私にはわからなかった。
エリカの言うように「大した違いはない」とは思えなかった。
私は辞めない方がいいと思ったけれど、同じくらいにアザミは辞めた方がいいと思っている。
その気持ちはわかるような気がする。少し懐かしい気持ちだった。
もう一つのアザミの花言葉「独立」。
(了)