「ガムの味」

 深夜一時前だった。S君から電話がかかってきて今から会わないかと言う。前日にも同じ事を言われたが、寝る姿勢をしていたので断った経緯があった。
「じゃあ明後日にでも。」
「明後日?」
「明日はバイトなんだ。」
「何時くらい?」
「十二時過ぎまで。」
「それでもいいよ。」
「ううん、どうしよう。また明日電話する。」
 そんな会話をしていたので待っていた。
 夜の街は澄んでいる。数メートルおきにある東京の外灯に照らされて空気の透明が見えるようだった。人も車も少ないから空気が綺麗なのだ。と思ってから、ふと何日も外に出ていなかったことに気が付いた。数えてみると十五日もだった。その数に自分でも少し驚く。
 自転車の砂埃を払ってまたがった。昨日は二十度もあって三月の初めとは思えない陽気だったが今日は冷え込む、そんな会話を家族がしていた。僕は二週間前に漫画を買いに出たのと同じ恰好をしていた。
 反対からやってくる自転車があって、近づいてきて、やはりS君だった。バイト先から迎えに来てくれた。入るような店が見つからなかったので上野に戻った。僕らの店とは、何のことはないファミレスのことだ。チェーン店の禁煙席が僕らの定位置。
「最近どう?」
「うん、まあ。」
「学校がないとリズム狂うね。」
「うん。」
 卒業前の就職活動の時期。卒業見込みをもらった人間に対しての求人が、直接学校に来るのでこの時期になる。
「描いてるの?」
「あんまり。」
「実は俺、就職決まったんだ。」
「え?」
 僕とS君はイラストレータを目指している。というのは建前で本当は二人とも漫画家になりたいのだ。なれるものなら。
「就職って?」
「うん。」
 S君はうつむいてメニューを開いた。
「夕食抜きだったんだ。」
「うん。」
 僕は食欲とは違う欲求で何か食べたい気分だった。メニューを片っ端から食い尽くしてやりたい。
「苦しいぐらいに食べたいな。」
「わかるよ。」
「家にいると冷蔵庫空けるのがくせになっちゃうんだ。」
「俺も。うちは空けても何も入ってないけど。」
「そっか、S君ちは一人暮らしみたいなもんだからね。」
「そうそう。でも、実家にいた頃はよくやってた。」
 S君はハンバーグにカキフライが乗ったもの、僕はスパゲティを注文した。僕たちを含めて十組ぐらいの客がぱらぱら座っていた。それに対して店員は二人しか見えなかった。
「で、就職って?」
「面接行ったら、来週から来てくれって言われた。」
「どんな仕事?」
「デザイン事務所。」
「へえ。」
 僕の声は心底からの嬉しい気持ちを表していた。S君とはそういう関係なのだ。
「でも、営業なんだ。」
「え?」
 S君は何も言わなかった。
「そっか。」
 僕はただ一言そう言った。
「行くの?」
「行く。と思う。行きたくないけど。」
 S君は水を飲み干すとグラスを持って席を立った。
 僕と違っていつまでもぶらぶらしている訳にはいかないのだ。漫画家を目指すためにも働き口は確保しなくてはならない。僕は自分に言い聞かせるようにそう思った。
「俺も就活しなくちゃな。」
 戻ってきたS君に、というより独り言のように僕は言った。
「まだ、いいんじゃん?」
「え?」
「今しかないじゃん。好きなだけ描けるの。」
「うん。でも、そろそろやらなきゃ。親の手前もあるし。」
「そう言うけど、せっかく実家なんだから、T君は寄っかかってもいいと思うよ。」
「でもな。」
「才能あるんだし。」
「ないよ。そんなもん。」
 S君は僕が高校の時に描いた作品を褒めてくれる。どんどん描けと言うが、もうあんな作品は描けない。
「T君もすれば? 就職。」
「現場に出て学ぶべきものはあるよね。」
「うん、当然。」
「そしたら、ここでチンタラやってるより現場出て揉まれた方が成長する気がする。」
「その成長って漫画とは別の部分じゃない?」
「そんな気もするね。」
 持てあまし、ちびちび飲んでいた水に口を付け唇を濡らした。
「なにより描いてないしな。」
「そういう時もあるよ。」
「だけどS君はどうするの? 就職したら時間作れないよ。」
「時間の問題なのかな。」
 S君を見た。遠いところを見ている。その目は遠い何かを追っている。空想にふけっている感じではなかった。S君の焦点が近づいてくると、それは店員だった。店員は三つの皿を抱えていた。僕のスパゲッティの皿。S君のハンバーグの皿とライスの皿。間違えてパンで出てきた。店員は頭を下げて足早に戻っていった。
「別にパンでもいんだけどね。」
 僕は待たずにミートスパゲティをフォークに巻いた。
「パンでもライスでもお腹がいっぱいになれば同じだからね。」
「漫画家でも営業でも?」
「うん。」
 S君は両手で店員からライスを受け取って黙々と食べ始めた。
 時間の問題ではない。それは僕も感じている。漫画家に年齢なんて関係ないのはよくわかっている。僕らより若い人間がプロの漫画家として成功しているのだ。認めたら終わってしまうから言わないだけだ。行きたくないけど行く。S君は認めてしまったのだろうか。
「ヤツの新刊買った?」
 S君がハンバーグを含んだままの口を開いた。
「買ったよ。新刊って言っても二週間前でしょ?」
「やっぱ面白いよな。」
「うん、まあ。」
 僕らがヤツと呼ぶのは高校生で漫画家デビューした男の子のことだ。若いということで騒がれたがそれだけでなく、きちんと読めばきちんと面白いのだ。嫉妬が起こらないほどに面白い。若いゆえの稚拙さがなくもないが才能というものが明確に感じられる。十六歳でこれが描けるなんて大したものだと思う。
「荒いけどね。」
「荒いけど、ね。」
 僕らはいくつか漫画の内容に触れてから、S君はもうヤツの話はいいとばかりにハンバーグにフォークを突き刺した。
 食べ終えたS君は、また水を注ぎに行った。戻ってくると狭い座席に横滑りして入った。
「俺も小学校ぐらいから描いてればな。」
「ヤツと比べてもしょうがないよ。」
「うん。」
 S君は声の調子を変えて、
「高校の時、何やってたかな、俺。」
 ヤツの漫画にはあとがきが付いていて、授業中に漫画を描いていると、初めのうちは注意してきた先生がだんだんと応援してくれるようになって心強かったというようなことが書いてあった。
「あの頃って、もっと、何かこう、イライラしてたよね。」
「今はしない? 俺は今でもイライラするよ。」
「でも器用に諦められるようになってきたでしょ?」
「まあ、多少はね。T君はイライラしてたの? それが作品のエネルギーだったんだ。」
「どうかな。描くより走ってばっかだったから。」
「陸上だっけ?」
「うん。そのせいか勝ち負けには拘ってたけど、今からすると、むしろ拘れたって言うのかな。どうでもいいことでも負けると悔しくて勝てるように努力してた。今みたいにヤツみたいなのを素直に褒めることなんて出来なかったな。」
 S君は笑った。
「俺はテニスやってたから授業中は作戦とか考えてた。」
「テニスやってたんだ?」
「三年間。」
「あの頃って目の前のことにひたむきになれたよね。授業中とか関係なく。今だとやりたいことあっても、あれやらなきゃとかって思いとどまっちゃう。」
「視野が狭くて、やるべきことが見えなかっただけかも。」
「今も狭いのかな?」
「狭いんだろうね。十年後とかには同じように、この今を振り返るだろうね。」
「若かったって?」
「そう。」
 僕はちょっとだけ言いよどんでから聞いた。
「漫画家、諦めて来てんじゃないの?」
「いや、それは諦めてないよ。」
「でも、仕事したら描けないでしょ?」
「それでも、なんとか描くつもりだよ。」
「描けるかね。」
「描くよ。」
 僕は自分が仕事をしたら描けないというのを理由にして、就職から逃げているような気がした。S君が行きたくないけど行くと言ったのを聞いて、本当は諦めていることを引き出したかったのかもしれない。S君の道が漫画家を諦める道なら、僕の道は間違っていないのだと安心するために。
 糸が切れたようにぷつんと沈黙が訪れた。僕は何も言えなくなってしまい片づいた皿を重ねたりした。S君も何も言わなかった。
 S君は三杯目の水を飲み干して、
「そろそろ出ようか?」
 レジまで行くとS君が言った。
「おごろうか?」
「なんで?」
「就職決まったし。」
「辞めずに一ヶ月続いたらおごってよ。」
「それもそうだ。」
 会計を別にしてもらい、S君はチューイングガムを買った。一粒くれた。
「このガム、小さい頃好きで噛めずに飲み込んじゃってたんだよ。」
「どうして?」
「おいしすぎて飲み込んじゃうの。」
 四角い粒は噛むと簡単に潰れた。薄紫のグレープ味が口の外まで広がる。
 車のなくなった車道を甘い匂いを漂わせながら突っ切る時、S君が言った。
「人間って赤ん坊の時は首がすわってないほどぐにゃぐにゃしてるじゃん?」
「うん。」
「なのに死ぬと硬直して、瞼も閉じれないほどになる。」
「うん。」
「年を取るって固くなってくことなんだよね。心も体も。」
「うん。」
 S君がその話で何を言いたいのかはわからなかった。けれど面白い発想だと思ったので、そのまま聞かないでおいた。自分の漫画で使う台詞の一部かも知れない。それなら、なおさら聞きたくなかった。
「じゃあ、俺こっちだから。」
「うん。仕事行ったら、また話聞かせてよ。」
「OK。」
 僕は一人になると立った姿勢でペダルをこいだ。スピードがぐんぐん加速していく。限界まで来てペダルに負荷がなくなったところで座った。呼吸が乱れていた。陸上をやっていた頃のことが頭よぎったが、感傷的に過ぎると振り払う。ガムはすでに味がしない。噛み続けていたら吐き気がして、反射的に出しそうになったが、僕は意固地になって噛み続けた。
(了)

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