「おかえりなさい……」
玄関を開けると妻が立っていた。病室を抜け出した末期癌患者のような蒼い顔をして。
「ご飯、作ったけど食べる?」
「悪い。お腹空いてないんだ」
「ハンバーグにした」
「……そっか」
俺はくたびれた革靴を脱いで、飛び降り自殺する人のように揃えた。
薫が死んで二年経つ。生きていれば小学生だ。想像力豊かで、オモチャの電話で動物と話したり宇宙人と交信したり、一人遊びが好きな子だった。
一度、駐車場で遊んでいて注意したことがある。その時、俺が厳しく言っていれば、あの事故は防げたのかもしれない。
「わたしが殺した……」
冷たくなった薫を前にして、妻は他人事みたいに言った。俺は否定しなかった。
不器用な妻は、洗っている皿を滑らせて割ったり、風呂を冷たい水で貯めたりということがしょっちゅうで、もし俺が運転していたら、我が子を轢き殺すような真似は絶対にしなかったはずだ。
「あの子の命日に死ぬことにした」
妻がそう言い出したのは一週間前のことだった。俺が追いつめたのだと気付いた。
「わかったよ。それなら俺も一緒に……」
妻は右の頬だけで引き吊るようにして、
「ありがとう」
と、哀しく笑った。
この車に乗り込むのは事故以来だった。ハンドルの上側には埃が積もっていて、指でなぞると古いアルバムの表紙みたいにざらついた。
「ここだけ時間が止まってたみたいだな」
「わたしも。あの日から、どこにも進めない」
俺はバックミラーを調整しながら、
「どこ行こうか?」
「海。湖でもいい」
それが何を意味するかはわかった。車ごと沈むということだ。
「二月の海か。冷たそうだな」
あの事故の日も寒かった。妻は、薫を乗せて大型ショッピングセンターへ買い物に行った。夕食の献立はハンバーグで、薫は楽しみにして空腹を我慢していたそうだ。
家に着くと「コウシンの時間だから」と薫が慌てたので先に車から下ろした。宇宙人と交信するには決まった時間と決まった場所があるらしい。妻はスマホを確認してから、気をとられたまま車をバックさせた。ドンと何かにぶつかった。すぐに降りると薫が倒れていた。倒れた拍子に後頭部を強打して、意識はすでになかったという。
「わたしのせいだと思ってるでしょ?」
妻は前を向いたまま、俺に問いかけた。
「わたしが鈍いから薫が死んだ。そう思ってるんでしょ?」
膝の上で拳を握りしめ、被告人のように俺の判決を待っている。
「思ってないよ。思ってない」
半分嘘をついて、手のひらを重ねた。妻の拳は河原の石ころみたいに小さく冷たかった。
「ごめんね。私があなたの息子を殺した」
嫌な言い方だ。
「行こうか」
と、俺はエンジンを入れた。車が懐かしい唸り声を上げる。突然、家族でドライブした記憶がフラッシュバックした。
「今日はどこにおでかけするの?」
薫の姿が映った気がしてバックミラーを見た。が、もちろん誰もいなかった。
「ねえ、変な音しない? プツプツって」
「ガソリンは入ってるけど。なんせ二年も乗ってないからな」
車は一メートルほど進んで完全に止まった。何度かエンジンをかけ直したがまったく反応しなかった。
「ダメだ。ウンともスンともいわない」
「卑怯な車。殺しておいて逃げるんだ」
「なあ、もしかして薫が止めてくれたんじゃないかな。俺達に死ぬなって」
俺は思いつきだけで言っていた。
「そんな訳ない。あの子が許してくれるはずないから……私のこと」
妻は車を降りて家に入っていった。すぐに変な気を起こす様子ではなかったので、そのままにしておいた。
車から出ると腐ったガソリンの刺激臭が鼻についた。故障の一因だろう。
リアバンパーにはわずかな凹みが残っていた。薫がぶつかった跡だろうか。
その時、一つの疑問が浮かんだ。
助手席から玄関は直線だ。いま、妻がそうしたように、まっすぐに入れば車の後ろを通る必要はないのだ。それなのに薫はどうして車の背後に回ったのだろうか?
「ここじゃないとコウシンできないの」
駐車場で遊んでいるのを注意した時、薫が言っていた。
「それも、いまじゃないといけないんだ。コウシンにはルールがあるからね」
「また宇宙人と話してるのか?」
「きょうはママとはなしてる」
「ママと? ママなら家の中にいるだろ」
「宇宙にいるママだってば。隣にパパもいるよ。ぼくはいないけど」
俺は車の下を覗き込んだ。
そこに電話機が落ちていた。コードレス電話の形をした、ボタンを押すと音楽が流れる子供のオモチャだ。薫がコウシンに使っていた、あの電話だった。
俺は手にとって緑色の通話ボタンを押してみた。何も起こらなかった。
「ねえ、かかってきた……」
と、玄関から出てきた妻が言った。
「電話がかかってきた。今、あの子から……」
「え?」
「出たらね、ザーって変なノイズがするんだけど、その中から、かすかにあの子の声が聞こえたの」
「まさか……」
「ほんとに。聞こえたの。ハンバーグ、ありがとって……」
俺は持っていたオモチャの電話を見つめた。おそるおそる通話ボタンを押してみたが、やはり何も起こらなかった。たまたま、どこかで混線してかかってきた電話に、妻が勝手に薫の声を感じたのだろう、と思うことにした。そういう勘違いをする妻なのだ。
「あの子、私のこと許してくれたのかな……」
妻の頬を涙が流れていた。あの夜にも泣けなかった妻がようやく泣けたのだ。
俺は妻を抱きしめた。痩せこけて骨が浮き出ていたが、よく知った妻の背中だった。
「ねえ、またかかってくるかな?」
「かかってくるよ」
確信をもって俺は答えた。だって、薫は何度もコウシンしてたじゃないか。
(了)
(緋片イルカ2018/01/25)