がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。今回はとくに中級レベルの解説をしていますので混乱しないように気を付けてください。
今回は『サラは走る』というカナダ映画を分析してみます。映画のあらすじや受賞歴などはリンク先の作品情報をご覧下さい。
カナダ映画ですが、演出はヨーロッパ的です。ヨーロッパ映画はストーリーがないとか、雰囲気映画と言われがちですが、ビートはきちんと見つけられます。
ハリウッドのつくりと比べると、ビートが弱く、見つけづらい点と、ビートシートを前提に創られていないことが多いのでアンバランスな点にちがいがありますが、ビートは見つけられます。
初心者が分析に慣れるためにはハリウッドの大作映画がおすすめですが、慣れてきたら、この作品のようなヨーロッパ的映画を分析してみることで、さまざまなことに気づけます。あるビートがズレたり不足すると、作品にどう影響するかとか、ビートが機能するとはどういうことなど、実例でみることでビートの理解が深まります。また、鑑賞の上では、あいまいに見える作品の魅力を引き出すことができるようになります。
この映画は解釈に幅のある映画だと思いますので、先入観をもちたくない方は、どうぞ先に作品をご覧ください。
(Prime会員なら無料で見れます)
ネタバレ予防のため広告を挟んでいます。
【全体の構成】
とりあえず、全体をつかむためスリーポイントを提示します。
アクト1:
高校生の陸上選手サラは、モントリオールの大学の陸上特別プログラムに招待されるが、母親からは「学費はだせない」と言われ、バイト先のアントワーヌという男性とルームメイトになることで、家を出ることに。車でモントリオールへ出発(「カタリスト」)。その旅路、学生夫婦支援の奨学金をえるために、籍を入れることを提案される。悩んだ末(ここでサラが胸が痛くなっていることに注目(「デス」)
PP1「プロットポイント1(PP1)」:「結婚を受諾する」(25分26%)
アクト2前半:
アントワーヌとの共同生活が非日常の始まり。陸上の練習をしながら、結婚式も挙げる。陸上仲間でもある友人のゾーイの家を訪ねるのはサブプロットとして配置されている(「ピンチ1」)
MP「ミッドポイント」:「胸が苦しくなる」(53分56%)
パーティーに参加。賑やかさ、サブプロットとメインプロットの交差はミッドポイントとしての機能。パーティーで、アントワーヌとゾーイのカラオケを聴く(ぞれぞれの歌を聴いたときのサラの表情やカメラワークに注目)。ゾーイの歌をきき、胸が苦しくなることがミッドポイント。アントワーヌとの共同生活に心の奥が悲鳴を上げているとも解釈できる。
アクト2後半:
病院の検査をするが身体的な異常はない。アントワーヌとセックスを試みるが、うまくいかない(直前のシャワールームでゾーイの背中を眺める(「ピンチ2」ことが、アントワーヌを求める動機となっていることに注目)。
PP2(AisL)「プロットポイント2」:「アントワーヌから離婚を言いわたされる」(78分82%)
アントワーヌとの共同生活は終わる。
アクト3:
インタビューでオリンピックを目指すと答え、陸上に専念する(BGMの不協和音に注目)。
【アスリート映画と思ってる人がいる?】
この映画を見てから、ネット上のいくつかのレビューに目を通したら、アスリートの苦悩の映画と感じている人が多くいることに驚きました。
三幕構成を明確にあてはめるハリウッド映画の多くは「結論」を出します。ここにハリウッド映画とヨーロッパ映画の違いの一つがあります。
「結論」とはハッピーエンドになったか、ならなかったか、あるいは「何かを得て、何かを失ったか」。(参考:「ストーリー価値とエンディングの種類」)
映画の「結論」という一点にだけ注目すれば、この映画は「男との同棲生活に真剣になれず、走ることに生きていくアスリート」といえなくもありません。
多くの人がアントワーヌと別れて、陸上に向かっていく「結論」だけを見れば、アスリートの映画と見てしまうのも無理ありません。
三幕構成の真髄はエンドよりもむしろ「リワード」にあるかもしれません。(参考:「リワードというビート」)
この映画のエンディングがグッドかバッドかといえば、もちろんバッドです。演出をみれば明らかです。
この映画を、ハリウッド的にアレンジして、グッドエンディングにもっていくなら、アントワーヌとの関係で何かを得ている必要があります。共同生活を解消したとしても、彼は陸上を応援するといったり、それぞれの道を進もうといった、爽やかな別れにしたり、サラ自身の気付きや成長変化といった、何らかの意義があったはずです(それがリワード)。
裏を返せば、それが得られなかった、あるいは受け入れられなかったからこそ、バッドエンドになったのです。
サラのリワードとは何だったのでしょうか?
【キャラクターアークを辿る】
葛藤には外的なものと、内的なものがあり、映画では内的なものは推測するしかありません。(参考:「葛藤のレベルとアーク」)
ましてや、潜在的なことになると判断がつきません。この映画は、潜在的なレベルでの葛藤が丁寧に描かれている映画だと思ったのも、今回とりあげた理由の一つです。
日本映画の多くは考えていることや思っていることの多くをセリフで喋ります。本人が喋らなければ、周りの人間が語り、観客との共通認識になって物語が進みます。わかりやすい反面、人間としてうすっぺらくもなりがちです(日本人はテレビでのテロップの多様や、映画での字幕で、文字に慣れすぎて映像解釈が弱くなってる傾向があるかもしれません)。
ヨーロッパ的な演出では、表情や演出を見ればわかることを、いちいちセリフにはしません。「言わなくてもわかるでしょ」というスタンスです。わかりにくさの原因でもありますが、想像したり推測する楽しみでもあります。
この読み取りができるかどうかで、作品の解釈がまったく変わります。
この作品で、解釈を明確にわけるのは、サラの同性愛的な傾向を読み取れるかどうかです。
それはCC「主人公のセットアップ」の時点で描かれています。
具体的には、5分あたりの廊下でゾーイと会話をするシーンです。
ゾーイが後ろ髪を書き上げて結ぶのを、サラが横目で見たあと、彼女はパーカーのジッパーを上げてじぶんのうなじを抑えます。サラがゾーイを意識していることが伝わります。
ここを読み取っていないと、サラが陸上を続けたいと思うのはスポーツ選手としてのストイックな思いではなく、ゾーイと一緒にいるためだというのが理解できません。ゾーイの口紅を盗むのも、ミッドポイントでゾーイが歌うのを聴いて胸が苦しくなる理由も解釈できません(ゾーイへの気持ちを理解していないと、ただの身体的な症状と思うかもしれません)。
ゾーイへの気持ちを軸にキャラクターアークを辿ると、サラが走る意味が変わってきます。
インタビュアーに「全部はコントロールできないけど、走ることはコントロールできる」と答えています。
サラが「コントールできない」と感じているものは何なのだろう?
それゆえ、サラは走るのです。
サラ自身がどこまで同性愛的な傾向を自覚しているかは不明です。作品からは判別しきれません(個人的には同性愛的傾向を自覚をするかどうかの心情を描いているのだと思いますが)。
それを自由に解釈するのが、こういった映画の面白さでもあります。はっきりとレズビアン映画として描かないことで、アスリート映画としての解釈の余地も残ってはいるので、それも間違いではないのです。
【演出について】
役者の演技、カメラワーク、音楽、照明、カラーリング、そういった演出のすべてに意味を込めているのはハリウッド映画もヨーロッパ映画も変わりません(日本映画ではぞんざいな傾向を感じますが)。
演出の方向こそディレクションで、監督が示すべき方向です。優秀な監督はディレクションが一貫していて、すべての演出がストーリーに合致しています。
物語と演出のすべてが、伝えたいものを伝えるために向けられているのです。
たとえば、サラの表情に注目させようとしているのはカメラワークで明らかですが、これは彼女の心情を想像してほしいというメッセージでもあります(プロットポイントのガラスのシーンは明確なので説明は省きます)。
かなり眺めに顔を映すショットが多い映画ですが、長く映すことで、観客は人物の深い部分を感じるようになります。
短いショットを見せただけで人物の感情を読み取れというのは演出の奢りで、観客に感情を読み取ってほしいなら、十分な時間を顔のショットにつかうべきです。この映画ではきちんと、そう演出されているので、観客としても、そう受け取るべきなのです。
映画では立ち位置などにも意味があります。
サラはほとんどのシーンで人と向き合って会話しません。ゾーイの部屋に行ったときですら、横並びで、ゾーイに見られてるときですら横をむいてます(43分のカットなど)。ちなみに逆にアントワーヌはしきりにサラに向かい合おうとします。
これらの演出が意味してることは言うまでもありません(こういう意味かな?と思った、それが正しいと思います)。
サラの走るときのフォームにも性格が表れています。
セリフになっていなくても、はっきりと演出されているのです。
【まとめ】
セリフやストーリーがあいまいに見える映画でも、構成と演出をしっかりと読み取れば、監督が伝えようとしているメッセージが読み取れます。
表面的な部分だけで評価しないように気をつけたいものだと思います。
緋片イルカ 2020/07/05