『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット(三幕構成分析#15)

がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。

ゴドーを待ちながら

田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている。そこにやってきたのは…暴君ポッツォとその召使いラッキー、そして伝言をたずさえた男の子!不条理演劇の最高傑作として名高い、ノーベル文学賞作家ベケットを代表する傑作戯曲。

【観客の視点で変わる面白さ】

「不条理演劇」と言われようとも、物語である以上、アークやビートはあります。大切なのは機能しているのか、いないのか、それが問題です。

今でこそ最高傑作と言われる本作ですが、アメリカの初演では幕間のあとまで残っていた客は数名で、早々に講演中止になったといいます。見る人の解釈や視点によって、テーマや面白さも変わってしまう戯曲です。個人的にはとても好意的にみています。

三幕構成の観点から、物語がどういう構造をしているかを見定めた上で、テーマやメタファーについて考えていきます。

※以下、ネタバレ含みます。分析は広告の後から始まります。










【強烈なストーリーエンジン】

 ストーリーエンジンは物語を引っ張るテーマや状況などのことです。この戯曲では「ゴドーを待つ」ことが、それに当たります。ゴドーはゴッドすなわち神と解釈するのが一般的だと思います。作中には、聖書に関する言及も多く、そこを必要以上に穿って解釈する必要はないと思います。この「ゴドーを待つ」ことがどうしてストーリーエンジンになるかといえば、最後までゴドーがやってこないからです。

これを踏まえて、ログラインとしてまとめれば、

「二人の男が、ゴドーをひたすら待つが、やってこない」

となります。
まず、最後まで「やってこない」というネタバレを知っていて、この戯曲に触れるかどうかは大きな違いだと思います。アメリカの初演では「パリ直輸入の爆笑コメディ」という謳い文句だったそうです。多くの人は「ゴドーが最後まで来ない」ということを、知らずに見ていたのだと思います。

戯曲なので、台詞がビートとなっているものが多いのですが、その台詞自体がメタファーを踏まえないと機能していると思えないものが多いので、そこが、この戯曲を楽しめるかどうかの最大の違いだと思います。

以下、ビートに触れながら、具体的に考えていきます。(台詞部分はすべて引用です)

【ビートシート】

Image1「オープニングイメージ」:エストラゴンの台詞「どうにもならん」。これはフランス語を解釈すると「演ずべきことは[主題・物語]は何もない」という宣言ともとれる(解説より)。この台詞から物語が始まることはテーマを提示している(戯曲なので映像的なイメージではない)。

CC「主人公のセットアップ」:ヴラジーミルの登場して最初の台詞「そんな考えに取りつかれちゃならん」。「そんな考え」というのはは物語の全体をみれば「自殺」と解釈できるし、少し後にも「エッフェル塔から身投げすることもできたろう」などと明確に言っている。ここまでで「ジャンルのセットアップ」とともとれますが「爆笑コメディ」という、謳い文句が頭にあると、これから笑わせてもらえるのだと期待してしまう。不条理演劇という前提で見ていれば、この時点で十分セットアップできている。

Catalyst「カタリスト」:「二人が再会」。幕が上がってすぐだがエストラゴンとヴラジーミルは再会を喜ぶ。ここから二人の会話が始まる。「うれしいよ、また会えて。もう行っちまったきりだと思った。」

Debate「ディベート」:「聖書や救世主についての言及」。「おまえ、聖書は読んだかね?」「泥棒が二人。ところが一人は救われて、もう一人は……地獄行きだ」など。

Death「デス」:エストラゴンの「さあ、もう行こう」という台詞。物語全体で「行く」=「舞台上から消える」=「死ぬこと」のメタファーになっているのでデスとして機能している。エストラゴンは「自殺lしようとしていると解釈できる。

PP1「プロットポイント1(PP1)」:「ゴドーを待つんだ」という台詞。「自殺」を思い止まり、神の救いを待つというアクト2に入っていく。この非日常感が「最後までゴドーは来ない」ことを知らないとテーマだと気付けない。すると物語が何も起きていないように見えて、つまらない演劇にみえる。「もう行こう」「ゴドーを待つんだ」の掛けあいは何度もくり返される。

Battle「バトル」:「待つこと」。暇や無意味に感じられる日常、エストラゴンの痛みに対する言及など、この辛い日常に対して、自殺せずに「ゴドーを待つ」ということは試練である。また、随所に入ってくる「沈黙」というト書き。これは神の沈黙を意味していると思われる。演出家の腕の見せ所でもある。

Pinch1「ピンチ1」:「ポッツォとラッキー登場」。サブキャラクターの登場。その後の、コントのようなやりとりはコメディととればコメディであるし、くだらないととれば無意味な日常ともとれる。シュールにも感じられるし、同時に観客にも、見ているのを堪え難い気持ちを与える効果もある。踊ることや考えることは、人生の暇潰しでもあり、ラッキーの長台詞のように考えすぎることは狂気でもあるなどと解釈もできる。ポッツォは「どうも立ち去りがたい」と言いながら、ものを無くして(パイプ、吸入器、懐中時計)、「さようなら」と言って、舞台袖へ消えていく。

MP「ミッドポイント」:「少年がくる」。ゴドーのことづてを伝えにくる少年(聖書の神に愛されるカインを思わせる)。「ゴドーさんが、今晩は来られないけれど、あしたは必ず行くからって言うようにって」。「ゴドーは来ない」は絶望のようにも、「明日は必ずくる」は希望のようにもみえる。ここで演劇上の「一幕」がおわる。

Fall start「フォール」:「翌日(二幕の開始)」。翌日(本当に翌日かどうかは不明)、二人が再会して、再びゴドーを待つ。やりとりは、一幕とあまり変わらない。二人は、こうして何年も「ゴドーを待ちながら」、日常を生き抜いているのかもしれない。ともかく、観客は少年の台詞から「今日は必ず来る」という期待がある。

Pinch2「ディフィート or ピンチ2」:「ポッツォとラッキー再登場」。ポッツォは盲目になっている。預言者のメタファーとも解釈できるし、ゴドーを待たず罰をうけたともとれる。解釈の幅は広いし、自由にできる面白いところでもある。ともかく構成上は、ミッドポイントを挟んで同じことが起きる。

PP2(AisL)「オールイズロスト or プロットポイント2」:「少年がくる」。昨日の少年とは違うと言い張る同じ少年がきて「ゴドーは来ない」と告げる。

BB(TP2)「ターニングポイント2」:エストラゴンの「おれは行くぜ」に対して、ついにヴラジーミルも「わたしも行く」と言う。そしてビッグバトルとして「二人、木で首を吊ろうとする」。しかし紐が切れて失敗。

image2「ファイナルイメージ」:「おれはこのままじゃとてもやっていけない」「口ではみんなそう言うさ」「あした首をつろう。ゴドーが来れば別だが」などと話した後、「じゃあ、行くか?」「ああ、行こう」と言う。しかし「二人は動かない」というト書きで終わる。

【感想】

「ゴドーが来ないこと」を含め、いくつかのセリフの意義などをどう解釈するかは、この戯曲を楽しむ自由だと思います。構成上は、しっかりと「ゴドーを待っている」のに「来ない」ことがディベートされていて、二度目の「来ない」から、とうとう自殺しようとするが失敗というアクト3も明確にあります。その辺りを読み取って、考えることができる人にはとても面白い作品になると思います。一方で、このテーマ性を読み取れなかった人には、コントのようなかけあいにうんざりするだけの、何も起きていない戯曲に感じられてしまうと思います。

緋片イルカ 2020/02/19

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三幕構成の本についてはこちら→三幕構成の本を紹介(基本編)

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