マジックについて(文学#33)

二つの文章を引用する。

神話の時代も後期に入ると、鍵となる場面が、二次的な小話や合理的な説明の中に、あたかも干し草の山の中の針のように隠れることが多くなる。文明が神話的視点から世俗的視点へと移行すると、古い時代の物語はもはや共感されず、完全には受け入れられなくなるからである。『千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』ジョーゼフ・キャンベル

 マジックという言葉に縁の深い学問および技術の著しいものが三つある。第一は民族学の中心項目としての呪術(マジック)で、民族学は古代史に散見しまた現存原始種族に行われている呪術、呪物崇拝などを研究する学問だといってもよいくらいマジックと縁が深い。第二は神秘学(オカルティズム)の中心題目としてのマジックである。これは正統の科学ではないが、オカルティストたちにいわせれば一つの学問であって、あらゆる魔術的現象を対象とする。第三は奇術(手品)としてのマジックである。『探偵小説の「謎」』江戸川乱歩

つまりは、ミステリーにおける謎や、サスペンスやホラーにおける恐怖も、文学におけるマジックリアリズムの不思議も、すべて物語を通した神話的世界との交流、集合的無意識からのエネルギーの流入体験といえる。作家はシャーマン(現代人から見ればマジシャン)であらねばならない。

独語的補足:
現代人は神話を失っている。だからトリックとしてのマジックが売れる。マジックばかり考える、つまり小手先の技術ばかり磨くライターが増える。ハリウッド的な三幕構成が流行るのも頷ける。「売れる」「職業作家」という観点が、物語の本質を誤った方向に導いてもいる。けれど、しっかりとした物語を描いている作家は売れているのも、また事実である。とくに自国内に留まらず、世界的な共感を得る物語は、表面的な流行り廃りだけでない何かあるのである。時代を越える古典も同じ。それは集合的無意識との交流に要約される。モノミスは物語の構造的側面の本質ではあるが、それだけでは読者を、キャンベルいうところの宇宙創成の円環まで誘うことはできない。あるいは誘うことのできる構造こそが、本質的な物語と考えるならば、三幕構成の理解度の深さの問題ということになるが、一般的なハリウッドのビートシートなんかには決定的に欠けている要素がある。それは「マジック」というビートと言い換えてもいいかもしれない。定義しづらいが、しいていえば「読者の関心をより深いレベル(集合的無意識へ)向けるもの」。乱歩のマジックでいえばオカルティズムに近い。ただし乱歩の文章はあくまでミステリー小説に対するものだから、そのまま当てはまることはできない。ビートのセットアップの時点では、単純なミステリー(たとえば殺人事件みたいな)も「マジック」たりえる。どうして?なぜ?といった自分の理解を超越した疑問が頭をよぎるとき、人は敬虔になる。それに対して論理的解答を与えるのはマジシャンであり、知的遊戯としての賛美に値する(同時に不服の対象にもなるが)。エンターテイメントに対する対価としての原稿料、印税があってもよい。職業的な作家、マジシャン的な作家といえる。それに対してシャーマン的な作家は、神秘性を保ったままの物語を描く。論理を超越する。ときに理解されない。誤解されたまま解釈されたものが神秘につながることもある。それは作家自身が自覚的に描いている場合もあれば、無自覚的に(まさにシャーマンのトランスのように)無意識領域にリンクしている場合もあるからである。自覚的に描こうとすると、理性が働きすぎて、無意識領域へのリンクが難しくなる気はする。「マジック」というビートは物語の構造的側面から、無意識領域へのリンクを促すビートとなりえる。読者に与える効果としてはオカルティズムに近いが、表面的なモチーフとして魔術や呪いといったアイテムによるものではない。メタファーによってもたらされればマジックリリアリズムとなる。このあたりの作品の分析が「マジック」というビートの鍵になりそうだ。集合的無意識へのアクセスできなくなった現代人は、頭でっかちとなり、人類としての共存意識が薄れ、断絶がうまれ、それはやがて争いに発展していく。太古の時代に神託によって世を鎮めたように、文学を目指す者はシャーマンとならなくてはならない。

緋片イルカ 2020/10/01

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