人間が「生きる」には物語が必要です。
文化が未発達な、先史時代のような頃であれば、生存することだけが「生きる」に直結していたかもしれません。
しかし、ラスコーの洞窟画を見れば感じらるように、太古より人間が物語を必要としていたことは明らかです(先史時代の文学(文学史2))。
動物だって遊びます。ただ、食べて、寝ることが「生きる」ことではありません。
致死率が高ければ、生命維持に対する比重が大きいというだけで、物語が不必要ということではありません。
死に直面したときこそ必要となる物語もあります。
ナチスの強制収容所を生き延びたヴィクトール・フランクルの書いた『夜と霧』には多くの人が「クリスマスになれば家に帰れる」という期待をもって生きていたという話があります。その期待が裏切られたとき、多くの人が亡くなったそうです。
絶望的な環境のなかで「クリスマスになれば帰れる」というハッピーエンドの物語にすがることで、生きる意志を保っていたのです。
物語が崩れたとき、人を命を失うほどに絶望してしまうのです。
サムライや修道僧や、戦争に命を捧げた若者のなど、自らの信念のために命を惜しまない人もいます。
いえ、惜しまないはずがありません。自分が死のうとも、その先の世界が良くなる物語を信じて、命を捧げたのではないでしょうか。
あるいは病気で死期の近い親が、子供を思う気持ちなどを想像すれば、もっと身近に感じられるかもしれません。
物語が必要なのは、命に関わる極限的な場合だけではありません。
たとえば、受験生とかスポーツ選手が、つらい勉強や練習に耐えられるのは、その先の「成功」という物語の結末を信じられるからです。
未来の物語を描けなければ、子供でも、諦めて、努力はしようとしません。
「どうせ、ムダ。生きている意味なんてない」
そんな風に呟くかもしれません。
まさに、物語を持てない人には、生きる意味が見いだせないのです。
ちょっと前の時代、日本でいえば高度経済成長とかであれば、
「勉強して、いい会社に入り、家族を築き、老後はのんびり暮らす」
そんな、生き方のモデルとなる「大きな物語」が信じられていて、従っていれば迷うことは少なかっただろうし、実際にそういった人生を全うされた方も、たくさんいたことでしょう。
けれど、そんな物語は、現代では通用しなくなっていることは、みんなが気づいています。
「どう生きるか?」の物語を自分で見出さなくてはならないのです。
明日の食費に困るような人たちがいる一方で、経済的に豊かな人たちは恵まれた生活をしているように見えます。
SNSなんかなければ、他人の生活など知り得なかったのに、知ってしまうと、自分と比較し、様々な感情が渦巻きます。
相手を否定する物語や、自分を肯定する物語です。
生きる意味そのものである自分の物語を守ることに誰もが必死です。
個人間でも言い争い、集団的な抗争に拡がり、国家や民族間での戦争にもつながります。
世界中のあらゆるところで「分断」が起こっています。
今に起こったことではありません。
歴史をみれば、大国が軍事力でもって「自分の物語」を押しつけることで、分断は集約されてきたのです。
戦争以外の方法で「分断」を超えられるかは、人類にとっての課題です。
文学という視点からいえば「分断」を乗り超える物語を、現代を生きる作家達は描く必要があるのです。
世界の不幸に対して抗議するために幸福を創造すべきである。
これは、作家アルベール・カミュの言葉です。
しかし「物語」は作家だけが創り出すものではありません。
一人の人間が生きていることは、それは、一つの物語を生きていることです。
サムライや修道僧のような物語に命を捧げた人の話をしました。
その人が亡くなってしまっても、その人の人生は「物語」として残ります。
生きている人に引き継がれるといってもいいでしょう。
エンターテイメントの物語で喩えるなら、主人公が変わったようなものです。
「次はあなたが主人公として、あなたの物語を生きるのです」と。
もう一つ、カミュの言葉を引きます。
人生は苦しんでまで生きるに値するかどうか。これが哲学の根底にある質問である。
生きることは、あなたの物語を紡ぐことです。
生きているだけで「世界の不幸に対して抗議」していることになるのです。
あなたが書けなくなっても、生きてさえいれば作家です。同時代を生きる仲間です。
また、書きたくなったら書けばいいし、気持ちに余裕があれば他人の作品に耳を傾けるといい。
それすら、できなくても、生きてさえいればいいのです。
ハッピーエンドになる逆転劇なんか信じなくていい。
ただ、じっと生きることがあなたの物語になるのです。
緋片イルカ 2021/03/15
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