物語の公式を学ぶことについて(文学#69)

学習塾でアルバイトをしていた頃、当然のこと、飲み込みのいい子とよくない子がいた。

いい子は「y=ax+b」といった公式を教えるだけで理解する。

公式に当てはめれば問題がスラスラ解けるので、簡単なパズルのように感じるのだろう。

抽象思考に強いのだと思う。

飲み込みのよくない子に教えるときは、練習問題をたくさんやらせるようにしていた。

何度も何度も同じような問題を解くうちに、パターンがあることを感じてくるので、そこまで来てから公式を教えると「そういうことか!」となる。

物語で公式のようなものが「構成」だと思う。

たとえば、ボクシングの映画があるとする。

クライマックスはボクシングシーンに決まっている。

主人公と因縁の誰かが試合をする。

役者の演技や、ショットの演出、音楽の魅力ということは、いったん置いておいて、物語として最大限の盛りあがりを作るにはどうしたらいいか?

パズルである。

企画段階で予算や主演など、いくらかの制限がかかっていることが多い。必ず使わないといけないピースだ。

それらを時間(尺)に収まるように、効率よく、最大限に盛り上がるようにシーンを並べる。

物語は自由であって構わないし、自由であるべきだとも思うけど、「時間内に盛り上がるように」というルールがつけば、もはやパズルや数学に近くなる。

テクニックが必要になる。

そういった研究が映画大国のアメリカでは何十年も前からなされていて、研究に基づいて作られた映画がヒットを生んでもいる。つまり机上の空論ではない。

作家がそう言ったテクニックを知っていて、損がないのは言うまでもない。

ましてや、仕事としてお金をもらう作家を目指そうというのであれば、知っていなければならない。

仕事として考えるなら、作家は「物語という高額商品」を売るようなものである。

たとえば、浄水器の販売員が、自分の売っている商品について知識がなかったら信用が得られない。

客よりも知識がなかったら?

こんな奴から買うもんかと思われてしまうだろう。

作家は物語の専門家でなければならない。

実務でいえば、物語の専門家でないプロデューサーや監督が「こんなシーンいる? カットしようよ」と言ってきたとき、何を言えるかである。

声の大きい人に言われたからとカットするような作家は、専門家として不要ではないか?

もはや監督やプロデューサーが書けばいい。

物語の観点から、そのシーンが必要であるなら、必要な理由を説得力をもって説明できなければならない。

もちろん、論破するのが目的ではない。

専門家でない人の意見でも、良いと思えば素直に従えばいい。

最終的に完成した物語が魅力的にならなくてはならない。もちろん、役者や演出の魅力抜きでだ。

その責任を負うのが、物語の専門家だと思う。専門性に対して、客はお金を払う。

数学の学習の話に戻る。

飲み込みのいい子はすぐに公式を理解する。

けれど、理解したからといって、練習問題を解いて体に覚えさせなければ、計算ミスをしたりする。

三幕構成やビートシートについて理解があっても、面白い物語を書けるかどうかは、また別なのである。

一方、飲み込みのよくない子は練習問題をくり返すが、これは先に体に覚えさせてしまうようなものである。

かといって、その後に理論をしっかりと理解しておかなければ、専門家にはなれない。

公式だけでもだめ、体で覚えるだけでもだめ。両方必要。それでこそ専門家というもの。

実際、物語を書くことは公式通りにはいかない。

数学だって受験レベルなら正答が用意されているが、数学の専門家になれば、誰も答えを出せていない問題に挑まなくてはならない。

物語を作るということは、それに似ている。

そのとき、公式を知っていることが有効なこともあれば、公式を過信すると固定観念に陥って解決ができないこともある。(アメリカ映画でも、そういった思考に陥っている脚本がいっぱいある。公式通りだが、だからつまらなくなっている)

物語では、公式自体が、時代とともに変わっていくのだから、常にアップデートしていかなければならないし、あるいは古典の中にヒントがあることもある。

芸術をある種のトリップ状態から生み出される神聖な何かのように捉える人がいるし、ある側面ではそういったところもあるのも事実である。

しかし、言葉を使う以上に、物語には論理性が求められる。

読む相手に伝わらない文章を神聖視するなら、精神異常者の文章に感動するかを考えてみればいい。衝撃こそあれど感動はしないだろう。

そういったアンチ物語が、自分の求める作家性であるなら、それもまた自由ではある。

だが、お金をもらう仕事のできる作家になれる可能性は低いだろう。

文章が書ければ、物語も書けると思ってしまう人が多すぎる。

独学で学ぶことが個性を作り出すと勘違いしている人が多すぎる。

天才ならいい。自分が天才だと思うなら、我が道を進めばいい。

けれど、多くのプロは基礎をしっかりと身につけた上で、さらに試行錯誤して自分の個性を作りだそうとしている。

素人が基礎も学ばずに個性と勘違いしているものなど、過去の名作にあるクリシェばかりだと思う。

スポーツを想像してみるといい。

トップを目指すプロは、素人が思い付くようなレベルのことは、すでに知っている。

もっと高いレベルで、上を目指している。

一方で、プロとしてやっている人のレベルが、そこまでの専門家に見えないのも事実である。

特に日本の物語力は低い。

今後、世界に向けて物語を売っていかなくてはならなくなる。

いつまでも、ジャポニズムだけを売りにしていてはいけないと思う。

緋片イルカ 2022.12.13

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『物語の公式を学ぶことについて(文学#69)』へのコメント

  1. 名前:atlan 投稿日:2022/12/25(日) 07:32:13 ID:57446beb3 返信

    初めまして、atlanと申します。物語に取り憑かれて、細々と詩や小説を書いている者です。
    ここで、イルカさんがここで、おっしゃっておられることは至極、尤もで、共感します。
    素晴らしい記事で、卓見・至言だと思います。
    多くのプロ作家(中には芥川賞作家も)の講義や講座を受けましたが、基本、「書け! 書け!」としか言わないので、才能のない自分に絶望しかけたこと何年もなりました。少数の物語学的アプローチから自分なりに体得して来たもので、活動しております。 

    私こそ、理論と実践がまだまだ噛み合わない「飲み込みのよくない子」そのものです。笑

    自分のWEBブログでも、このサイトを紹介させてくださいね。
    これからも素晴らしい記事、楽しみにしています。
    頑張ってください。

  2. 名前:緋片 イルカ 投稿日:2022/12/25(日) 11:09:25 ID:478c1b5cf 返信

    atlanさん、コメントありがとうございます。

    当サイトでは尖った系の記事になりますが、こういう記事に共感いただけるのはとても嬉しいです。ブログにもご紹介いただけるとのことも嬉しく思います。

    現在は小さいサークルですが文学・映画を中心に活動しています。atlanさんとも、どこかでお会いできる日があるのを願っております。