物語の専門性について(文学#88)

物語の修正はむずかしい。

意見を言うだけなら、わりと簡単で、一般の観客でも作品を見ては「ああだ、こうだ」と感想を言っては、専門家よろしくレビューを書いたりしている。

そういうものには偏った私見もたくさん含まれるが、「何かおもしろくない」とか「よくわからなかった」といった率直な意見は的を射ていることも多く、作家は真摯に受け止めなくてはならない。

ストーリーアナリストはドクターに喩えられることがある。

患者は、医師のような専門的な知識はないが「痛い」と感じていることは事実で、そこには病原が潜んでいる。物語でいえば「なんとなく」感じるものこそ病原である。

一般人は「なんとなく」でわかっても、その原因を的確に指摘はできないし、ましてや改善方法もみえない。

医者は豊富な経験と知識から、病原を定めて、適切な処置を施す。だから良くなる。

素人考えで「ああでもない、こうでもない」と処置を繰り返しても、適切でなければ、いつまでたっても改善しない。

すなわち、物語に対する分析力が足りなかったり、修正案を提示できないような者が、推敲を繰り返しても物語は良くならない。

でも経験にはなる。

経験を積み、知識を学ぶことで、信頼できる専門家になっていく。

知識だけでは足りない。

やり方を知識で学んで知っているだけでは、手術は成功できない。そんな医者に、自分の体を預けられるか?

ビートシートの理屈をいくら学んでも、それだけで面白い物語など書けない。

それを作品で応用するためには、たくさん書いて、人の意見に耳を傾け、たくさん直すしかない。

そういった努力の繰り返しによって経験が積み重なって、適切な処置ができるようになっていく。

「たくさん直せば良くなる」「時間をかければ良くなる」というのは、素人が言っても努力を美化した思い込みに過ぎない。

専門家の意見に従って、時間をかけるのであれば良くなる可能性はある。

それでも医者を無視する患者も多い。病状が緩和すると満足して、薬を飲まなくなってしまうような患者だ。

悪いときだけは言うことを聞くが、少し改善したら、あとは我流に戻してしまう。

そもそも、物語に病原が生まれるのは、最初の書き方がまずいからである。

作家がそのことに気がついて、書き方を変えなければ同じミスを繰り返す。

それでも、たくさん書き続けていれば、経験を重ねるうちに、自らミスに気づけるようになるかもしれない(ならない人もいる)。

素直に受け止めることができる人は成長が早い。

正しい指導を受ければ、すぐに伸びていく。

ただし物語では、ヤブ医者ならぬ「ヤブ作家」や「ヤブ分析家」が多く、指導内容自体が間違っていることも多いので気をつけなければならない。

ヤブか本物かを見分けるポイントは簡単で「診断が正しく、処置が適切か?」だけである。

つまり、実際に面白く改善できるかどうかだけである。

アメリカのどこどこで勉強したとか、あれこれの作品に携わっているなどといった肩書は関係ない。

大手メディアの、どこぞの作品に携わっていようとも、その作品が面白くないなら、ヤブとは言わないまでも、その程度のレベルである。

医師が信頼できないなら、民間療法でもいいのかもしれない。良くなるなら、それでいい。

物語の修正は「薬を飲めば良くなる」といった類いのことではない。

リハビリや運動、生活改善のように自らが行動しなければ、誰も直してくれない。

レベルが合わないとか、スタイルが合わないということもあるだろう。

まずは自分が、本当に良いと思う方法を見つけること。

誰かに言われたからといって、良いと思ってないのに直すのは無責任である。作品は作家のものであることも忘れてはいけない。

相手の言うことを理解できていないなら、まずは、きちんと話して理解をするべきだろう。

むずかしくて全部が理解できなくても仕方がない。

まずは理解できた部分をしっかりと直せるようにするべきで、わからないことをあれこれ考えるのは、やれることをやった後でいい。

やるべきことをやれば、自然と次のレベルのことが理解できるようになっている(あなたは天才ではないのです)。

理解はできても「納得できない」「共感できない」とか、従いたくないというようなこともある。こういうときの対処もいくつかあるが、この記事では、ここまでとしておく。

まずは、やるべきことをきちんとやるということに集中するべきだと思うので。

緋片イルカ 2023.8.27

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