ストーリーエンジンの実例
ストーリーエンジンとは何かについては前に説明したので省略します。
今回はそのいくつかを実例で示してみます。
エンジンが駆動するとは?
たとえば、こんなシチュエーションを想定してみます。
昼下りの公園。小さな子ども達が公園で遊んでいる。すこし離れたベンチでは母親達がおしゃべりをしている。
これは日常的な風景で面白味はあまりありません。
ただし、これだけのシーンでも会話がリアルであったり、表現が魅力的であったり、皮肉が効いていたり、文章自体に読ませる力があれば、それだけ面白味はつくれます。
ストーリーエンジンでいえば「リズム」や「ムード」といったものが駆動している場合です。これは多分に「作者の腕」と「読者の好み」に影響されます。
午後の公園の静かな公園の風景を、穏やかに描くか、不吉に描くかなど、作者の視点と、それに対して読者が共感したり興味を引くかどうかです。
共感できる人には、それだけで先を読みたいと思えるので、エンジンが動いていると言えるのです。
しかし、これらのエンジンはやや限定的です。
その心地良い情景が50枚や100枚も描写されていたとき、共感できる人には気持ちのいい音楽を聴いているようにリラックスできるかもしれませんが、興味をもてなかった人には「何も起こらない」「つまらない」と苦痛を感じてしまうかもしれません。絵画でいえば風景画や静物画のようなものと言えるかもしれません。
主人公自身がエンジンを動かしている場合もあります。人物画です。
人間はたいてい、風景や静物よりも、人間の方が興味を持ちやすいものです。
他人を見れば「誰だろう?」「どんな人だろう?」という疑問が湧くからです。容姿に対して好悪の直観も働きます。
さっきの例で考えてみます。
公園でおしゃべりしている母親の一人が主人公だとして「はやく帰りたいな」と思っているとします。
「ママ友づきあいは大変」といった雰囲気が出れば、一部に共感する人もいるでしょう。
これは「ライフ」というエンジンです。読者がママ友づきあいの苦痛に共感できなければ、全く駆動しませんが、同じような体験がある人には「わかる!」となるのです。
主人公が抱えているものが「老」「死」「病」といった誰でも避けがたく体験するようなものであれば、共感する人の幅は広がります。
絵画では、目を引く構図というものがあります。人物の配置や色、明暗などで視線が無意識に主題に向かうように構成するのです。
物語の構成でも原理は同じです。
実例で考えてみます。
もう一度、公園のシーンに戻ります。
構図の効果を強調するため、人物的な効果を排除します。つまり、さきほど想定した主人公の「ママ友づきあいは大変」「あの死体を隠さなくては」というのはナシにします。ただおしゃべりをしている、普通のお母さんとしておきます。
ここに「ミステリー」のエンジンを入れてみます。
おしゃべりをしていたお母さん達が、そろそろ帰ろうかと子ども達を見ると、自分の息子だけがいない。他の子たちに聞いても知らないという。
「どこへ行った?」という「謎」が起こります。
主人公の母親は当然探しはじめるので、ストーリーが動きだします。
読者も「誘拐?」「家出?」など予想をしながらも、つづきを読みます。エンジンが駆動したのです。
「サスペンス」のエンジンはどうでしょう?
母親達はおしゃべりをしている。そこへ子ども達の元へ、あやしい男が近づきます。「きみたち、いいものをあげようか?」と優しく声をかけています。しかし、母親達はおしゃべりに夢中で気づかない。
これで読者はひやひやしたり、「どうなるんだろう?」と、つづきを読みます。エンジンが駆動しています。
「ミステリー」はかくれんぼです。この例では「突如いなくなった子どもはどこへ?」というかくれんぼです。
「サスペンス」はおにごっこです。この例で「怪しい男から子どもが逃げ切れるかどうか?」というおにごっこです。
ついでなので、ホラーの実例も示しておきます。
母親たちが、帰ろうかと子ども達を見ると、息子がいない。ここまではミステリーと同じです。
そばにいた子が聞くと「砂場の中から腕がたくさん出てきて、地面に消えちゃった」と言います。ありえない現象です。
もちろん、探偵がトリックを解き明かせば「ミステリー」だったと落ち着きますが、公園で殺された子の呪いであったならホラーとなります。
このように、ある出来事を起こすことで、物語を動かして読者の興味を引いていくのがストーリーエンジンの機能です。
ストーリーエンジンとジャンルの違い
ストーリーエンジンにこのような定義を与えたのは僕のオリジナルですが、ヒッチコックは同じような力学を「コード」と呼んでいました。楽器のコードを押すように、特定のシーンを作れば観客の感情を鳴らせると考えていたそうです。江戸川乱歩は「スリル」という言葉を使って探偵小説の面白さを説明していましたが、ドストエフスキーの小説にも「スリル」が働いていると書いていて物語を読み進める力という意味で、同じようなものだと感じました。
「ミステリー」というとき、多くの人はジャンルとしてのミステリーが浮かぶと思います。
さきほどの公園の例で、いなくなった子どもを見つけるまでの話が200枚にわたって書かれていれば、ミステリー小説となるでしょう。これはジャンルとしてのミステリーです。
一方、ストーリーエンジンはシーン毎に小さく駆動して読者を引っ張っています。
いなくなった子どもを探し、あたりを探すと爽やかな優しい男性が子どもを保護している。「お母さんですか? よかった。小さな子がひとりで心配で一緒にいたのです。本人は何も言わないし、あと5分して満つからな交番に届けようと思っていたのです」
ここで、母親には夫への不満や、母親として過ごす日常にむなしさを感じていたとします。するとこの男との出逢いは不倫の始まりとして機能します。その後の200枚を見れば、ラブストーリーとなるでしょう。
しかし、「子どもがいなくなる」→「男が保護する」というシーンでは「ミステリー」というエンジンが働いて読者を引っ張っていたのです。
もちろん作品全体のバランスから見て、このシーンが必要かどうかという検討はなされるべきです。
裏を返せば、面白いけど意味のないシーンで読者を引っ張るということも可能です。
物語のテーマや本質的な「変化」とは別に、ストーリーエンジンには力があるのです。
これは実のところビートの本質と同じ力です。
構成とエンジン
物語は「キャラクター」と「プロット」の二つの側面が影響します。
どちらかを大事という人が、よくいますが、どちらも大事なのです。
「キャラクター」だけで物語を動かそうとすると、キャラが大振りになります。大げさといってもかまいません。
これも実例で考えてみます。
公園でのシチュエーションは同じとして、おしゃべりをしている母親である主人公が「ああ、はやく帰って、あの死体を隠さなくては……」と思っていたらどうでしょう?
キャラクターが自身がミステリーを抱えています。
「死体? 何のことだろう?」「何があったんだろう?」「この先、どうなるんだろう?」(ここではミステリーのエンジンも働いています)
といった興味が湧いて、続きが気になります。
主人公が犯罪者という設定にしなくてはなりません。これが大振りという意味です。
「ああ、はやく帰って、洗い物をしなくては……」では読者をエンジンとしては弱く、読者を引っ張れません。
キャラクターだけで引っ張ろうとすると、大げさになってしまうのです。
へんな人間を創れば、興味をひきます。意味のない一発芸をやるようなお笑い芸人を浮かべてもらうと、キャラクターだけで引っ張る苦しさが想像できるかと思います。
過激なものは、はじめこそ興味を引けど、やがて慣れて、飽きられてしまうのです。
「プロット」だけで進めるというのは「ミステリー」の例で示したような、普通の主婦が子どもを探すだけのストーリーです。
一応は、興味を引きますが、ありがちで、魅力に欠けたストーリーになります。
この場合も、事件の方を奇抜にしたり、犯罪者を狂人にしたりといった方でバランスをとるハメになってしまいます。
「キャラクター」と「プロット」を両輪で動かすのがいい物語です。
これを実例で示すなら、主人公の母親が「ああ、はやく帰って、あの死体を隠さなくては……」ところで「息子がいなくなる」。
例に挙げた二つを合わせただけですが、この場合、読者は「息子の行方不明」と「あの死体」に関連を予想します。
「母親が誰かを殺して、その復讐?」
容疑者ががおしゃべりをしていた母親の中にいたら?
いろいろと、どす黒いストーリーが見えてきます。
4WD(四輪駆動)自動車のように、ストーリーの力強さが増すのです。
緋片イルカ 2020/09/27