脚本作法10:会話をセリフにするか、ト書きにするか

ライターズルームで提出された脚本を元に「会話をセリフにするかどうか?」について解説します。

基本的にはケースバイケースなので、その都度、映像や撮影のことをを想像して決めるいうのは大前提です。

ト書きで済ませてよい例

具体例を引用します。

石川さんの『隣』初稿より。※脚本添削『ラブエネルギー』(旧題:『隣』)(★1.6)

2.バス・車内(朝)
車内に人は少ない。
先程の女性が乗り込む。
女性、車内に男性を見つけ、手を振る。
男性も気付いて返事する。
女性、歩いてきて当然のように男性の隣に座る。
何やら会話。
離れた席でそれを見ていた、林一郎(16)。

非常に読みづらいト書きですが、整理していきます。

登場人物は「女性」「男性」「林一郎」。
林一郎は16歳で高校生、バス通学のシーンです。

「何やら会話」という書き方が唐突ですが、女性と男性が「何やら会話」をしていて、それを林が見ているという状況です。

主人公である「林視点のシーン」です。

離れた席にいる林からのPOV(Point Of View)として「何やら会話している女性と男性」を映すのであれば、会話の内容が聞こえなくても問題ありません。

よって、このシーンでは「会話の内容をセリフにしなくてもよい」といえます。

引用した脚本にはありませんが、車内にいるエキストラ役のような「乗客たちが世間話をしている場合」などもセリフにする必要はありません。撮影の現場にお任せすれば良い範囲です。

ストーリー上、あってもなくても良いようなセリフは背景音みたいなもの。

言い換えるならストーリーに関係ないセリフをダラダラ書けば無駄なセリフになりますし、ストーリーに重要なセリフはト書きで済ませず、きちんと書かなくてはいけません。

なお、本記事とは別テーマなので詳細に説明しませんが、この脚本の読みづらさの原因は「イメージが沸かない」「感情が伝わってこない」せいです。原因を箇条書きにしておきます。
・男女と林の、座席の位置関係がわからない。バスの座席は地域などによって違う。都内のバスなら二人席の様子は後ろから見えないのでは?
・男性、女性がどういう二人なのか不明。年齢、服装の雰囲気、感情などの描写が一切ない → そのため林が「どういう男女」を見て、何を感じてるのかも伝わらない。
・林視点なのだから、林がいることは一行目でセットアップするべき。 → 林視点のシーンなのに、入りが男女視点のシーンに見えて内容が掴みづらい(小説の人称のブレと同じ)。
・柱が変わってるのだから「先程の女性」という書き方で前シーンのキャラを支持するのはNG。
・そもそも、セリフもないようなエキストラ役の男女を数行もつかって描写するほどか? → もちろん作者の意図はわかる。だが説明的でないか? もっと魅力的な描写はないか?

セリフにすべき例

同じ作品から別シーンを引用します。

10. 市立東高校・校舎(朝)
林の前を歩くみなみと男子生徒。男子生徒の隣にはみなみである。
教室前まで来たところで、男子生徒短く別れの挨拶。
みなみ、静かだが明るく答える。
男子生徒、教室に消えていく。
みなみ、自分の教室へ。遅れて林もみなみと同じ教室へ入る。

11. 林家・玄関外(朝)
よく晴れた日。
制服姿の林、自転車にまたがりキコキコ漕いでいく。
(終)

また、内容を整理しましょう。

ここで引用していないシーンを読むとわかる情報ですが「みなみ」は林が好きな女子生徒です。

「シーン10」は、「みなみ」と「男子生徒」のカップルが歩いているのを、後ろから「林」が尾けている状況です。場所は校舎とありますが教室の前なので「廊下」でしょう。

ちなみに、ここでも視点/人称がブレているから読みづらく、バスの座席と同様「林」と「みなみカップル」の距離感が曖昧です。

バスでの「離れた席から眺めているPOV」と違い、ここでは「別れの挨拶」や「静かだか明るく答える」のが認知できるほどの距離にいるようです。

ということは、林には会話の内容が聞こえているのではないでしょうか?

聞こえているなら、きちんとセリフに書くべきです。

「シーン11」は時間経過の処理が不足していますが「後日、失恋を受けてバス通学をやめて自転車通学に変えた」というシーンで、脚本のラストシーンでもあり、エピローグでもあります。

となると、「シーン10」は「好きな女の子に良い関係の男子がいるところを目の当たりにしてショックを受ける」という、とても重要なシーンです。

主人公が「好きな子に恋人がいたんだ!」と決定的なショックを受けたクライマックスシーンです。

片思いする林くんの中では「あいつ彼氏か? いや、ただのクラスメイトとか部活の仲間かもしれない!」などと悶々とした気持ちや「そうだ! 彼女にいい人がいるわけがない!」と願うような気持ちもあったでしょう。

それが何をもって「失恋確定」となったのか、まるで伝わっていません。このあたりはライターズルームのメンバーからのフィードバックでも、しっかりと指摘されていました。

作者の中では「みなみ」と「男子生徒」の関係性や、林の揺れる気持ちをしっかり掴んでいるのだと思いますが、脚本からわからないのです。

その、大きな原因は「セリフ」がないからです。おそらく「みなみ」や「男子生徒」を演じることになる役者さんも困るでしょう。

どのくらいの関係性かいまいち掴めないから、撮影限場では監督と相談して固めることになるかもしれません。

これは脚本が「役に立っていない」といえます。ドラマやその背景を示すのが脚本の役割です。

もちろんセリフ以外で伝える方法もありますし、脚本のテクニックとしては重要です。

そもそも、ト書きにある「短く別れの挨拶」「静かだが明るく答える」はセリフではなく仕草を表したものではないか?と好意的に読む人もいるかもしれません。

「短く別れの挨拶」とはどんな仕草でしょう? 軽く手を挙げるような動作でしょうか?

それなら、ト書きにはきちんと「男子生徒、軽く手を挙げる。」と書くべきです。

「静かだが明るく答える」はどうでしょう? 読む人によって、かなり幅があるように感じます。

「読者の想像に委ねる」なんて気取りは脚本では許されません。脚本の「読者」とはスタッフです。

あなたが役者だったとして、監督から「静かだが明るく答えて!」と指示されたら、どういう仕草をとるでしょうか?

あるいは、あなたが監督だったとして、役者から「これって、どう演技すればいいですか?」と尋ねられたら、どういう演出をつけるのでしょう?

答えがあるなら、それを、きちんとト書きにするのが脚本の役割です。

このシーンはしっかりと魅力的なセリフを書くべきところだったと言えるでしょう。

想像力の大切さ

編集段階のことも想像しておきましょう。

監督と女優が現場で演出を加えて「静かだが明るく答える」表情をカメラに収めたとします。

ですが、映像になったものは「苦笑している顔」などに見えてしまうかもしれません。

心理学で「写真の表情から感情を推測する実験」というのがありますが、正答率は50パーセントと言われます。

この数字を感情の半分は読みとれないとも、半数の人は読み違えると捉えても構いませんが、単純な実験でこの程度の正答率でです。

物語では、本心を隠すような表情をする描写も必要ですし(サブテクスト)、そもそも「人間は本心など自覚できるのか?」といった問いかけもあるでしょう。

いずれせによ、表情から伝わる感情など充てにしてはいけないということです。

役者をしている人には認めがたい事実かもしれませんが、レンズを通して感情など伝わりません(舞台など空気を通しては伝えられると思います)。

だから、ストーリーで感情のアークをつくりながら、BGMやショットなど、演出で伝えるのです。

もし「みなみ」と「男子生徒」の関係がぎこちなく見えてしまったら、林のショックも伝わらなくなりますし、ストーリー自体がめちゃくちゃに伝わる危険すらあります。

脚本上の文字情報では「静かだが明るく」とはっきり書いてあるので読み間違える人はいませんが、映像表現にしたときに勘違いされてしまう危険性です。

脚本を読めるというのは「映像的に想像して読めること」であり、脚本を書くとは「映像にしたときにどうなるかを想像して書くこと」です。

読めない人はト書きの形容詞に惑わされて面白いと勘違いしたり、書けない人はト書きに形容詞を書いて伝えた気になってしまうのです。

対話力が脚本を向上させる

拙い脚本を書く人には、大きく二つの要因があります。

ひとつは、作家の中では魅力的な映像やシーンが見えているのに脚本から伝わってこない=書けていないのです。「文章力が足りない」のです。

文章力が足りないというのは語彙力が足りないというだけでなく、それ以上に「読み手の気持ち」を察することができてないのです。

「読み手の気持ち」を察する想像力を先へ先へと延ばしていけば……

スタッフがどう思うか?

撮影現場でどうなるか?

編集され、音楽やグレーディングのあとでどうなるか?

そして、完成した映像作品を見た観客がどう思うか?

そういったことが想像できるようになります。

観客がどう思うかを想像できれば、逆算して、脚本でをどう書いておくべきかがわかるはずです。面白い脚本が書けるのです。

もうひとつ、文章自体は読みやすくて、ルールや書き方にも問題がないのだけど拙い脚本があります。

それは内容自体がクリシェだったり魅力的でない、つまらないのです。

ジョークを話すときに考えてみましょう。

ひとつめに挙げた「文章力が足りない」というのは「ジョークを話したけど、オチの意味が伝わっていない」ようなもの。聴き手からすると「ん? どういう意味?」というかんじ。

説明して伝わると「ああ、面白いね」と言ってもらえるならジョーク自体は悪くないのです。話し方・書き方・伝え方といった部分がまずいのです。

これは量を書くことで修正されやすい能力です(ただし、他人の気持ちを察知する能力が極端に弱い人は修正されないかもしれません)。

ふたつめに挙げた「つまらない」というのは「ジョークのオチは伝わっているけど、笑えない」ようなもの。聴き手からすれば「ああ、どっかで聞いたジョークだな」といったかんじ。

クリシェというのは、ジョークの前半を話してるうちに「ああ、あのオチだろうな。ほら、やっぱりね」ぐらいに思われているのです。

「笑われる」のと「笑わせる」のは違うと言いますが、物語の「面白さ」でも似たような状況があります。

拙さから誤解されたり、誇大解釈されて、面白がられている作品。これは「笑われている」ようなものです。

デビュー作では面白がられて有名になったりしても、二作目ではきわめて平凡な作品を書いているような作家がいます。

「面白いとは何か?」はセンスが良いと、すぐに認められる人がいます。日常会話でも話すが巧い人がいます。育った土台から考え方や発想がユニークだったりするのです。

それでも、作家として長くやっていこうと思ったなら、持ち前のセンスだけでは続きません。最初こそユニークにみえて、面白がられても、そればかり続けていたら飽きられてしまう可能性があります。

作家が書きつづけるためには「面白いとは何か?」を問い続けなくてはいけないのです。

流行や時代はもちろん、自身の年齢や好みでも変わります。変わりながら、常に「もっと面白いものを」求めていかなくてはいけないのです。

読むことは作者の声を傾聴すること、書くことは自分の気持ちを表現すること。

読んで、書くことは「対話」です。

読むだけ、書くだけでは作家としての能力は高まりません。

ライターズルームで脚本を読み合うようにしているのは「読む力」と「書く力」を両面から養うためです。

対話を繰り返すことで、脚本能力は向上していくはずです。必ず。

緋片イルカ 2023.7.18

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