映画『クワイエット・プレイス』: モンスター禍の家族ドラマ(三幕構成分析#37・音声)

スリーポインツ

クワイエット・プレイス (字幕版)

プロットアーク
PP1:473日目開始(25分27%)
MP:長女が弟の墓にオモチャを置く(41分45%)
PP2:父と母が地下室へ逃げこむ(56分62%)

mp3(47分28秒)

youtube版

今回のテーマ

・ストーリータイプ「家の中のモンスター」の3つのポイント
・ビート解説
・分析のまとめとシリーズとして
・感想

ストーリータイプ「家の中のモンスター」の3つのポイント

10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術 SAVE THE CATの法則

今回はブレイク・スナイダーの10のストーリータイプに関連して、この作品を課題作としました。

このタイプの要点は
「モンスター」evil
「家」house
「罪」sin
とあります。1つ1つを説明していきます。

「モンスター」は言わずもがな、その作品に登場するモンスターのことです。幽霊、ゾンビ、悪魔、怪獣、宇宙人、妖怪、あるいはサイコパスでもかまいませんが、作品の一番の特徴でもあります。

10のストーリータイプでは以下のように分類されていますが、どれもモンスターの特徴で分けています。
1-1:純粋モンスターPure Monster『エイリアン』
1-2:家庭内モンスターDomestic Monster『危険な情事』
1-3:連続殺人鬼Serial Monster『スクリーム』
1-4:超々自然的モンスターNatural Monster『ザ・リング』
1-5:ニヒリストモンスターNihilist Monster『ソウ』

このモンスターを恐怖の対象と描こうとすると、その時点でジャンルは必然的にホラーとなります。

恐怖の対象としない描き方ももちろんあります。第一回の分析会では『ワンダー 君は太陽』をとりあげましたが、作中に障害者の少年がじぶんをモンスターだと卑下するシーンがありました。モンスターはもっと抽象化すれば、異物やマイノリティとも言い替えられます。こういったキャラクターとのドラマに着目してストーリーを組み立ててれば、それはホラーにはなりません。

これは裏を返せば、恐怖の対象として描くのであればどんなものでも「モンスター」たりえると言えます。人形やぬいぐるみ、少女など一見「かわいらしい」とされるものが襲ってくるホラー映画があります。ややわかりにくいかもしれませんが、「モンスター」というキャラクターロールを、どういうキャラクターに当てはめるかという問題です。

ともかくホラー映画というジャンルには恐怖をもたらす存在としての「モンスター」が不可欠です。それがなくてはホラーになりません。

つぎの「家」は、そのモンスターに襲われる舞台、場所です。

想像しやすいのは古典的なホラーで使われる吹雪く雪山とか、橋が壊れて帰れない山奥とかの孤立した建物などでしょう。「帰れない」「外界と連絡がとれない」といった制限がかかることで「モンスター」による脅威が高まります。

「家」という建物に限ることはないので「エリア」と呼んでもよいと思います。モンスターの「テリトリー」と呼ぶのも、このジャンルの感覚を掴みやすいかもしれません。

「モンスター」と「家」はセットで考えるべきもので、「家の中のモンスター」というこのタイプの名称自体が、とても明快だと思っているので、そのまま呼んでおきますが「モンスター」や「家」という言葉の狭いイメージに縛られないように注意が必要です。

「家」と「モンスター」は企画にも関わる部分で、ここにフックのある設定が考えられば、それだけで「おもしろそう!」と思えるものになるでしょう。

「その山奥の日本家屋に行くと怪奇現象が起きてモノが動いたりする。それは家で自殺した幽霊の仕業で……」と、どこかで聞いたことあるような「モンスター」と「家」ではキャラクターに魅力があっても、オリジナルストーリーとしては弱くなりがちです。クリシェ(ありがちなもの)です。

一方、そういったクリシェを使うことで「ムード」(ストーリーエンジンのひとつ)を演出することもできます。遊園地のオバケ屋敷のアトラクションでは、誰もが想像するような怖いアイテムを使うことで、怖さを演出しています。

3つめの「罪」は、ストーリーに関わる部分です。

「罪」の使われ方にはバリエーションがありますが、よくあるのは「モンスター」が生まれる過去に悲しい過去があるようなパターンです。フランケンシュタイン博士のつくった怪物とか、いじめで死んだ子供が悪霊になるとかです。

これがあることで、ホラー映画に教訓が込められたり、その原因が解決の糸口になったりします。解決の糸口というのは、主人公達がその過去を知ることで成仏させることができたり、弱点を見つけて脱出することができたりするということです。

「罪」のない「モンスター」は不条理な恐怖になります。と言うと、経験の浅い書き手はこういうものを「斬新」と勘違いしたりするかもしれませんが、特質を理解しないまま書くと失敗します。

不条理な恐怖とは、襲ってくる理由もわからず、対処法もわからないまま、ただ逃げるだけの展開になるからです。これは「自然災害」と同じです。とつぜん「ハリケーン」が襲ってくるとか、「隕石」が衝突するといった、理由も対処法もない恐怖に対して「闘う」か「逃げる」か。この時点で「家の中のモンスター」とはちがったタイプになってしまうのです。

ブレイク・スナイダーの分類ではいえば「難題に直面した凡人」です。こちらにはこちらで、別のポイントがあるので、そこを押さえないと面白くはならないのです。リモート分析会でも、いずれ、このタイプを取りあげていきます。

以上の3つのポイントから「家の中のモンスター」というストーリーをつくり、ホラーとして描こうとした場合、必然的に構成も決まってきます。それがプロットタイプです(プロットタイプとストーリータイプの違い

「家の中のモンスター」プロットタイプの説明は上級記事とします。ウォッチパーティー内では説明しました。深く学ばれたい方はウォッチパーティーや読書会にご参加ください。

ビート解説

では、「家の中のモンスター」というストーリータイプの特徴を踏まえた上で、『クワイエット・プレイス』を分析していきます。

以下、この映画のネタバレを含みます。

まず、結論から言ってしまうと、この映画は「家の中のモンスター」に該当していませんでした。

リモート分析会はイルカの未見映画から選んでいるため、ホラー映画→このタイプだろうという推測のもと選んだのですが違いました。

僕としては、ここに面白さや発見があったのですが(後述します)、ストーリータイプの基本を学びたかった人には申し訳なかったなと思っています。基本を学びたい人は、どうぞ古典的なホラー映画を見てみてください。ほとんどが「家の中のモンスター」になっていますので、上記の「モンスター」「家」「罪」が当てはまることがお分かりになるとおもいます。

『クワイエット・プレイス』に戻ります。

この映画は「題材」としてはエイリアンから逃げる話で、日本版の予告では明らかにホラー映画の売り込みをしていますが、それを期待して見た人はがっかりした人が多いのでないでしょうか。ホラーを期待したのに、ホラー映画ではないからです。

「構成」がジャンルやテーマを伝える原因になるということを考えるのにも良い映画だと思います。

エイリアンといった要素をつかっていても、ホラーの構成をとっていなければ、ホラーにはならないのです。

また、インタビューで監督が「家族のドラマ」を描きたかったということを言っているそうですが、まさにそういうストーリーであり、そういう構成になっているのです。

ホラーとして売り込まれた日本では評判がよくないようですが、アメリカではヒットして続編も公開されるそうです。

あくまで「ホラー映画ではない」ということと、あえて「ホラーにするのであれば?」ということも考えながら、みていきましょう。

まず、この映画ではバックストーリーを考える必要があります。

作中の、新聞などの情報から「メキシコに隕石が落ちて、エイリアンが現れた」という状況がわかります(この言い方は正確ではないかもしれませんがあまり重要ではありません)。

映画の冒頭では「89日目」というテロップが出ますので、逃亡して89日したのでしょう。

そうすると、バックストーリーとして以下のような物語が展開されていたと想像できます。

・日常生活
・隕石が落下
・エイリアンによる襲撃
・逃亡開始

逃亡の89日目から映画が始まっているのですが、映画の開始時点で「非日常」や「旅」の状態であるのです。

この「隕石落下」をカタリストとして、襲い来るエイリアンから逃げるホラー映画やパニック映画とすることもできましたが、この作品では、アクト1のセットアップの段階で「物音を立ててはいけない」という状況がありますので、エイリアンはすでに日常に入り込んでいるのです。そこを掴まなくては、構成が見えてきません。

映画は『ミスト』を思わせるスーパーで食料を調達するシーンから始まります。なお、「なんでこの家族だけが、こんな生き延びているのか?」とか「モノ散らかってるところで裸足で走りまわるな」とか「釘抜いておけよ」とか「地下室とか滝の近くで住めばいいじゃん」とかとか、ディテールとしてのツッコミどころは満載すぎてキリがないので、それらには極力、触れない方針とします。

廃墟のような街並みや行方不明者の貼り紙など、ストーリーの説明(「ジャンルのセットアップ」)はありますが、テーマを象徴するような(「オープニングイメージ」)は機能していません。家族を象徴するものをもう少し提示しておくべきだったでしょう。音を立ててはいけない状況、静かな中に足音だけが響くといった演出はおもしろいと思います。最初に顔を見せるキャラクターは補聴器をつけた長女です。この映画では「主人公は誰か?」という問題もあるのですが、この長女を主人公として進めていきます。おそらく書き手は主人公を「家族」という単位で書いてしまっているためキャラクターアークが明確にならず、群像劇の悪いパターンに陥っています。

4分あたり、長女が末っ子に手話を教えています。「主人公のセットアップ」といえます。

10分あたり、その末っ子がオモチャのロケットでエイリアンに襲われて死にます。「カタリスト」となります。カタリストとしては遅すぎます。スーパーマーケットのシーンが長すぎるとも言えます。理屈だけであれば「長女が末っ子にロケットのオモチャをあげる」をカタリストとして、「末っ子の死」を「デス」として、「472日目」のテロップ以降をアクト2に入っている状態ととらえることもできるのですが、観客の感じ方として非日常という感じはしませんので機能しているとは言えません。別のプロットポイント1を待ちつつ、先を見ていきます。

472日目という時間経過で、面倒な処理を省きます。これは大いに問題のある処理です。控えめにツッコんでも「目の前のエイリアンからどのように逃げたのか」(そおっと逃げたのでしょうが、きちんと見せてほしいところ)、「末っ子を亡くした家族のリアクションは?」「住みついている農場らしき場所はどこなのか?」といった、描きべきことを都合よく「観客の想像に任せる形」になっています。驚くことに母は出産間近のお腹になっています(あえて俗っぽく言えばつまりは、末の子を亡くした数ヶ月後には行為をして妊娠したことになります)。

11分あたり、砂の上で眠っていた長女が目を覚ますところから、始まります。これによって、末っ子が殺されるところまで記憶や夢であったという演出をしたいのだと思いますが、シークエンスが長すぎるのと、「472日目」というテロップの出るタイミングが早いので、そう見えません。処理に失敗しています。そして、改めて農場でのセットアップが始まります(この辺りで緩急のメリハリがなくてダルくなってきます)。

分析会の参加者の方が「この農場を拠点に住んでいて、冒頭のスーパーに食料調達に行っている」という解釈をされていて、なるほどと思いました(アクト2で農場に末っ子の部屋で母が悲しむシーンがあるので正しいと思います。写真なども飾ってあるので、もともとのこの家族の家なのでしょうか)が、きちんとセットアップしていないので、逃亡の旅をつづけていて辿りついたのかもしれないなどと混乱するのです。

観客は「末っ子が死んだ」ショックを受け止めかねているのに、家族たちの日常生活は進んでいて、キャラと観客にズレが起こります。共感しづらくなる原因ですが、この映画を「家族モノ」として捉えて、この家族を思いやる想像力を働かせた観客は、むしろ共感を持って見れるのでしょう(それがアメリカでヒットした一因だと思います)。映画全体、声を出せない=セリフが少ないのも寄与しているでしょう。この映画を楽しむには「何も言わないけど、彼らは本当は苦しんでいるんだ!」と想像してあげることが求められるのかもしれません。

余談ですが、24分あたり、夫婦がダンスをするシーンがあります。イヤホンからの音漏れはしないようです。この次のシーンが「473日目」となりアクト2に入りますので、直前の「デス」があるべきです。アクト2で下降していくアークの場合、「デス」は幸せの絶頂のように置かれるときもあるので、そのようなビートととれなくもありませんが、アクト2が下降しているようにも見えないので機能しているとはいえません。このダンスシーンで「産むのが怖い」(無事に産まれるか、またあの末っ子のようにならないか)といったセリフや、父親に「僕が絶対に守るよ」といったセリフが一言あるだけでアクト2が引き締まるのですが、ただのオシャレ、ラブラブシーンで済ませているのは監督=父親役と母親役がリアル夫婦であることと関係しているのでしょうか。書き手としてはキャラクターアークをわかっていないと言えるでしょう。

「473日目」のテロップを「プロットポイント1」とし、アクト2開始としました。時間は25分。全体が90分しかない映画なので、27%となっていますが、タイミングとしては遅いです。原因はこれまで見てきたように、無駄なセットアップや無駄なシーンが多いせいです。あるいは、もともと100分ぐらいの映画でスニークプレビュー(公開前の試写)で、ラストをカットしたり編集が入ったために、こうなっているのかもしれません。ここを、PP1とするのはストーリー上では不自然ですが、この映画自体、キャラクターアークが描き切れていないので、プロットアークとしてとることしかできません。ハリウッド映画なので三幕構成を意識しないはずがないので、このタイミングで日付の切替を入れているのは意図的だと言えるでしょう。また、大きい視野で見るならば、この「473日目」の一日がアクト2となっていて、母が出産して、父が死亡するといった後半のシーンはすべて、この一日に起こったことになります。「運命の一日」の開始というようにとってやれば、ストーリー上も非日常の開始ととれなくありません。ただ、最後までみて分析しないと観客側にそれが伝わらないので、機能しているとは言えないのです。PP1が機能していないのというのは、物語として致命的欠点です。何の映画か伝わらないのです。日本で予告を見た観客はホラー映画と思っている人が多いはずなので、このあと、さらに展開される家族ドラマにうんざりしてきます。宣伝の失敗はさておき、家族ドラマという観点から見ていきましょう。

アクト2に入ると家族の行動が分かれます。

父と息子→川へ向かう
長女→末っ子の死んだ橋へ
母→家に残る

ここで「誰を主人公とするか?」問題が起こります。一番、目立つのは旅へ出るように見える「父と息子」です。息子はほとんど活躍していないので、中心は「父」です。では、父の旅と捉えたとき、何を目指しているのかというと、仕掛けておいた魚をとりにいくだけで、非日常ではありません。たとえば、食料が不足しているので、今まで行ったことのない初めての場所へ行くとかであれば、危険も伴い非日常の旅となります。

長女はどうでしょう? 「地下室へ入ってはいけない」「連れて行かない」という父との諍いのあと、末っ子を思い出して、お墓(例の橋)へ向かいます。お墓にはお供え物があり、何度も来ているようですし、やはり非日常な旅ではありません。これも、あそこにはエイリアンがいる可能性が高いから絶対に近づいてはいけないというのに、お墓を目指すのであれば非日常の旅となります。

母の破水はMP以降なので保留すると、アクト2前半でやっていることは末っ子の部屋に入って悲しむだけです(洗濯もしてますが)。この家族に、特別に「末っ子を思い出す」イベントが起きていれば、非日常とも言えるのですが(日付的に一年後の命日とかでもありません)、前日まで楽しそうに夫婦でダンスをしていた母が、とうとつに泣き出すのは、ドラマとしては不自然です。(もちろん日常では急に悲しみが襲ってくるというのは多々あるこですが、ドラマでは通用せず、ご都合になってしまうのです)。

32分あたりの「下手へ行く父と息子、奥へ去って行く長女、上手に立っている母」というショットは、それぞれが分かれて行動を開始する地点で、ここをPP1とすることもできると思います。画的にもキレイなショットだと思います。全体の35%の地点でPP1としては遅すぎます。ドキュメンタリーでは1:2:1ではなく、1:1:1に構成することがあるそうですが、そういったドキュメンタリー効果が生まれている可能性はあります(僕は1:1:1理論にはやや懐疑的です)。

ここをPP1とするにしても、やっていることは日常生活を、演出上、非日常っぽく見せているだけなのです。そうなると、この映画は、より内的なストーリー(インターナル)であると考える必要がでてきます。

たとえば「大切な人を亡くした人が、一歩踏み出せるようになる」といったヒューマンドラマを想像してみてください。こういった作品では、エクスターナルな動きは少なくなります。

仕事をしたり、友達とあったり、墓参りに行ったりして、日常生活を過ごしながら、内的に変化が生まれるストーリーになるのです。表面的には地味なストーリーになります。ストーリータイプでは「通過儀礼」となります。

この『クワイエット・プレイス』では、通過儀礼っぽいアークをとっています。ただし、このタイプの用件を満たしていないので中途半端な描かれ方です。つまり「悲しみを乗りこえる家族の話」というほど、しっかりは描かれていないのです。

ともかく、キャラクターの心情に注目してアークを見ていき、「ミッドポイント」を考えていくと、

父と息子→滝で息子と会話
長女→末っ子の墓でロケットのオモチャを置く
母→家で思い出す

これらのシーンが、それぞれのキャラクターが末っ子を悼んでいるシーンであり、感情的な頂点と言えそうです。カットバックで展開されてるので、ひとまとめのシーンと捉えていいのですが、具体的には長女主人公と設定して、「末っ子の墓にオモチャを置く」としてとりました。ツッコミを入れておくなら、一年以上、このオモチャを持ってこなかったのはキャラクターの心理的に不自然です。

プロットポイント1が27%の地点で、ミッドポイントが45%にあるのは、アクト2前半が短いということになります。「通過儀礼」的なヒューマンドラマと、「家の中のモンスター」的なホラーとのミックスされたプロットであると考えるなら、MPのズレは許容されます。

42分あたり、とつぜん、お爺さんが現れて、叫んで自殺行為をするシーンがあります。このシーンは意図が不明です。主人公達の家と川は日常生活の範囲と考えられるので、その帰り道で遭遇するということはご近所さんということになりますが、そういったツッコミは置いておいても、この位置に、このシーンがある意義は不明であり、効果としても無意味です。サブプロットであり「お婆さんを殺されて自殺」という意味で、主人公達の「末っ子を亡くしても生き続けようとする姿勢」との対比になりますが、そうするのであれば、「ピンチ1」はMP以前に置かなくてはいけません。MPの滝での会話で「あのお爺さんはどうして叫んだの? 僕も生きているの辛いよ」などというセリフから、「生きなくてはダメだ」といったメッセージに転化できます。その意味からもピンチ1は、MP以前に置かなくては機能しないのです。もしかしたら、編集段階で、川へ到着する前にあったのが、帰り道のシーンへと移動されたのかもしれません。そうであれば、川や滝で声を出すことを怖がっている息子の心理とも繋がっています。どうしてこんな位置にあるのかといえば「ヒューマンドラマからホラーパートへの移行のとっかり」というような使い方になってしまっていますが、それであれば、直後、母親が破水から釘をふんで、音を立ててしまうシーンで、充分に「フォール」として機能していますし、ドラマも家族だけに集中するので、こちらのが効果的です。家では、安全か危険かを知らせるランプがあるようなので、そういったもので、父や長女に危険を伝えることも可能なはずです。また、分析会の参加者から「アクト3で父親が叫ぶシーンへのフリなのか?」という意見がありましたが、改めて考えてみると、このシーンがあるせいで父親の行為が自殺に見えてしまう逆効果があるように思います。「叫ぶと襲われる」という情報は、音を立てれば襲われるという設定だけで充分わかりますので、あえて、見せる必要もないし「自殺」と「子供を守るための自己犠牲」の違いのように見せたいのであれば、お爺さんが自殺であることをしっかり見せなくてはいけない(きちんとやるならサブキャラとしてお爺さんの心理を見せる必要がある)し、また「自ら叫んで襲われる」というシーン自体が、2回目のため、父親の行為が弱まってしまうのも、もったいなさしかありません。父親の自己犠牲のいいシーンで、観客の記憶から「お爺さんの叫び」が浮かんでしまうのは、マイナスしかないように感じます。このシーンをカットできなかった大人の事情があるのかもしれません。

ということで「フォール」は母親の破水から始まります。ここから、父親による「家族を守る」シークエンスが始まると捉えられます。主人公のように動き出します。

「家の中のモンスター」というタイプとして、この映画を構成していくのであれば、このあたりのシーンをPP1直後にもってくる必要があります。それによって、この映画はホラー映画であるという印象が生まれます。それをしていないので、この映画は「家の中のモンスター」でもなければ、もはやホラー映画でもないのです。

「そんなことできるなら、もっと先にやれよ」といった数あるツッコミどころはスルーして「プロットポイント2」まで飛びましょう。56分あたり、無事に赤ん坊をつれて地下室へ逃げ込みます。ここでフォールの「破水」から始まったシークエンスに一段落がつきます。そして、目を覚ました母親が今さら感のある「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」を展開してから、「子供達を助けに行く」という「ビッグバトル」=アクト3に入っていきます。アクト3で父親が死ぬのは「ツイスト」です。そして、最後は娘と母が覚醒したかのような臨戦態勢に入り、続編のフリのような状態で、映画は終了します。

PP2を「地下室への逃げ込み」とする分析はキャラクターアークには基づいていません。あくまで映画の演出上の構成として、全体と各アクトをとらえるプロットアークとしての捉え方です。キャラと構成を一致させるのを前提とするセーブザキャット的な定義でとらえようとすると、この手のミックスプロットや、崩れている作品を分析できなくなってしまいます。だから、演出上の視点から、まずはプロットポイントをとってしまう方が、つかみやすいのです。

分析のまとめとシリーズとして

あらためて、逆プロットのようにしてみます。

1:スーパーでの食料調達
2:末っ子が殺される
3:その後の日常(472日目)
4:運命の日開始(473日目)
5:末っ子を悼む
6:破水~出産
7:父親が子ども達を助けにいく→合流
8:父親が命がけで守る
9:地下室に侵入してきたエイリアンと対決

これぐらいのシークエンスで要約できます(この流れで見れば老人のシーンが不要なのも明確です)。
これらをさらに、アクトに要約していくと、

アクト1:音を出してはいけない日常世界(末っ子の死は設定に含まれる)
PP1:運命の日、開始
アクト2前半:それぞれの日常動作+内面の悲しみ(ただし非日常感は弱い)
MP:末っ子を悼む
アクト2後半:破水~出産
PP2:父母は逃げ込む、しかし
アクト3:エイリアンとの対決

となります。
何度も言ったように、この構成は「ホラー映画」にはなっていません。クライマックスこそアクションっぽくなっていますが、アクト2前半のおいしいところで「ホラー」が展開されていないのです。
また、アクト3で、悲しみを乗りこえるといった「通過儀礼」としての用件を満たしていないので、ミックスプロットあるいは、中途半端な構成となっているのです。

プロットアークで全体の構成を掴んでから、改めてキャラクターの問題も考えてみます。主人公は誰か?です。

この作品だけを見れば「7:3ぐらいで」父親が中心になっているように見えます。

アクト2で息子と旅に出て語り会って、アクト2後半では母親を救います。アクト3で、助けに行くアクションをするのも、父親です。

しかし、父親は死にします。

この父親と長女の関係は『スターウォーズⅣ』オビワンとルークの関係です。

ラストシーンからもわかるように三部作ぐらいを前提として作られていますので、この作品で死んでしまう父親は「シリーズとしての主人公」ではありません。(ヒットしたから続編を作ることになったという話だそうですがラストシーンが続編を前提として終わらせているのは否定できません。売れなければ作れなかったでしょうが、売れたら続編を作る気まんまんなラストシーンです)。

三部作として考えた場合、この一作目が、シリーズの主人公である長女のセットアップとなる作品と言えます。2以降のあらすじは見ていませんが、長女を中心とした『バイオハザード』」とか『ウォーキング・デッド』のようなエイリアンとの戦いをしていくサバイバルものになっていくのではないかなと推測できます。それを踏まえれば、1で父親が死ぬのはシリーズとしての「デス」のビートにあたり、2作品目がアクト2に入り長女がで成長していくのが2になるのです。(ただし子役なので、演技的に母親がかなり主人公的になる可能性はあります)。ハリウッドが三部作を好む理由の一つには三幕構成があるのです。

感想

「家の中のモンスター」としてシンプルな構成と期待していたのですが、あまりの違いにびっくりしました。ホラーとしては失敗している映画ですが、アメリカでは評価が高く、続編も作られるということに、また驚きました。アメリカでは何が流行ったのだろう?という疑問は残りました。売上げは、作品の内容とは関係のない話題性によるときもあるので、一概に言えませんが、個人的に感じる売れた要因を挙げておきます。

●「設定」のあいまいさ
これは日本人の多くが、ホラーとして見た場合に不満を感じる点と一致していると思いますが、アメリカではここを気にしていないと言えそうです。異星人の設定など、あいまいすぎて、ツッコミどころが満載ですが、そこを無視して、家族ドラマの方に引き込まれたのでしょう。「エイリアンによる侵略」というのは、アメリカでは主流すぎて、細かい設定とかはもうウンザリしている土台があるのかもしれません。この設定で、あえて「家族ドラマ」を展開するというところに面白味を感じたのではないかと。家族自体、あまり過去が語られないので、勝手に共感できる部分が多々あったのでしょう。セリフの少なさもそれに寄与しています。また、エイリアンの設定があいまいすぎることが、逆に「不条理な状況」による苦しみという状況に重ねられるのかもしれません。コロナ禍よりも前の作品だそうですが、格差が叫ばれ、苦しい状況の家族は多くいたのではないでしょうか。コロナ禍で上映される2がどういう展開をされるかは少し興味があります。

●「子供が殺される」
アメリカではイヌが殺されるシーンですら嫌うそうですが、カタリストであり、予告でも使われている「子供が殺される」シーンだけでも、日本人以上に感情をフックできるのかもしれません。その流れからすれば、アクト2の末っ子を悼んでいくシーンは、うんざりどころか、お涙ちょうだいまで行くのでしょうか。わかりませんが「子供が殺される」というシーンのショック度に違いはあると思います。

●「父親の自己犠牲」
「父親が命がけで子供を守る」これもアメリカ的です。日本人でも共感はしますが、効果による違いはあると推察されます。

●低予算
見るからの低予算映画なのはわかりますが、制作が低予算であればあるほど、ヒットの効果が大きくなるので、その点は押さえておく必要があるかと思います。

●「長女役のミリセント・シモンズ」
ミリセント・シモンズは聾者であった。このことに関してクラシンスキーは「私は耳が聞こえる女優さんに聾者の役を演じてもらいたくないのです。理由はいくつかありますが、最大の理由は、聾者の女優は私の聾者に関する知識と彼/彼女が置かれる状況に対する理解を十数倍深めてくれるからです。」と語っている(Wikipediaより)。この辺りの要因も無視はできないかと思います。

あくまで、売れた要因などは主観的な推測に過ぎませんが、この映画10年後、20年後にも見られる名作になるとは思えません。大ヒットした『バイオハザード』シリーズだって、未来の人はたいして見ないのではないでしょうか? そういう意味でも、時代的な何かのタイミングでヒットした映画なのだろうと感じます。

ドント・ブリーズ (字幕版)

緋片イルカ 2021/08/15

この映画は「リモート分析会」でとりあげた作品です。
今後もAmazon Primeの見放題作品から選んでいきますので、分析にご興味ある方はAmazon Primeの申込をおすすめしておきます。

次回のリモート分析会は10月を予定しています。Amazon Primeの見放題が終了しないよう、開催の一ヶ月前になってから告知いたします。次回は「魔法のランプ」というストーリータイプにあたる映画をとりあげる予定です。

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『映画『クワイエット・プレイス』: モンスター禍の家族ドラマ(三幕構成分析#37・音声)』へのコメント

  1. 名前:空地空 投稿日:2021/08/18(水) 06:06:10 ID:7b5c98607 返信

    分析、とても参考になります!

    ・MPは父親の母子救出ではなく、滝のシーンなのですね。崩れてるから取りにくいですね

    ・sinの要素のあるホラーは、謎解きというか、後半になるにつれevilの正体や設定の核心が明らかになる必然性があると思います
    一方で、本作をはじめ、「恐怖」をひとつの主題にしながら、sinをはじめとした設定まわりを明示せず、最後まで匂わせる程度に留めている作品も割とある気がします(ゾンビもの・パニックものとか)
    そういった作品もタイプとしてはホラーなのでしょうか?Save the Cat読んでないので、他にしっくりくるストーリータイプがあれば知りたいです(読みます)
    Evilの打倒が物語のゴールにあるか否かがポイント?

  2. 名前:緋片 イルカ 投稿日:2021/08/19(木) 12:30:09 ID:b19c25751 返信

    コメントありがとうございます。
    分析は根本は主観的な解釈ではあるので「僕はこう理解した」という一意見として参考にしていただければと思います。たった一つの答えがあるというものでもありません。

    sinの要素は意識しないと見落としがちですが、意識してホラー映画をたくさん見ていたときに、意外にもけっこう入ってると感じたことがあります。ストーリーに直接関係なく、展開とは関係なく、ちょっとした設定で入れているものもあります。

    「ホラー」かどうかの一番の基準は「観客を怖がらせようとしているとかどうか」ではないかと思います。怖がらせようとする場合、必然的に構成ではアクト2に入ったところの「ファン&ゲーム」として怖がらせるシーンが入ってくると思います。「題材」としてゾンビを扱っていても、人間側が武器をもって闘うような場合はアクションになるし、小さな子どもが主人公で逃げ回る場合はホラーになってくると思います。ゾンビになった恋人とのラブストーリーというのも可能です(昔、書いたことがあります笑)。

    ストーリーを厳密に区分けていくのは不可能だと思います。色のグラデーションみたいに中間に位置するようなものもたくさんあります。けれど、そこをあえて「ホラーとはこうである」と定義してしまうことで、見分ける基準ができるとも思います。
    分け方に問題も多々あるけど『10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術 SAVE THE CATの法則』は参考になると思います。いずれ、分析会でもとりあげていくますが、パニック映画であればこの本にある「難題に直面した凡人」になる場合が多いと思います(こんど、本をお見せします。読むところは少ない本なので、辞書的に調べるかんじでもっていると参考になる本です)。

    似たような映画はタイプとして共通点を見つけられますが、当てはまらないものの方が多いのが実際ですね。ハリウッド映画であればプロットポイントなどは演出上であれば、いれてきますが。