作品:『異邦人』(画像からAmazonへジャンプします)
mp3(1時間48分44秒)
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■課題作品関連
小説
1942年『異邦人』(L’Étranger)
1947年『ペスト』(La Peste)
1956年『転落』(La Chute)(『転落・追放と王国』収録)
1957年『追放と王国』(L’Exil et le Royaume)短編集
1971年 『幸福な死』『異邦人』の初期草稿
1994年『最初の人間』(Le Premier Homme)未完の遺作
戯曲
1944年『カリギュラ』(Caligula)
同年『誤解』(Le Malentendu)
1948年『戒厳令』(L’État de siège)
1949年『正義の人びと』(Les Justes)
エッセイ、評論など
1942年『シーシュポスの神話』
マンガ
異邦人
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■お知らせ
「100文字小説大賞」投票 → 【100文字小説大賞】ブロック一覧と今後の予定
前回の「リモート分析会」 → 映画『SING/シング』:群像的な構成と茶化したDN
「同時代作家の会」の立ち上げ
■編集後記
『シーシュポスの神話』で「不条理に反抗する人間」というニュアンスで「不条理な人間」という表現をカミュ自身が使っていて、僕も読書会でムルソーに対して、それに近い呼び方を何度もしていました。編集をしながら聞き直していて、ムルソーを「明晰な理性を保った人間」と呼ぶと、ぴったりくると思った箇所がいくつかありました。周りからのムルソーの味方はともかくとして、母に対しても、自分の欲望に対しても「明晰な理性」を保ってものごとを考えているように思います。いくつか、具体例をあげておくならママンを養老院へ入れたことに対する考え方とか、マリイとの愛や結婚に対する会話や、レエモン、サラマノなどに対する態度などです。理性を保つことは、客観的で、自分の考えや感情に対して客観的すぎる(明晰すぎる)ため、ムルソーが感情の希薄なサイコパスのようにも見えかねるのだと思うし、一意見としてあった「幼児性」というのも、一般的な大人であれば我慢したり、気を遣ったりすることを、客観的に考えて、従ってしまうので、その行動が幼稚にも見えるのだと思います。一般世間のルールに縛られていないといえます。読書会では読まなかった引用文に「それはあらゆる行為を許可するわけではない。いっさいは許されているとは、なにひとつ禁じられていないという意味ではない。」というものがあります。これは「いつか死ぬ」という不条理に向き合ったときに「どうせ死ぬのだから、何をしてもいい」というような投げやりなエゴイズムを肯定するものではないことをカミュは言いたかったのだと思います。ムルソーにはしっかりとした倫理観も描かれています。とくに社会的な倫理観ではムルソーより劣ると見えるレエモンとの会話の中に多く表れています。そういったところを踏まえて、改めて、『異邦人』をログライン的にまとめると「明晰な理性をもった青年ムルソーは、自分でもよくわからないままアラビア人を殺してしまうという不条理な経験をし、死刑判決を受けることから死という究極の不条理とも向き合い、その中で幸福感を悟る」といえるのではないかと思います。ラストの幸福感に関しては「不条理に対してギリギリの反抗的な態度をとる」というカミュの哲学と、そこで、ふと感じられる幸福感というのには、論理的な矛盾を感じます。読書会で朗読した『孤島』の序文にあるように「太陽」や「夜」「海」はカミュにとっての神といえます。その「太陽」によって、殺人を犯したと証言します。これは周りの人間からしたら理解に苦しむ発言ですが、ムルソー(あるいはカミュ)の中では、まだ「明晰な理性」が保たれているといえます。そのムルソーが、最後のシーンでは司祭に対して感情的な叫びをぶつける長ゼリフがあります。理性が崩れた瞬間です。そして、同時に神的なものに身を任せた、すなわちムルソーが「論理的な飛躍」あるいは「哲学上の自殺」をした瞬間といえるのだと思います。哲学と文学は、役割がちがいます。カミュ自身がドストエフスキーやカフカの作品に対して触れ、「作品の末尾にまでくると、作者は作中人物たちとは反対のものをえらぶ。この矛盾から、ぼくらはある微妙な区別をここで導入することができる。つまり、これは不条理な作品ではなく、不条理な問題を提起する作品なのである」と書いていることから、ムルソーがカミュの哲学に反していることは問題とするべきことではないと思いますし、ここでは、むしろ文学者としてのカミュの才能を感じます。とにかく、カミュはムルソーという「反抗的人間」を描いたのです。
また、読書会の最後で、しまうまさんが話題にあげている、津久井やまゆり園にて殺人事件を犯した、植松聖死刑囚との関連は、とても興味深い指摘だと思うので、当日は語り切れなかった部分をここでとりあげてみたいと思います。植松聡死刑囚に限らず、倫理的に批判される犯罪者は、まさに一般の人から見たら理解できない「異邦人」です。メディアやSNSで展開される、こういう人に対する批判は、ムルソーに対して検事が言い立てていた「この男に見出されるような心の空洞が、社会をのみこみかねなに一つの深淵となるようなときには」死刑にしなければならないという構図と同じです。死刑制度そのものを問うことは、ひとまず置いて、死刑を宣告された犯罪者に対しては法律上、被告に対して「死ね」ということです。しかし、死刑に当たらないどころか、違法でもない、倫理的な問題を起こした芸能人などに対してまで「死ね」という言葉が安易に投げつけられ、そこでは異邦人を理解することよりも、排除するという立場をとる人が多くいます。そういう言動をとる人たちを、「バカ」といった言葉で切り捨ててしまうのも、「死ね」よりは理性的であれど、本質的には理解しないということでは同じです。両者の溝は埋まらないのです。こういった溝は、家族や会社といったわりと狭い範囲にも、国家や人種といった、より大きい範囲にも存在しています。大きい範囲で、異邦人を排除しようとする態度が、紛争や戦争であり、世界で起きている「分断」と呼ばれる問題の本質だと、僕は思います。この問題に対してカミュの「反抗的」態度が有効なのか、現実問題としては疑問です。歴史的に、アルジェリアの独立問題において、カミュの態度は無視されたといってもいいのではないでしょうか。けれど『異邦人』も『ペスト』もいまだに読まれています。ここに文学の役割があります。一人の人間の一意見(哲学)が、社会問題の解決方法を提示することなどありえないでしょう。数学の証明問題とはちがうのです。社会問題の解決に必要なのは、知的頭脳の良し悪しではありません。反抗の態度が連帯を生むと、カミュは言います。すべての人は「やがて、必ず、死ぬ」その真実を、何人も避けることはできません。多くの人は、その恐ろしい真実から目を背け、平穏な「明日の幸せ」を願っていて、また、その幸せを脅かす異邦人が許せないのです。けれど、「やがて、必ず、死ぬ」という真実が、己に真にさし迫ったとき、それまでの「明日の幸せ」が無価値となります。恐ろしい恐怖です。恐怖に駆られて自暴自棄や犯罪を犯すことは「反抗的」態度ではありません。ここに植松聖とムルソーの決定的な違いがあると思います。ムルソーが死刑を前にして感じたような、圧倒的な恐怖のあとには、超自然的なものへの信仰心が表れます。その対象を「太陽」と呼ぼうが「神」と呼ぼうが同じではないでしょうか。いずれにせよ「名付けえぬもの」だと、僕は思います。超自然的なものへの恐怖は、人は謙虚にします。身を任せたときには、ある種の感動すら覚えます(ムルソーの幸福)。異邦人への理解は、そういった瞬間に生まれるのではないでしょうか。だからこそ、反抗の態度が「連帯」へとつながるのでしょう。これはカミュが『ペスト』を通して描きたかったことでもあると思います。文学ができるのは、不条理な問題を提起するところまでかもしれません。けれど、その提起こそが、文学の役割そのものなのだと思います。(緋片イルカ2021/05/02)