がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。
『車輪の下』『デミアン』等で知られるドイツの文豪・ヘッセが描いた、釈迦「悟りへの道」。
20年にわたりインド思想を研究していたヘッセが、第一次世界大戦後に発表した。シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。
――成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である。【目次】
第一部
バラモンの子
沙門たちのもとで
ゴータマ
目ざめ第二部
カマーラ
小児人たちのもとで
輪廻
川のほとり
で 渡し守
むすこ
オーム
ゴーヴィンダ注解
解説 高橋健二本文より
彼は初めて世界を見るかのように、あたりを見まわした。世界は美しかった! 世界は多彩だった! 世界は珍しくなそに満ちていた! ここには青が、黄が、緑があった。空と川が流れ、森と山々がじっとしていた。すべては美しくなぞに満ち、魔術的だった。そのただ中で、彼シッダールタ、目ざめたものは、自分自身への道を進んでいた。このすべてが、この黄と青が、川と森が初めて目を通ってシッダールタの中に入った。それは、もはやマーラ(魔羅)の魔法ではなかった。……(第一部「めざめ」)
※マーラ…修行の妨げとなるもの。悪魔。
※以下、ネタバレ含みます。分析は広告の後から始まります。
【きれいな三幕構成】
今回はビートごとの解説は省略しますので、全体の構成をかんたんにまとめます。
アクト1:シッダールタはバラモンという高僧の階級に生まれ、幼い頃から将来を有望をされている。友人のゴーヴィンダは生涯、彼に従っていくだろうとまで感じている。しかしシッダールタは迷いを感じていた「父の愛は、母の愛は、そして友人ゴーヴィンダの愛も、不断に永久に彼を幸福にし、心をしずめ、満たし、満足を与えはしないだろうことを、彼は感じ始めていた」「精神は満足せず、魂は安らかではなく、心はしずめられなかった」(「主人公のセットアップ」)。
そこに沙門たち(苦行をする修行者)が通りかかり(「カタリスト」)、父を説得し、彼らの弟子入りをする。苦行に努めるが悟りは得られない(「ディベート」)。そこにゴーダマという覚者が現れたといううわさが起こり、二人は彼の元へいく。神々しいゴータマを前に、ゴーヴィンダは弟子入りを決意するが、シッダールタは完璧なその教えに「小さいすきま」を感じて、我が道をゆくことを決意する。ゴーヴィンダと別れる(「デス」)。彼は目的もなく歩きながら、川を渡る(「プロットポイント1(PP1)」)。
アクト2:その先で、カマーラという女性から愛の手ほどきをうけ、カーマスワーミという商人の元で富を得ていく(「バトル」)。
しかし、そんな生活に虚しさを覚え、小鳥が死ぬ夢を見た(「ミッドポイント」)のをきっかけに、その街を去る決意をする(「フォール」)。
やがて川まで戻り、渡し守となる(「ディフィート or ピンチ2」)。
その後、入滅する(死ぬ)ゴータマの元へかけつけようとしたカマーラと再会するがヘビに噛まれて死んでしまう。(「オールイズロスト or プロットポイント2」)。
アクト3:シッダールタの元にはカーマラ(と自分)の息子が残される(「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」)。わがままに育てられていた息子は父の言うことを聞かず、金を盗んで街へ帰っていく。シッダールタは追いかける(ビッグバトル)が、連れ戻すことを諦めて川へと戻る。やがて渡し守のヴァズデーヴァが森に帰る(死ぬ)
エピローグ:年老いたゴーヴィンダと再会し、彼はゴータマの教えに従いながらも迷いが消えないことを語りシッダールタに教えを請う。シッダールタは川から学んだことを語り、イメージを授ける。
【解釈と感想】
ご存知のとおり釈迦の悟りを開く前の名前がゴータマ・シッダールタです。主人公の名前はシッダールタで、読み始めると釈迦の伝記のように感じられます。バラモンという生い立ちや、沙門のもとで苦行に励むが悟りを得られないというくだりも同じです。そこにもう一人「ゴータマ」という覚者が現れて、物語的な効果を生みます。ゴータマは偽物で、主人公のシッダールタこそが悟りに到るのではないかと予感させます。その予想に反して、ゴータマは神々しく描写され教えも素晴らしい。けれどシッダールタは「小さいすきま」を感じて弟子入りを拒みます。それはエピローグで友ゴーヴィンダに語るように「知識は教えることができるが、知恵は伝えることができない」、自ら経験して学ばなくてはならないという真理でもあり、著者ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の悟りへの道の始まりです。川を渡り、アクト2「迷いの道」へと繋がっていきます。
第二部にかかると、ばったり筆がとまってしまった。解脱するシッダールタを描くまでにヘッセの体験が熟していなかったからであろう。思想として解脱を書くことは、すでに二十年もインド思想を研究していたヘッセにとって、さして困難ではなかったであろう。しかし、ヘッセにとっては、作品中に述べられているように、思想やことばは重要ではなかった。救われる体験の秘密が問題であった。その宗教的体験の告白を、ここにシッダールタという具体的人物に託して、象徴的に書こうとしたのである。それは容易なことではなかった。「そのとき、もちろん、初めてではなかったが、いつよりもきびしく、自分の生活しなかったことを書くのは無意味だという経験をした」と彼は表白している。彼はあらためて、禁欲、瑜伽の行にいそしんだ。
そういう回り道をしたため、長からぬこの作品が刊行されるまでには、三年もかかった。(文庫版解説より)
構成としてアクト2の旅で学びを得て、成長して帰ってくるというのはセオリー通りです。シッダールタはカマーラ、カーマスワーミたちと暮らし、愛や富を得るが、その生活に虚しさを感じる。それは沙門の元へ修行に出る前に感じていたもののくり返し(輪廻)だったのです。そして街を出て川へと戻り、どちらの岸にも行ける渡し守となります。これはキャンベルが言うところの「二つの世界の導師」になったといえそうです。
その後、カマーラの死を経て「息子」がいたことを知り、愛します。しかし、愛することもまた執着であり、カマーラに対する愛の輪廻です。息子を追って、もう一度川を渡るのも演出的にも見事なクライマックスです。シッダールタは息子を連れ戻すことを諦め、川へ戻ります。シッダールタは渡し守のヴァズデーヴァに語る内に悟りを得る。
運命と戦うことをやめ、悩むことをやめた。彼の顔には悟りの明朗さが花を開いた。いかなり意志ももはや逆らわない悟り、完成を知り、現象の流れ、生命の流れと一致した悟り、ともに悩み、ともに愉しみ、流れに身をゆだね、統一に帰属する悟りだった。
物語の構成としては見事な三幕構成になっていて、作者のテーマも伝わります。しかし観念的描写の多い文体により、その世界に思想的には共感できても、感情的に入り込みづらいのが残念でもあります。翻訳のせいではありません。説明が多く、シーンが少ないのです。そのせいか、小説よりも仏教の説話のように感じられてしまいます。
この小説のストーリーエンジンは「シッダールタの悟りがみたい」だと思います。仏教の経典ではなく、ヘルマン・ヘッセという作者が描く「シッダールタ」という主人公が、どういう「旅」を経て、悟りの境地に到るのか。それを観念ではなく、物語世界で見せてほしかったように感じます。エピローグで友ゴーヴィンダに語る長広舌は、たしかに深みのある言葉なのですが仏教の経典の言葉に書いてあることと、何ら変わりはなくて、この物語の主人公シッダールタの言葉には聞こえません。
一方で、こんなことも考えさせられます。
シッダールタもしくは仏典の語り悟りを言語化したもの、たとえば「時間は存在しない」「一瞬は永遠だ」といった感覚自体を物語にすることはできないのだろうか? それを観念的な言葉を用いずに読者に感じさせるはできないのだろうか? そう考えてみると、俗っぽく見えるようなラブストーリーの中にそれがあるのかもしれない、時間を操作するようなSFアニメにあるのかもしれないと思えてきます。キャンベルいわく「究極の恵み」に到っているものはブッダのみだそうです。それを物語で伝えることは、ブッダを描くこと意外にも方法があるのだろうと思います。そんなことまで考えさせられる作品でした。
緋片イルカ 2020/03/11
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