映画『すずめの戸締まり』(視聴メモ)

映画館にて上映中の作品ですが、分析の都合上、ストーリーの結末について触れている箇所がございます。ご了承の上、お読み下さい。

「好き」3点 「作品」3点 「脚本」2点

大ヒットしている映画です。映像としてのアニメーション、演技、音楽などは素晴らしい作品です。

しかし「脚本」としては、ライターズルームで物語論として「こういうことは、していはいけない」と注意しているミスをいくつも犯していました。

演出の良さと、脚本の悪さにギャップがあるので「脚本とは何か?」を考えるのにいい作品。

どんだけお金かけて、派手に作っても、キャラクターに共感できないのと、ぜんぶが白々しく見えるのです。演出に惑わされないという練習にもなるかと思います。

映像や一部のセリフで、一般の観客を衝動的な感動に持ち込むことには成功しているのだと思いますが、この作品を見て、白けた気持ちを覚えた人が多いとすれば、ストーリーに引き込まれなかったのだと思います。

映像などの素晴らしさの影で、脚本にはかなり問題が多いと感じました。

脚本さえしっかり叩けば、もっと感動できる作品にできたのだろうという、とても残念な作品です。

作品について批判や批評、内容についての解釈をするつもりはないので、あくまで「脚本の勉強」という観点から、ポイントを指摘していきます。

キャラクターアークの欠如

これは物語の本質でもあるので、この問題さえ解決すれば、諸問題は連鎖的に解決します。

「キャラクターアークが描けていない」は、ルームで「バックストーリーを考え切れていない」と言っていることとも表裏一体です。

他にも、以下のような問題に関わります。

キャラクターアーク=キャラクターの心理が描けていないことなので……

「心理的な葛藤ではなく、表面的なアクションばかりになる」=「主人公に共感しづらい」「事件を起こしてもストーリーに意味を感じられない」「ご都合に見える展開」

「ストーリーの進め方が設定ありきになる」=「説明セリフが多くなる」

「メインストーリーがないせいで、ちょっとした小ネタが寒々しく目立つ」

などです。

ビートを見るだけでも明らかに問題がありました。

上映中の作品なので時間を計ることができませんでしたが「主人公のセットアップ」がないまま「カタリスト」を始めると、どんなに派手な映像やアクションを見せても観客を引き込めないという悪い見本のような展開でした。

最初の10分で主人公のすずめの性格やwantをしっかり見せるだけで、かなり変わったと思うともったいない。

表面的な「扉を閉じる」ということはアクト2以降のwantで、アクト1としてのセットアップがまるでありません。

説明セリフの多さ

キャラクターのセットアップができていないまま、ストーリーを進めると、説明的なセリフが増えます。

状況にリアクションするだけのクリシェなセリフだったり、綺麗事な一般論や、唐突な作者自身の価値観が反映されたセリフばかりになってしまうのです。

すずめというキャラクターは「幼い頃に東日本大震災で母親を亡くし(この設定自体の賛否もあとで考えます)、伯母に育てられている」という状況は設定はわかります。

ですが、そういった生活に対して「どう感じて、本当はどういうことをしたい」といったwantを見せることが、主人公のセットアップです。

そういったお膳立てがないまま「ある朝、すれ違ったイケメンを追いかけて、唐突に学校をサボって廃墟へ行き、ローファーが濡れることも厭わず扉を開ける」行動に共感ができません。

「幼い頃の記憶の片隅に残っていたという」映画ラストへのフリがありますが、それも設定にすぎません。

「この子なら学校をサボってでも追いかけたくなるはずだ!」と観客に思ってもらえるシーンを準備することが「主人公のセットアップ」です。

初心者は「設定の説明」と「セットアップ」を取り違えるので注意してください。

あるシーンで主人公が「人間の生きるか死ぬかなんて運のようなものだ」といったセリフがあります。

セットアップに失敗していると、こういったセリフすべてが「浮いて聞こえる」のです。

ちなみに、このセリフは「東日本大震災」を受けての価値観なのでしょうが、この時点では「震災で母を亡くした」という設定は隠されています(MP以降のシーンですが、まだ隠されている!)。

また、設定からリアクションしているセリフに過ぎないとも言えます。

震災で家族を喪った人は数え切れないほどいます。絶望に打ちひしがれて、生き延びた命を自ら絶ってしまった人すらいます。

そんな中で、すずめというキャラクターを一人の人間として扱えているなら、どういう気持ちで生きてきて「運のようなものだ」と悟れたのかを描くべきなのです。

挙げだしたらキリがないのですが、このセリフに限らず、こういった「人間らしくないセリフ」が目立ちます。

根本は「キャラクターアークが欠如している」ことに繋がります。

ちなみにルームで「安易に説明するだけ」だから禁止している「独り言」「回想説明」シーンもありました。

設定でストーリーを進める

キャラクターが描けていないまま、ストーリーを進めようとすると事件を起こすことになります。

それが定期的に入ってくる「扉が開いてしまう」という事件です。

その度に、閉めるというアクションが入り、演出的には盛り上がっているように見えます。

ビートでいえばアクト2の「バトル」のようなものです。

しかし、「過去と向き合う」とか明確なキャラクターアークがないので、映像的にはどんなに派手でも、ストーリー上は「ただ閉めている」だけなのです。

これが、プロットアークとキャラクターアークの違いでもあります。

80年代ぐらいのアクション映画では、ただのミッションのためのアクションがくり返されます。

当時はCGも少なく火薬を使った爆発でも、映像的には「おおっ!」となりました。

現代でも、SFのような誰も見たことがないアクションとかであれば、それ自体が見物になるのですが、たとえば「女子高生が観覧車のドアを閉める」ことに、どれだけスリルを感じられるのか?」

この映画はアクション映画とは言えません。

外面的な事件ばかり起こしていて盛り上がってるというのは、作り手の思い込みです。

ご都合展開・新キャラで進める

主人公の心理ではなく、設定でストーリーを進めようとすると、必然的に「ご都合展開」が多くなります。

この作品では「設定の後付け」も目立ちました(前作でもそうなので、新海監督のクセだと思います)。

ご都合展開でもキャラクターアークに則っていれば、観客は引き込まれます。

応援している主人公が、頑張ったり、乗りこえたりする様は、クリシェでも気持ちがいいのです。

これは、テレビを回してあまり好きでもない芸能人のクイズ番組を見るようなときと似ています。誰が優勝しても、興味がもてないのです。

「ご都合展開」の目立つのが「新キャラを出すこと」での誤魔化しです。(これは川尻さんの『運命の女』を添削したときに言ったことにつながります)

この映画では、全編を通して宮崎~宮城までを旅していきますが、その都度、新しいキャラクターとの出会いと別れがくり返されます。

「ロードムービーもの」として、その展開がいけないという意味ではありません。

それぞれのキャラクターとの関わり方が問題なのです。

これもつまりはキャラクターアーク、旅での出会いと別れが主人公に及ぼす影響が大事なのです。

新キャラが出てきて、そのキャラに喋らせておけば(説明的に)、ストーリーは進んでいるように見えても、主人公の変化がなければキャラクターアークは進んでいないのです。

興行上、出演させなくてはいけない演者さんがいたのではないかと感じます。それは現実問題として仕方のないことです。うまく処理しなくてはいけないということです。

リアリティの問題

街の風景など、リアルに描写されています。

ダイジンや、動くイスなどに対しての、SNSで反応なども現代的です。

一方で、その後は、イスを持っていても誰も気づかないとか、廃墟となっていた遊園地に灯りがついたり、ただの女子高生が命がけで動く観覧車に登ったり、橋から飛び下りたりといったリアリティはどうでしょうか?

「アニメだから許される範囲」と「リアリティとして許容できない範囲」のバランスが非常にアンバランスです。

都合良く「アニメだから」を言い訳にしているようにすら見えます。

そもそもの、「扉」やミミズといった設定自体へのツッコミどころが多く、世界観の作り込みに問題がありように感じます。

こういった違和感は、その都度、観客の気持ちを、物語から現実へ引き戻します。物語の世界に入り込めないとも言い換えられます。

ただでさえ、ファンタジーは現代物以上に、設定を説明しなくてはいけないセリフが増えます。

その上で、その設定にしたテーマを掘り下げ、そのテーマを主人公にしっかりと背負わせることによってこそ、ファンタジーにする意義が出るのです。(このことは雨森さんの『尽きる前に聞いて』を添削したときの話したことと繋がります)

ファンタジー設定は、都合よくドラマチックにできます。

この作品でも、すずめに好きな人の命か、大震災を起こすかを迫りますが、そもそものキャラクターアークが描けていないと「いやいや、ちょっと待ってよ」という気分にさせるのです。

これは、トロッコ問題を考えさせられているようなもので、考える分には面白味があっても、主人公に共感しなければ、自分がその選択を迫られるようなせつなやさや感動は起こりません。

トロッコ問題の選択を考えるだけで、泣いてしまう人はいないでしょう。

物語で大切なのは理屈ではなく共感です。

シーン単位でのギャグや面白味

メインのキャラクターアークがないせいで、サブ的なオシャレなシーンやギャグが悪目立ちするという問題があります。

メインストーリーに共感してもらっていれば、個々のシーンのセンスに関してはわりとスルーしてもらえるのですが、メインが薄いと小ネタが目だつのです。

懐メロチョイスのセンスの無さには驚きますが、同じアニメ映画である『魔女の宅急便』の曲を使うというのは禁忌を犯しているとすら思います。

ひいてしまった人が多いと思いますが、あそこで「『魔女の宅急便』と一緒だ! いいな!」と思う人は皆無じゃないでしょうか(こういうシーンこそRADWIMPSの音楽を有効活用すべきだったのに)。

そもそも、キャラクターの懐メロ好き設定に意味があるのかも問われるところですが、センスの悪さも目立っていました。神木君の演技がいいだけに悔やまれます。

(このことは、米俵さんの『青春トライアングル』で話したことと繋がります。本筋に関係ない会話は、それ自体が面白くても、物語では時間のムダになることが多いのです)

BGMでの誤魔化し

意味のないシーンほど、BGMで盛りあげがちというパターンがあります。

テレビドラマレベルの演出です。

この映画のどこで、どういうBGMが使われているか、意識して観てみてください。

BGMは一般の観客の気持ちを盛りあげることは事実です。

だからといって、何でもかんでも入れるのは映画としてはチープです。

キャラクターアークとプロットアークの違い理解できていないこと、映像的な盛りあがりとストーリーとして盛りあげるということの違いが理解できていないこと、そういうったことが、こういう演出にも現れていると思います。

何故、ヒットしているか?

脚本的にはかなり多くの問題を抱えながらも、ヒットしているという事実はしっかりと見つめておくべきでしょう。

ただの好き嫌いで、賛美したり、ディスったりするのは、分析になりません。

以下に、ヒット要因を考えてみます。

・『君の名は』以降の宣伝効果で、惰性で観る層(僕もその一人です)

・「演技は悪くない」(声優陣は見事です)

・「アニメーション描写は一流」(背景やキャラクターの動きなどキレイだし、お金もかかっている。)

・「音楽も素晴らしい」

・「地方のフィルムコミッション」

・「震災設定」(批判しづらい、かつ、思い出すだけで感情を抉られる人がいる設定を恥ずかしげもなく使っている)

こういったことから「作品」としては3点(興収でいえば4とか5でしょうが)は維持されています。

廃墟のような寂しいところに現れる扉とか、閉めるために「過去の人々の思いを感じる」といった設定の一部はとても魅力的なアイデアです。(ラストのタイムリープはもういいよって感じですが笑)

そこをしっかりとテーマに据えて、キャラクターアークを描けば、5点になる感動的な映画になるのに、もったいないなと。新海監督の新作を観るたび思います。

緋片イルカ 2022.12.31

SNSシェア

フォローする