【ことばの固着機能】(文学#24)

こと‐だま【言霊】
言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。万葉集(13)「―の助くる国ぞ」

(広辞苑より)

「霊威」を現代的に言い替えるならば、固着機能と言える。あいまいな現象やものごとに「ことば」でラベリングすることによって、扱いやすくする。同時にそれは固定観念を生む。

たとえば、雷が電気現象であるという知識がなかった時代、それは「神鳴」と呼ばれていた。天にいる神の怒りだと解釈された。よくわからない、空でゴロゴロ鳴って、ときに落雷して火事を起こす恐ろしいものを、理解するために言葉が必要だった。「神鳴」とラベリングすることで理解し、「神の怒りを鎮めるため」に行動を起こすことができる。しかし、祭りをしたり、供物を捧げることが、天気を変えることに繋がらないことを知っている現代人からすれば「雷」を「神鳴」と理解することは、間違いのように感じられる。

では、現代人のが賢いのか?
科学は、人類が自然の仕組みを理解することには多大な貢献をしてきたけれど、宇宙の例など挙げるまでもなく、まだまだ未知でコントロールできることも多い。わかったつもりになっていることばかりである。

たとえば、あるウィルスがパンデミックをおこして、空気感染するといわれたとする。医師や、専門的な研究者でなければ、テレビの写真でしか見たことない「ウィルス」を怖がり、感染しないようにと、デマに踊らされたりする。「デマではない! 専門家が言っている!」と言うが、専門家にもいろいろな意見があることは考慮しない。巫女のお告げを信じるのと構造的には変わらない。ウィルスの仕組みや明確な治療法が確立されれば、とたんにデマや宗教は駆逐されるが、世の中にはいまだに医学で治せない病気がたくさんあって、あやしい奇跡の水なんかにすがる人もいる。

宣伝のコピーライティングに不安をあおって購買意欲をあおるテクニックがある。

「その痛み、もしかして大きな病気かもしれません」
「あなたの保険、本当にだいじょうぶですか?」
「いざという時、家族を守れる準備をしていますか?」

明日、死なないと言い切ることのできない我々は「ことば」にされた不安因子を100%無視することはできない。
仕事や家庭が安定して、衣食住が事足りていれば、不安をあおられることは少ない。「完璧とはいえなくても、それなりにやってるさ」と自信があれば操られることも少ない。
一般通念としての幸福のモデルが信じられていた時代は、その生き方に則っていれば、安心していられたが、現代ではなかなか難しいことに思える。

「ことば」の扱いは、心理学では認知に関わる。

「ある人に挨拶をしたが素通りされた」

そのとき、無視をされたという不協和に不安がよぎる。不安に対処するために「ことば」がいる。

「相手が気づかなかったんだ」と思えれば、気にせず忘れられるが、
「自分が嫌いで無視したんだ」と思えば、ストレスとなる。

「ことば」による認知は、その後の行動も左右する。

この積み重ねが「性格」や「思想」をつくり、固定観念となっていく。
固定観念は、外界とのズレなく安定していれば、確立された自己となり、自尊心も高まるが、うまくいかないときには自己嫌悪や他者への攻撃となる。
ズレを解消するには、その人にとっての、あたらしい「ことば」が必要なのである。

本質を見誤った「ことば」は嘘や囚われになるが、智慧のある強い「ことば」は生きるよすがともなる。
囚われてはいけないが、語り得ぬものにも沈黙してはならない。それが文学の意義であり、生きることでもある。

緋片イルカ 2020/03/23

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