脚本作法21:小さな「違和感」を大切に

違和感を大切に

シノプシスでも脚本でも、読んでいて「ん?」と引っかかることがある。

「何となく引っ掛かる」「変な感じがする」といった感覚である。

何故なのか、原因がすぐにわかるときも、わからないときもある。

読み手の勘違いでなければ、良い意味ではない場合がほとんどで、修正するにあたって積極的に直していきたい点にも繋がる。

つまり、「違和感」には修正のヒントが潜んでいるといえる。

ちょっとした「違和感」を「まあ、いいか」と流さず、「何故か?」「どうすれば良くなるか?」と掘り下げることで、成長に繋がることもある。

自作を読み直すとき、他人の本を読むとき、フィードバックするとき、小さな気付きともいえる「違和感」を大事にして欲しいと思う。

説明不足は、見直し不足

読んだとき、作者の言っていることがわからない、状況がわからないといったものがあるが、これは「違和感」以前の問題で、不明点や説明不足、作者に確認すれば原因も対処も明確なことが多い。

指摘されて気付けるということは、作者自身が読み直すことで気付ける可能性も高い。

書きっぱなしのものを、そのまま他人に渡さず、数日経ってから自分で読み直すだけで解決することも多い。

そのためには、そもそも〆切に余裕を持って書き上げる創作態度の見直しが必要な人もいるかもしれない。

あるいは、〆切前に提出できるときでも、書き上げたテンションですぐに提出せずに見直しの時間をとってから提出する習慣を身につける必要がある人もいるかもしれない。

仕事では、状況によってスピードか? 質か? 求められるタイミングが違う。雑でもいいから早く出した方がいい時もあれば、急がなくてもいいので、もう少しじっくり考えて質を上げてくれという時もある。もちろん質が高くて早いのであれば遠慮せず送ればいいのだが。

読み直すときには、音読してみるのが良い。恥ずかしがったり、面倒くさがったりして、音読しないのは怠慢と言える。

とくにセリフは声に出して読むものなので、口で言いづらいものは、そもそもセリフといえない。

書き言葉と、話し言葉は違う。

話し言葉を書くのがセリフである(マンガのセリフは別)。

声に出してみると語呂の良し悪しもわかるし、文章としては正しいことを言っていたとしても、こんな喋り方はしないというのもわかる。

自分が声に出してもいないものを、役者に言わせるというのは、味見もせずに料理を食べさせるようなものである。

AIに朗読させて耳で聞いてみることも効果的である。耳で聞くと客観的に判断しやすい。

だが、感情を乗せる喋り方はできないので、その辺りは、自分で演じるように音読してみるのが一番である。

ともかく、指摘されてすぐに直せるような「違和感」は、見直し不足といえる。

問題なのは、指摘されても納得いかないようなもので、作者の「悪いクセ」になってしまっている可能性がある。

これは意識的に直さないと、一生直らない危険性もあるし、直すことができれば成長に繋がるとも言える。

言葉づかいに対する違和感

「違和感」の原因にはいくつかあるが、まずは言葉の選び方が悪いために起こる「違和感」について考える。

不明点や説明不足と違い、書いてある文章の意味はかるのだが、何かしっくりこない、何か変な感じがするといった場合である。

その原因は、言葉の選び方が悪い可能性が高い。

例えば、以下の文章を比べてみる。

①母、子供を叩く。
③母、思わず子供を叩いてしまう。
③母、ついに子供を叩く。
④母、子供を殴る。

①はシンプルな書き方。ト書きというのは「映像が流れるようにスラスラ読めて、映像が浮かぶ」のが良いト書きである。その条件を満たしているなら、シンプルに超したことはない。

「母が叩くこと」が重要な描写かどうかがポイントになる。

母が叩くことが常習的であったり、前のシーンで既に叩くシーンが描かれていて、ここでは母の一動作と見なされるのであれば、このようなシンプルな書き方でも違和感は起こらないだろう。

だが、母が始めて手を上げたシーンとなれば、シンプルなだけでは物足りない。「流れ」てしまう。これは悪い意味である。

読み手に母の感情に注目して欲しいのに、シンプル過ぎるせいで読み流されてしまうのである。

②は瞬間的にカッとしてしまい“思わず”手が出てしまったという描写になる。直後に、ハッとして子供を抱きしめる展開などもありえる。母の感情描写をするには、シンプル過ぎるト書きより、“思わず”のような一言が効果的なことがある。

③の“ついに“は、“思わず”よりも自覚的で、我慢の限界に達して手を出した感じがある。このト書きの前の描写で、子供に対してイライラしていたり、怒りを堪えていたシーンがあることが前提である。そういうフリがないのに、唐突に“ついに”が出てくると、読み手にとっては「違和感」になることがある。一連の描写の結果、“思わず”ではなく“ついに”手を出したのなら、これで良い。

④は“叩く”と“殴る”という動詞の違いから受ける印象はまるで違う。“叩く”はパーではたくかんじだが、“殴る”はグーでパンチをするような想像をしやすい。読み手が「母が子供にパンチ?」という「違和感」が生まれる可能性がある。読み手は「たしかに殴ると書いてあるが、自分の描いたイメージであっているのだろうか?」と不安になって、前のページを読み直したりしてしまうかもしれない。読者が、そう感じてしまうのであれば、それは「違和感」といえる。

言うまでもなく、読者に読み直しを強いるようなト書きはマイナスしかない。

もちろん、このシーンがそもそも「母と子供が殴り合いをしているシーン」であるなら、このト書きが自然ということもある。

作者が“叩く”イメージをしていながら“殴る”と書いてしまうのは、かなり言語に対する配慮の欠けているライターといえるが、ゲンコツ程度の殴り方を“殴る”と書いてしまうのはありえる。ゲンコツと“殴る”もイメージはだいぶ違う。

簡単な例で4つのト書きを比べたが、こういった、ほんのちょっとした言葉の選び方によって、母のキャラクターや感情の変化が描かれるということは、ストーリー全体での表現の統一感も欠かせないということである。

言葉に対する細かい気遣いができないとキャラクターアークは描けないのである(プロットでアークを描けても、脚本上で描写できない)。

言葉の選び方の違いが、ただの読みづらさだけでなく、キャラクターの心理描写や、ストーリーの雰囲気にも大きく関わってしまうのである。

他人の文章を読むときも、ちょっとした「違和感」を大事にして、細かいところに目を向けられるようになってほしい。

細かいレベルでフィードアップし合えれば、チーム全体の力が上がっていくはずである。

文章に対する違和感

ここまで単語の、言葉の選び方から起こる「違和感」について考えてみたが、次は文章について考えてみる。

文章への「違和感」は小さな違和感というより、むしろ「読みづらさ」として感じられることが多いだろう。

書かれた文章の意味はわかるが、読みづらい、理解するのに時間がかかる、二度読みしてしまうといった場合である。

文章のまずさに多い原因は、下手な表現技法である。

例えば、ことわざや慣用句。

母、ついに子供を叩く。

母、堪忍袋の緒が切れて、子供を叩く。

文章としては意味がわかる。“堪忍袋の緒が切れて”という慣用句によって、“ついに”よりも感情が明確になった印象を受ける人もいるかもしれない。

だが、慣用句というのは「慣用」というぐらいで、要はクリシェな言葉である。

主人公の個人的な感情を、繊細に表現するのに、慣用句に頼ってはいけない(小説でも、文章表現が巧くない作家ほど、慣用句や諺を使いがち)。

ト書きだと紛れやすいが、セリフにしてみれば、いかにクリシェかが分かる。

 母、わなわなと手を震わせて、
「ああ……もう堪忍袋の緒が切れた……」

これでは、母の怒りが伝わるよりも、陳腐なセリフで笑ってしまう。もちろん、コメディであれば慣用句も使いどころはある。

コメディというのは、常識に新たな視点を加えることで笑いを誘うようなものである。だから、コメディだからといって慣用句をもとの意味通りに使うわけではない。

 母、わなわなと手を震わせて、
「ああ……もう……堪忍袋の緒が……」
「切れない切れない、結んどこ」
 と、息子が母にエプロンをかけて座らせる。

最近は修正されたが「体言止め」を多用することで、読みづらさに繋がっていた作者がいた。

「体言止め」は、ここぞというト書きで使うと効果的だが、主語が文末に来てしまうので「映像が流れるように」読むことを阻害する。

これはト書きの基本ルールである「母、子供を叩く」というように、主語は「母、」というのを守るだけで修正できるので、例文は省略する。

読みづらさの原因で一番多いのは「重文」や「複文」といった文章の二重構造である。

母、思わず子供を叩くが、すぐにハッとして抱きしめる。

「母が叩く」と「母が抱きしめる」の2つの文章を、重文として一行で書いてしまっている。
2行に分けると以下になる。

 母、思わず子供を叩く。
 と、すぐにハッとして抱きしめる。

改行にすることで映像的なテンポにも繋がる。

「叩いてしまったショット」と「我に返って抱きしめるショット」の2つが浮かび、そこに母の心の動きも表現されるが、1行にしてしまうことで、叩くことと抱きしめることが一連の動作になってしまい「ハッとする間」が潰れてしまっている。どうでもいいが、「と、すぐに~」のような書き方の「と」が、ト書きの「ト」の由来である。

 母、思わず子供を叩く。
母「……」
 と、すぐにハッとして抱きしめる。

このように、無言セリフを入れると「叩いてしまったショット」「叩いてしまって同様する母の顔のショット」「我に返って抱きしめるショット」の3つが浮かぶ。母の感情がより丁寧になったと言える。

セリフで「……」を多用する人もいるが、使うからには映像的な意味や、感情的な意味を考えた使わなければ、ノイズになってしまう。

こういったセンスを身につけてもらうため、ライターズルームでは「一行に一動作」というのを基本にするように指導している。忘れている人は改めて思い出してほしい。

だが、基本ルールに縛られると以下のような勘違いも生まれてしまう。

 母、運転席に座る。
 母、キーを差し込んで回す。
 母、エンジンがかかると、バックミラーを調整する。
 母、サイドミラーを調整する。
 母、シートベルトをかける。
 母、両手をハンドルに手をかける。

まず、主語を「母、」のように書くのは基本だとは言ったが、言うまでもなくこんなものは不要である。主語が同じなら、わざわざ書かなくてよい。

このシーンの内容は、車を発車させるまでの動作で、細かく書いてあることで映像が浮かぶようにも読めて、悪くないと感じる人もいるかもしれない。

だが、6行も必要か?ということをしっかり考える必要はある。言葉選びのところで説明した「重要な描写かどうかがポイント」と同じである。

この母が、何か決意をした後の行動で「車を発進させること」に、感情的な意味がのっているのであれば、動作を細かくかくことに意義が出る。

例えば、これから「誰かと重大な話し合いに行く」といったシーンであれば、発車準備の行動が「闘いの準備」のように見せられる。

だが、ただ「子供の迎えで保育園に行くだけ」のシーンであったら、どうだろう?

無駄な描写に行数が多くなると、ページの枚数が増えてしまうことになる(映像にしたときには時間を使うということになる)。

別のシーンで、もっと重要な感情的なシーンの描写がなおざりになってしまう。構成を習っている人なら、無駄なシーンが多いせいで「ビッグバトル」が短くなってしまうといえば、それがどれだけ大きな欠点かわかるだろう。

そのシーンだけが魅力的でも、全体から見て効果的でないシーンであれば、思い切ってカットする必要がある。

母、運転席に座ると、キーを差し込んで回し、エンジンがかかると、バックミラーとサイドミラーを調整し、シートベルトをかけ、両手をハンドルに手をかける。

このように書けば、行数を減らしつつ、一連の動作を説明したことになるが、文章が長くて(重文で)、一行ずつのときより映像が浮かびづらくなっている。

ここが全体からみて意味あるシーンでなければ、シンプルに、

 母、運転席に座って車を発進させる。

ぐらいで、伝わる。キーを差したり、ミラーを調整したりといった細かい動作は、役者や演出の判断でやってくれる。

このシーンが、ストーリー上で強調すべきシーンでなければ、余計なことは書かなくていいのである。

ト書きをシンプルにすると、次の問題が見えてくる。

以下のような一連のシーンで考えてみる。

○田中家・リビング
 母、お菓子を食べながら、テレビを見ている。
 ふと、時計を見て、慌てて立ち上がる。

○田中家・玄関・中
 母、車のキーをとって出ていく。

○田中家
 母、玄関から出てくる。
 停まっていた車に乗り込む。

○車の中
 母、運転席に座って車を発進させる。

○車道
 母の車が走っている。

○保育園の前
 車が停まる。
 母、降りてくる。

○保育園・玄関・中
 母が入ってくる。

「母が保育園に行くまで」を説明しているだけのシーンである。

最初のシーンと最後のシーンだけでも充分。あとは余計な描写である。

ト書きの書き方が巧くなってくると、無駄なト書きを書かなくなる。

その感覚は、無駄なシーンを見る構成の力にも繋がっていくのである。

一事が万事で、言葉の選び方、文章の組み立てといったことが、物語全体に繋がっている。

文章が下手な人は無駄が多い。そういうト書きを書く人は、構成も上手くない。

このことが分かると「最初の数ページ」を読むだけで、作者の実力が分かってしまう。

もっと言えば「人物表」だけでもわかる。無駄な描写が多い作家は、無駄な登場人物も多いのである。

逆もまたしかり。

「構成」が身につけば、適切なキャラの配置や、「描写」の良し悪しも自然と身についてくる。

ストーリーサークルでも示したように「構成」「描写」「テーマ」等、物語の要素はすべて関連するので「描写」を突き詰めれば「構成」も整うとも言える。

言うなれば、どこから学んでもいいのではあるが「構成」から入るのが学びやすく身につけやすいので、初心者にはビートを勧めている。

フィードバックで自分も成長する

作者としてはたくさん書いて「量をこなす」ということが基本中の基本。書かなければ何も始まらない。

だが、ある程度、スピード感をもって書けるようになってきたら、量より質を意識していく必要もある。

スピードは落とさずに質を上げるべきだが、それには「すでにやっている作業の中で質を上げること」が重要である(新しい何かをやろうとすると、時間が不足してスピードが落ちてしまう危険がある)。

誰かに対してフィードバックすることは、自分にとっても勉強になるということを改めて考えて欲しい。

他人の文章は「違和感」をもちやすい。

それが、自分と好みが違うだけなのか?

細かい指摘は、フィードバックするときに言いづらいことも多く、スルーしてしまいがちだが、それが大きな問題に繋がっていると考えられば、実は小さな問題ではないことが多い。

人は人、自分は自分などと安直に片付けず、小さな「違和感」から考えて、話し合ったりすることから気づけることは多いはずである。

そういった動きが加速して、チーム全体が強化されれば、結果的に自分の成長も早まる。

他人の作品をよくするポイントが見つけられれば、それを自分に作品に応用すれば、自分の作品の質が上がるのは間違いない。

情けは人のためならず、人のために懸命にやったことは、必ず自分にも返ってくる。

これは、創作にも言えることだと思う。

イルカ 2026.2.6

SNSシェア

フォローする