「文学」は迷走している。
出版不況の煽りを受けて、売れない文学には価値がないという考え方がある。資本主義経済の考えに基づけばもっともである。
正しさの裏には、もう一つの正義が必ずある。
文学は、それは体制や主義に従うものであってはならない。それこそが文学の衰退であるというような考え方である。
前者は文学を「商品」としてとらえ、後者は「芸術」と捉えているようなふしがある。
国によっては、文学は大学のような学術機関が担うものと捉えるそうだが、日本では「文学」を一般企業である出版社が赤字を抱えながら背負っている。
ある文芸編集者の方が「文学を切り捨てたら出版社は終わりだ」と語っていた。売れなくても出版という仕事としてプライドをもって文学を背負うという。
バブルもおわった現代では、この矜恃はただの古い考え方と切り捨てておけないものである。
「売れる=いいモノ」という頭に泡が吹いてる世代が、ちょうど社内で影響力をもっている頃だが、やがてその考え方だって古いものとなっていく。
けれど売れない文学に意義はない。
それは経済的利益をもたらさないからではなく、物語としてのコアが弱いために売れないような未熟な文学には、文学的な価値がないということである。
例えば過去に賞を受賞したとか代表作があるだけの作家が、面白くもない(つまりエンタメともなりえない)、意義もない(文学的な価値もない)作品を、編集者とのコネでだらだらと書きつづけて、ゆくゆく文学賞の選考員などになって他人の作品にだけは難癖つけている。
こんな作家がいるとしたら老害でしかない。編集者が、その作家の能力をかっていて、ともに新しい文学を模索している過程ならまだしも、内心では見限っているのにただ癒着して切るに切れないでいるとするなら、それは編集者の怠慢である。売れない文学を生み出している要因の一つである。
また別の売れない文学がある。売り方が悪いために売れない文学である。
ある時代、新聞やテレビといったメディアに広告さえ打てばモノが売れた。ネットの時代になると、口コミやレビューといった個人が一時期影響力をもつようになった。いまや、そこにも広告の手法が入り込み、芸能人のステマやインフルエンサーになるためにフォロワーを買ったり、政党のプロパガンダにまで使われたりして、もはや個人の影響力はゼロではないが相当に弱まった。
反体制のようなマイノリティーの文学は、売れないものとして掻き消されていく。
売れない文学の作者は生活に貧して、書けなくなっていく……。
それは違う。
それでも書きつづけられたようなものにこそ文学的価値が潜んでいる。
それを拾い上げるのは文芸編集者の仕事だ。すでに人気のものを探してきて、一定パイを売り上げるだけの仕事ならAIで十分だ。
文学は売れない。だから、何だ?
文学的価値は売れることが目的はない。
ネットは資本主義活動に囚われる企業から言論を解放した。さいわい日本の言論規制はぬるい。
言いたいことがあれば書けばいい。
読み手におもねることはない。読み手におもねることは、売れるために書くのと変わらないのだから。
緋片イルカ 2020/01/11
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