「情報」や「印象」を脚本に書く(演出3)

前回:「情報」と「印象」を伝える(演出2)

前回の記事でショット(写真)を通して「情報」と「印象」が伝わり、それを過不足なく、ときには増大して観客に伝えることこそ「演出」であると説明した。

だが、そもそも脚本の段階で、それらがきちんと描かれているのか?という問題がある。

今回は脚本において「情報」や「印象」を書き込む方法や、演出家がそれらを読み取ることについて考える。

「情報不足」の脚本

素人っぽい例文から考えてみる。

例1:
〇街中(夜)
花子「ああ、もうクリスマスか~」
太郎「ほんとだ。ツリーがあるね」
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ、仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」

説明的で、無個性なセリフの会話として書いてみた。

会話から、内容は一応は理解できる。

柱で「街中」とあるので、読者側の想像力が豊かであれば素敵なシーンにも読めるかもしれない。

だが、これを撮影のための台本として読んでみると、情報不足なことがわかる。

まず「街中」とは、どこなのか?

地名を書き込めということではない(もちろん特定の場所の指定や、効果があるなら指定してもいい)。

街といっても、作者がイメージしている「街」と、スタッフと一致するとは限りませんよ、ということである(もちろん原作マンガなどがあれば、これだけでも伝わる可能性もある)。

太郎が「ツリーがある」と言っているが、サイズや派手さもわからない。

ケーキ屋などの個人商店規模のツリーなのか、イルミネーションで人が集まるようなスポットの巨大ツリーなのか。

周りの人がいるのかどうかも書かれていない。

こういったことは、すべて脚本の「情報不足」といえる。

このシーンでは「ツリーのサイズはどうでもいい」という考えもあるかもしれない。

とはいえ、キャラクターの性格やストーリーの意義を考えたら「どうでもいい」ということは少ない。

たとえば、服装などでピーコートでもダッフルコートでもいいということはある。

ストーリー上、その違いは意味をなさないし、変に指定するよりは衣裳のスタッフさんが「いいかんじ」の服装を選んでくれた方が魅力的ということもある。

脚本家が変に拘りすぎて指定しすぎても、それぞれの「専門家の能力を上回っているのか?」とか「予算や撮影限場での都合」もある(一生懸命、書き込んだところで現場で無視されれば、それまででもある笑)。

脚本家は、いわばストーリーの専門家であるのだから、その部分に責任を持つべきで、細かい衣裳や大道具の指定よりも、感動できるドラマをしっかりと創ることが仕事である。

ドラマのために必要な「情報」であれば、細かいことでもしっかりとト書きに指定しなくてはいけない。

「情報」がストーリーやキャラクターにとって、重要かどうかをしっかり見極める必要がある。

「印象」を考える

例にあげたシーンを読み直してみる。

例1(再掲):
〇街中(夜)
花子「ああ、もうクリスマスか~」
太郎「ほんとだ。ツリーがあるね」
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ、仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」

二人の会話はクリスマスからの連想で起きるのだから「ツリー」は重要といえる。

その違いがわかるように、ト書きを加えて比較してみる。

例2:
〇街中(夜)
 イルミネーションなど装飾された街並み。たくさんの人が歩いている。
花子「ああ、もうクリスマスか~」
太郎「ほんとだ。ツリーがあるね」
 巨大なクリスマスツリーがある。
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ、仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」

例3:
〇街中(夜)
 静かな夜道。太郎と花子以外には誰もいない
花子「ああ、もうクリスマスか~」
太郎「ほんとだ。ツリーがあるね」
 民家の前に小さな可愛らしいツリーが飾られている。
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ、仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」

セリフは同じなのにト書きだけで「印象」がまるで変わる。

「どちらが良いか?」というのが作者が決めることではある。

軽く目を通しただけだと、花子の「しんみりしちゃう」というセリフと「人がいない夜道」はシナジーがあるので「例3」の方が相応しいシーンには見える。

だが、ありがちでもある。

賑やかなクリスマス装飾された街の中で「しんみりしている」花子というキャラクターには個性があるようにも見える。

どちらが良いかは、「キャラクターの感情」「設定」「テーマ」などによって、作者が決めるべきもので一概に言えない。

「例2」も「例3」もセリフが、まだ無個性なので、ここからはどちらが良いとは判断できない。

バックストーリーから「裏情報」が伝わる

例2(再掲):
〇街中(夜)
 イルミネーションなど装飾された街並み。たくさんの人が歩いている。
花子「ああ、もうクリスマスか~」
太郎「ほんとだ。ツリーがあるね」
 巨大なクリスマスツリーがある。
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ、仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」

この脚本から「バックストーリー」を検証してみる。

バックストーリーとは、一言でいえば「脚本上に描かれていない、直前のシーンを考えること」である。

この太郎と花子は、イルミネーションのようなクリスマス装飾された街並みを歩いている。

「わざわざツリーを見に来たのか?」「たまたま通りかかったのか?」という選択肢がある。

前者の「わざわざ」であれば、花子の「もうクリスマスか~」は不自然である。「わざわざ」の設定であるなら修正が必要なセリフ。

後者の「たまたま」であれば、なぜ「たまたま」通りかかったのかの別の前提条件がいる。

たとえば「通勤路」だとすると「もうクリスマスか~」は、「たった今気づいた」というかんじになるので、昨日まではイルミネーションはやってなかったのでないと不自然になる。すると日付は12月の上旬から中旬と予想される。「巨大なツリー」があるようなイルミネーションが、クリスマス当日に突然されるということはリアリティがない(もちろん、ワンデイのイベントなどで、そうである理由が設定があるならいい)。

揚げ足をとっていると進まないので、設定を決めて進んでみる。つまり「この道は通勤路で、12月10日ぐらいで、今日初めて装飾がされた」とする。

仕事の後であれば、花子の衣裳は職場に関連する格好だったり、バッグも持っているかもしれない。仕事後であることや、それを明確にするアイテムをト書きで書くと親切であり、演出とのブレが減るだろう。

また、太郎は花子と同じ職場か近場が近い、あるいは花子に会うためにやってきたと考えられる……

こういった検証をやっているとキリがないのだが、脚本家は、ひとつのシーン、ひとつのセリフを書くだけで、それだけのバックストーリー、言うなれば「裏情報」が伝わることを意識して書かなければならない。

その上で、初めて作者が伝えたい「印象」を、効果的に描くことができる。

「感情」を伝える

「印象」のなかでも、何よりも重要なのは「感情」である。

ストーリーにとって感情が重要なのことは言うまでもないのだが、それがわからない人は演出以前のレベルなので、以下の記事などから「キャラクターアーク」を学んでください。
参考記事:ログラインを考える1「フックのある企画から」

ここでは脚本で「どうやって感情を書き込むのか?」を考える。

以下は「例2」から、説明的な言い回しをとって「あえてト書きを削除した」ものである。

例4:
〇街中(夜)
花子「ああ、もう、こんな時期か~」
太郎「ほんとだね」
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ……」

人間の会話は、これに近い喋り方をしている。

親しい間柄であれば「この前のアレだけどさ」なんて言うのは、よく耳にする。

リアルとリアリティは違うので、完全にリアルにした場合は、キャラクターの会話が観客に伝わらなくなってしまうので、リアルとウソのセリフの中間でリアリティを出すのが大切。

上記の脚本はセリフだけ読むと、感情的な部分が伝わってくると思うがト書きがないので、情報不足になっている。

説明セリフばかり書く初心者は、映像的なイメージを描いていないので、こういうセリフが書けない。セリフで「クリスマス」とか「ツリー」といったことを説明したがるのである。

ト書きを戻してみる。

例4:
〇街中(夜)
 イルミネーションなど装飾された街並み。たくさんの人が歩いている。
花子「ああ、もう、こんな時期か~」
太郎「ほんとだね」
 巨大なクリスマスツリーがある。
花子「何だかしんみりしちゃうわ」
太郎「なんで?」
花子「だってさ……」

ト書きにきちんと書いてあれば、映像になったときには街やツリーが映るので伝わる。

ここまでは基礎技術。

考えるべきは最後の花子のセリフ「だってさ……」である。

これは「例2」では、

花子「だってさ、仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」

となっていた。

セリフとしては「だってさ……」で止めた方が、意味深な余韻が出て、上品に見えるのは間違いないが、同時に「情報不足」に陥っている。

つまり、花子が「何故しんみりしているか?」が曖昧になっている。

ここでも「バックストーリー」として考えるべきことが、たくさんある。

作品全体を通して、その意味がしっかり伝わってくるのであれば、シーンの中では曖昧なままでも構わないが、全体通して伝わらなかった場合は、ただの「雰囲気だけの作品」となってしまう。

雰囲気だけの作品は、作者自信がテーマに向き合い切れていなかったり、伝え方の技術が悪く伝わっていなかったり、原因はいろいろ。

それでも雰囲気だけを楽しんで(役者への好意も大きく影響する)、好いてくれる観客もいるが、感動やヒットとは遠いことも多い。

改めて例文を見てみる。

花子「だってさ……」

を見たとき、どんな映像が浮かぶだろうか? あるいはあなたが監督やカメラマンであったら、どんな映像を映すだろうか?

個性的な演出は置いておいて、ストレートに読めば、前にある「しんみり」を受けて「遠くを見つめるような横顔」などがある。

イルミネーションにはしゃぐ人々の喧騒とは、違った時間が流れている、花子の感情を浮かび立てるため、フォーカスは花子に合わせ、周りはぼかす。それに合わせて光と影の具合も工夫する。

そんなショットが一例として挙げられるだろう。それなら、ト書きとして「花子、思い出すように遠くを見つめる」などが必要である。

演出家に向けて、「そういうショットを撮ってくれないと伝わらないよ?」という指定でもある。

ただし、一番の問題は、それだけのショットを見せられたとき観客は花子の気持ちをどう想像するだろうか?ということ。

明らかに過去に何かあったように見える。

この「だってさ……」の「……」で言葉にしなかった内容が「仕事ばっかしてて気づいたら12月。今年も一年おわっちゃうよ」とマッチしているかどうか?

どう考えてもしていない。

これは、そもそものストーリーが薄っぺらいということになる。

あるいは「……」ばかり多用して、意味深に見せていても、全体を読んで伝わらなければ、それは「雰囲気だけの作品」に過ぎないということ。

脚本と演出の関係

演出家は、しっかりと脚本を読める必要がある。

花子の感情のように、セリフにされていない「情報」や「印象」を読み取って(分からなければ書いた本人に確認すればいい)、それを映像的にどう伝えるかを工夫することが「演出をする」ということである。台本に書いてある通りに現場を回すことが演出ではない。

脚本家は、聞かれたときに応えられるような意義をもって書くべきである。セリフやト書き、一行レベルで。

もちろん、うっかりの抜けがあったりもするし、作者が知らなかった事実や、考えもしなかった視点に気づかされることもある。

それは映像作品の良いところでもある。いろんな人の、いろんな視点が入りながら、完成されていく。

その中でも脚本と演出はとても大きな役割を果たしている。

撮影以降は監督による演出(direction)が大きな意義をもつが、そのベースとなるストーリーと方向性は脚本で示されていないとならない。

脚本で示した上で、良い方法があれば変えていくのは「演出」である。

脚本家は、変に自分の考えに拘ってはいけない。

けれど、ドラマのような重要な部分であれば拘らなくてはいけない。ドラマの専門家は脚本家であるのだから。

他人の脚本を読むことは、演出家の視点で読むことに似ている(ライターズルームにおけるフィードバックの意義の一つでもある)

「よくわからない」と思うところがあれば指摘することで、お互いの理解になる。すなわち、読者側が読めていなければ作者の意図を知れるし、作者側は誤読されたり伝わっていない可能性に気づける。

ツイストアイデアを考えることは、自分流の演出方針を示すことにも繋がる。

「自分ならこうする」というアイデアは、作品自体のテーマやキャラを無視して、面白いことを言う大喜利ではない。

相手のストーリーを汲み取った上で、それをさらに「演出」できる方法を意見すること(脚本上では決定権は作者が持つ)。

こういったことは、脚本を読むのと同様に、作品を鑑賞するなかでも出来ること。

観客のようにぼけっと映画を見ていても、創作は上達しないが、セリフや構成や演出を分析する目でみれば、鑑賞するだけでも創作の力は向上していく。

脚本を勉強していれば演出の力もつくし、そもそも演出の力がなければ良い脚本は書けない。

同様に、脚本が読めなければ良い演出などできないと思う。奇抜や意外性の演出は目立つが、ストーリーを汲み取った演出でなければ、ただの賑やかしに過ぎない。

緋片イルカ 2023.12.28

次:「視覚」と「聴覚」と(演出4)

SNSシェア

フォローする