(イルカの独り言)最近見たアニメとか映画とか

※イルカの日記みたいなものです。有益な情報とかはありませんので。

『呪術廻戦』の感想
昨日だか一昨日だか、仕事の後、次の日が休みだったので、見かけになっていたアニメを一気見した。18見ていた。

まずは『呪術廻戦』。前に13話まで見ていて「交流会」というの始まるところで止まっていた。いかにもジャンプのノリでつまらなそうだなと思ってしまっていたが、見たら、そうでもなくて一気に見れた。むしろ一気に見れたから良かったとも思う。

設定周りと、バトルのマウントとりあいが、あざといなとは思ったけど、京都校のキャラにも親近感もてたし、野球までした後は、また3人での「調査」的な展開に戻ったのは好感が持てた。次のシーズンも気になる。

一つ気になったのは、セリフに耳で聴き取りづらい言葉があるところ。必殺技系は耳で聴いててても、まったく漢字が浮かばない。キャラの名前もそう。映像の演出としては、文字でバンっと出してしまうやり方もあるが、これは好みの分かれるところだと思う。

これを「原作を読め」で片付けてしまうのは、アニメの仕事はそれでいいのだろうかという疑問は感じる。『鬼滅の刃』でも感じたけど、映像のクオリティは高いのは疑いようないけど、ただ原作を動かしているだけになっていないか。

原作を変えてしまうと、原作ファンとの板挟みにあるだろうけど、アニメ制作はただの映像化屋さんになってはいけないような気がする。

『呪術廻戦』で具体的にいえば、何話か忘れたけど、五条先生が「ひまだ~」というシチューエーションで「廃棄のおにぎりでキャッチボールしながら政教分離について語ろうぜ。動画上げて炎上しようぜ」というセリフがあった。

これを初見で耳で聴いたときに「ん、ハイキ?」となった。

シチュエーションがコンビニ店員で、廃棄処理をしているシーンでのセリフなら問題ない。むしろ「廃棄のおにぎりで」じゃなくて「このおにぎりで」で充分である。

けれど、五条先生が唐突に「廃棄おにぎりで~」と言い出すのは、観客には想像できない。音だけで聴き取るのはきつい。

未確認だけど、たぶん、原作通りのセリフなんだと思う。原作は文字だからそれでいいし、ただのギャグだから五条先生がそういうことを言い出しても構わない。キャラから言っていいそうでもある(キャラがブレてるという話ではない)。

けれど、原作にあるからといって、そのまま声にしたときに、観客にどういう効果をもたらすかということを、考えた上で脚本を書いているのか、演出しているのか、ということである。

「廃棄の」ではなく「コンビニの」にするだけで耳の入りやすさは変わる。これぐらいなら、ストーリーもキャラもギャグも、ほとんど変わらないはず。原作ファンが怒るとも思えない。

原作者が一言たりとも変えるなと言っているなら別次元の話だが、それだったら、「おにぎりキャッチボール」や「動画炎上」のコミカルな想像アニメーションをつけて補足する工夫はできる。

正直、このアニメシリーズでは、聴き取れないと思って、巻き戻したことが、何度もあった。

けっこう、いいシーンでも気になって巻き戻してしまう。ときどき、声優さんの話し方にクセがあるというアニメもあるが、このシリーズでは、同じキャラではないので、脚本に問題があると思う。

小説から映像にするような場合では、どう映像表現に置き換えるかというのが、問題になって、腕の見せ所でもある。小説ほどでもないけれど、マンガとアニメはストーリーのリズムも違うし、ただ映像化するだけでは、もったいないなと思う。

『ひぐらしのなく頃に業』の感想
このアニメも、見かけになっていた。前に記事を書いたときは、リアタイで追ってみようと思ったのだけれど、つい忙しさに振り回されてるうちに、放映が終わってしまって、一気見した。リアタイで追っていたらイライラしただろうなと思った。新しく記事を書く気にならなかった。

「解」までは、中盤にダルいところはあれど、それなりに楽しめたけど、今回の「業」を一言でいうなら「出涸らしの続編」。それ以上は語るのはやめておく。

このシリーズで考えさせられたのは、たぶん「エヴァ」シリーズもそうだけど、作品と考察するファンとの関係。

物語のあり方として、考えさせられるものがある。

作品に対する考察というのは、アニメシリーズの解釈のようなものが浮かびがちだけど、文学作品にも言えること。

たとえば、ある物語に「自殺してしまった人物」がいて、それは正しかったのかどうか、などは大学のレポートの題材にもなるだろう。

世の中には、ひとつの答えが出しようのない問いがある。

そういうテーマを物語を通して、考えることは、対立する考えをもつ人たちに話し合いの機会を設けるだろう。文学の役割である。

考察系アニメが、やや低次だと感じてしまうのは、テーマではなく、作り手が伝えきれていない設定を、観客が推測、補完して、作者に振り回されているだけだからである。

そのために時間やグッズを買わされていれば、制作者に踊らされているようにすら見える。

くり返されている日常を生きていると忘れがちだが、人生には限りがある。露骨に言ってしまえば、誰もがやがて死ぬ。

貴重な時間を、考察ゲームに使うのか、もっと有益な使い方がないのか。

自問しながら、けっきょく、次のシリーズ「卒」も見てしまうのだろうと、どこかで思っている。

『アルベール・カミュ』と『最初の人間』
5/1の読書会に向けて、カミュの作品を読んでいる。

手始めに映画を見た。

『転落』発表前後から、死ぬまでのカミュという人間を描いた作品。全体として「恋愛」をテーマをしていて「ふーん」という程度。

女優マリア・カザレスとの関係も深く描かれて、カミュを題材にした映画という。どこかのレビューを見たら、課題で見させられた学生が恋愛観を否定していたり、カミュは好きだったけどこんな人だったと思わなかった(※妻がいるのに不倫していたこと)、嫌いになりましたとか書いている人がいた。

映画だけで、一人の人間をわかったことにしてしまっている怖さを感じた。そういう人が、メディアで叩かれた人をボロクソ言ったりするのだろう。

こういう乖離は、いたるところにある。カミュもまさにそういうテーマに苦しみ、抵抗した人だと思う。

もう一つの映画『最初の人間』

カミュの自伝的小説で、かつ未完の遺作の映像化。どこかの記事で、カミュを読むなら、この作品から読むといいと言われると書いてあった。

こちらの方が、カミュの生い立ちがよくわかった。もちろん創作が入っているとしても、この作家がテーマとして向き合っていたものがよくわかった。

歴史に疎いが「フランス領アルジェリア」で生まれたというのが、カミュを理解するカギのひとつだと思った。

第二次大戦ではドイツへの暴力的な戦いも支持していたが、アルジェリアの独立運動に関しては曖昧な立場をとる。

暴力的に鎮圧しようとするフランスにも、テロ行為を行うアラブ人がわにも立たず、

「私は正義を信ずる。しかし正義より前に私の母を守るであろう」という言葉につながる。

カミュの交通事故は、政治的な殺害だったという説を唱える人もいるらしい。真偽はともかく、それぐらい、命がけで言葉を使っていたことに作家としての尊敬を感じる。同時にきわめて人間的な迷いをたくさん抱えている。

「作家を目指す人は誰もが読むべきだ」なんていう、うさんくさい言葉は大嫌いだし(そんな言い方はマウントをとりたいだけ)、

誰かに勧めようなんて、微塵も思わない。それぞれの人に、それぞれの読むべき作品があるはず。

流行ってるからとか、誰かが読んでるかといって、読む必要もない。

ただ、僕にとってはカミュから学べることが多くあると感じる。

昨日読んでた『働かないふたり』で、小さい女の子が、守くんの気を引こうとして難しい本を読んでる回で、「誰かにすごいと思われたくて本を読むんじゃなくて、自分がすごいと思うから本を読むんだ」って諭すシーンがあって、ほんと、それだなと思う。

ついでに、勧められて読んだ『ガンニバル』、まだ一巻しか読んでないけど、なかなか面白い。ちょっと展開が遅いが。

緋片イルカ 2021/04/18

SNSシェア

フォローする