掌編『ジュンク堂へ行く』(400字換算8枚/SoC6)

 映画館で映画を見るように喫茶店に行って読み終えるまで帰らないようにすると、よく読めるというのを感じて、ここ数日、巣鴨駅付近まで歩いて、どこかしらの店に行くようにしている。巣鴨まで歩くと十五分はかかるので家で座ってばかりいるよりも良い。はじめのうちは行ったことのない店に入るようにしていたが行き尽くした感もあって、今日は馴染みの店に入った。土曜だったので混んでいた。一人席でいいと思っていたが、空いているのが中央の四人席しかなかった。珈琲とマロンタルトを頼んで、始める。
 ジョルジョ・アガンベンの『瀆神』で、残りは表題にもある「瀆神礼賛」の章だけだった。三十頁ほどで、すぐに読み終わると思って別の短編小説も持ってきた。Kさんが、この本をくれたのはいつだったか。他の章を読んで良い本であるとは感じていたがタイミングを逸して後回しになっていた。本を読み切るには読みたい思いだけでなく、もうひとつ後押しのようなものが必要で、そういったことはいろんなことにも当てはまるように思う。アイス珈琲とパイが運ばれて、片手でフォーク片手に本で読み進めるが、なかなか入ってこない。通路側の席で店員さんや会計をする人が通るのが気になって、向かいの座席へ移動する。すると、店内の奧にいるグループが目に入り、目に入ると話し声が耳に入るようになる。中年女性五人と中東系外国人の男三人の声量が大きくて、何を喋っているか内容が聞こえてくるのではないが、騒音のようにひっきりなしに鼓膜を揺する。人差し指を耳につっこむと少しだけ集中できた。騒がしいところで読むのが苦手という訳ではないので、体調のせいだと思う。ここ数日、昼夕は暑いぐらいなのに夜になると気温がぐっと降りるような日がつづいていて肩凝りもしている。「事物、場所、動物または人を共通の使用から除外して、分離された領域に移すものが宗教であると定義できる。」付箋を貼りつけながら惹かれた箇所をスマホで写真に撮って、感想とともにKさんに送る。面白さを感じながら、なかなか頭に入ってこなくて何度も読み返す。速読よりも精読を大切にしていると、Kさんが言っていたことを思い出す。
 冷房が首にあたって掌を充てると冷えているかんじがした。この本を読み切ったら帰ろうと思ったが、こんなところで体調を崩してもばからしいと思って、向かいの座席に戻って、奥側に座る。店内の客も、まばらになって人の通りも少ない。五人グループの女性達がレジに並んだ。ひとりずつ注文したものを述べて会計していき、三人目が残りをすべて払ったのか、あとの二人は払わずに出ていった。それから、しばらくして読み終えた。
 ベンヤミンの「展示価値」という用語が気になって検索すると『複製技術時代の芸術作品』という論説の中に出てくるらしくネットではわからなかったので池袋のジュンク堂へ行ってみることにした。
 一階の新刊コーナーに目を通したあと、映画関連の棚をチェックするため、エレベーターで九階に上がった。写真集が目に入って、Kさんに誕生日プレゼントを返したいと思っていて決まっていなかったのが、写真集がいいかもしれないと良さそうなものがないか探した。Kさんの趣味は明らかに違って、色でいえば白と黒のように、はっきりと真逆で、いかにもKさんが好きそうな黒い雰囲気の写真集が目に入ったが、こちらは何とも思わず良いか悪いかもわからなかった。Kさんが好きな『瀆神』を寄こしてくれたのだから、こちらも自分が良いと思うものを渡そうと方向転換した。ただし負担になるような文章ではなく読んでも読まなくてとも良いだろうと写真集の中から探した。こうなってくると、むしろKさんの家には絶対になさそうなものを贈ろうという悪戯心も沸いてくるが、自分が良いと思えるものが、なかなか見つからない。東京の街並みの過去と現代を見開きに並べて写真集があって、これはどこかで目にしたことがあって、その続刊も出ていた。無意識に食指が動いていて手にとっていたところに、自分が良いと思う何かがあるのだろうと、この二冊に決めた。過去との対比は物語を感じるし、『瀆神』にも写真に関しての章があった。Kさんの奥さんも好きそうな気もしたので、二人で手頃に楽しんでくれれば、それだけでも願ったり。
 下の階でベンヤミンの本と他に新書など四冊をカゴに入れて、一階のレジで会計を済ませてからサービスカウンターで包装をしてもらった。店員さんが折目をつけながら、包まれていくのを見ながら、プレゼントらしくなった気がして安心した。
 帰りは電車に乗らずに歩いて帰ることにする。人の流れを避けて、雑居ビルの軒下に入って地図アプリで最短ルートを出した。前にも何度か帰ったことがあるが、大通りに沿って五十分ぐらいになるので近道を見つけられれば、次に歩くときに使えそうだという考えからだ。地図アプリは住宅地の私道なども使うので通常なら絶対に通らないようなところを抜けていくことになって、少しわくわくする。時間は二〇時を回ったところで遅い時間でもなかったが、住んでいる人しか使わないような道だった。行き止まりのように見えたが行ってみるとJR線を跨ぐ橋の前にでた。誰もいなくて、歩いているうちに迷い込んで深夜になってしまったかのような感じを覚えた。スマホの画面が点かなかった。子どもの声がして、反対から自転車に乗った男の子が二人やってきた。スマホの電源を押し直すと、地図アプリがついて、そのとき、買った本がないことにはたと気づいた。自分用に買った本はバッグにしまっていたが、プレゼントの写真集がない。すぐに思い当たったのは、雑居ビルの軒下に入って地図アプリを見たときに置いたことだった。ビニール袋で手首にぶら下げていたのが、スマホを使うときにぶらぶらと揺れて、そこはちょうど天丼の店の入口で、待つ人のための椅子が並んでいて、誰も待っていなかったので勝手に置かせてもらったのだった。そのまま地図アプリに従って歩き出してしまったのは、今でこそ愚かな失敗だと思うが、そのときは写真集を手にとったときと同じぐらい無意識的だった。
 とにかく早く戻りたいと思ったが、JR線は橋の下を通っているが近くに駅があるでもなく、歩いて戻るのであれば、いま通ってきた道を引き返すのが最短ルートに違いなかった。早足気味に、変わりかけた信号は小走りで渡り切るようにして天丼の店まで戻った。本は見当たらなかった。食事をしていないのに忘れ物を尋ねるのは気が引けたが、もし届いていたなら食べてもいいと思い、店に入って店員さんに尋ねた。
どんな忘れ物かと訊かれて説明したが、届いてないと言われた。入口の椅子のところに置いたのだと補足したが、やはりないと言われた。礼を言って出ると、店員さんは癖になっているのか、ありがとうございましたと声を投げてきた。交番などという考えは浮かんだが、現実的に思えなくて行っても無駄だろうと思った。ジュンク堂に戻って同じ本をもう一度、買おうかとも考えた。金銭はともかく、また包装をしてもらうことに気が引けた。同じ店員さんだったら、何か思われるだろうか。そんなことはいい。あのときの、折目に沿って包まれてプレゼントとなっていった、あのときの本と、新しく買った本は同じ本でいて、同じ本ではないのだ。自分がKさんに贈りたかった本は、あのときの本で同じ本であればいいということではないのだ。スマホが鳴ったが見なかった。歩道に出ると、誰かのちいさな喪失など知らない人々が、目の前を右から、左から、無表情のまま通り過ぎていく。その流れに乗るようにして駅の方へ向かう。歩き疲れたので電車で帰ろう。

(了)

緋片イルカ 2023.5.2/通常文体の意識の流れ。ビート取り入れ。

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