これまで『トイ・ストーリー4』(以下、トイ4)について、構成からの分析とキャラクターからの分析を行ってきました。
これらを合わせて作品のテーマや、構成上の欠点などを考えていきます。
以下、『トイ・ストーリー4』のネタバレ含みます
【だれの、なんの、話なのか?】
トイ4の主人公がウッディであることは言うまでもありません。では何がテーマの話なのでしょう?
トイ1では新しくやってきたバズというライバルに嫉妬しながら、協力して持ち主の子供を楽しませることが「オモチャとしての使命」であり喜びであると悟り、
トイ2では持ち主に捨てられる不安や壊れる不安を抱えながらも、博物館で永遠の命を得るよりも、持ち主といまを楽しむことを選び、
トイ3ではついに捨てられる時がきて、新しい持ち主であるボニーにもらわれることで終わりました。
ハリウッドでは三部作で映画をつくることも多く、トイ3のおわらせ方は、新しい持ち主のもとでオモチャの使命を果たしていく、テーマとしてはトイ1に還るようなおわり方でした。新シリーズとしてトイストーリーではなく、あえて「4」をつけた意味は何なのでしょう?
トイ4では、ウッディは新しい持ち主ボニーに遊ばれることもなく、それでも「オモチャとしての使命」を果たすために、ボニーのお気に入りフォーキーを励まします。そして逃亡して、捕まってしまったフォーキーをボニーのもとへ連れ帰ることが作品のストーリーです。しかし、ウッディは再会したボー・ピープとともにボニーの元へは戻らないことを選びます。
これはウッディが「オモチャとしての使命」を捨てたようにも見えますし、ボー・ピープとの恋愛(?)や持ち主を離れて生きる自由を選んだようにも見えます。
【シリーズ全体を三幕構成で見る】
有名な話ですが、「スターウォーズ」シリーズではエピソード1、2、3の三部作を一括りとみて、アクト1、2、3に相当するように作られています。つまり一作品ごとに三幕構成があるように3作品ごとに三幕構成を入れているのです。トイ1~3をその視点で見みてます。
トイ1はバズ達と協力して「オモチャとしての使命」を果たすというセットアップ、
トイ2ではそれでもオモチャはいつかは壊れるし、捨てられるという恐怖や不安を持ちながらも、それでも・・・と葛藤していくコンフリクト、
トイ3ではついに捨てられる時がくる。それでもくさらずに「オモチャとしての使命」を大切にしたウッディによって、みんな新しい持ち主ボニーの元へと貰われる。
という、綺麗な三幕構成が読みとれます。
これをトイ1~4までを一括りとみるとどうなるでしょうか?
トイ1はバズ達と協力して「オモチャとしての使命」を果たすというセットアップ、ここは変わりません。
トイ2ではそれでもオモチャはいつかは壊れるし、捨てられるという恐怖や不安を持ちながらも、それでもアンディの元にいたいという選択は「ミッドポイント」に相当します。そして捨てられる時がくる(ビートで言えば「フォール」)。
トイ3はアクト2の後半部分に相当して、ボニーの家にいくのは「プロットポイント2」。しかし、そこはウッディにとっては楽園ではなかったというトイ4の始まりにつながることになります。
トイ4がアクト3というkとになります。トイ1の頃とは違い自分が遊ばれないことに寂しさはあれ不満はありません。むしろフォーキーに「オモチャとしての使命」を教えて、連れ戻そうとする。見事に「オモチャとしての使命」を行動で示しています。
トイ4の冒頭ではボー・ピープとの別れが描かれます。大きな喪失感を抱えます。シリーズ全体としてみるとトイ3のラストにもあたるので、これはアンディとの別れにも相当します。トイ1からアンディのために「オモチャとしての使命」をもってきたウッディにとって、この喪失感は大きなものだったでしょう。同時に、アンディのオモチャとしての仕事を全うしたとも言えます。小さい頃から大切にされ、アンディはウッディだけは持って行こうとさえします。オモチャとしては完璧な仕事をしたといえます。
ウッディというキャラクターのイメージに言葉としては合わないかもしれませんが、スポーツ選手の引退や老後のようなものです。物語論的にいえば後人の指導にあたるメンター(賢人、師匠)にまで成長していると言えます。
【フォーキーという新たなる希望】
『スターウォーズ』シリーズではエピソード1~3のオビワンが、4ではメンターとして登場するように、冒険を経たウッディはメンターとなっています。それではルーク・スカイウォーカーにあたる新たな主人公は誰かといえば、トイ4ではフォーキーにあたります。
実はフォーキーは主人公たるべく素質を持っています。英雄には英雄たるべくスティグマ(聖なる傷)を持っています。赤ん坊のときに捨てられたとか、周りの人間が当り前にできることができないといった劣等要素です。トイストーリー1~3までのシリーズを通して、手作りのオモチャが出てきたのは初めてでした。これだけでも見事な設定だと思います。
その上、変化させるべきマイナス要素として「自分はゴミだという」思い込みを持っています。これは自尊心をもてない現代人への強烈なメッセージになります。
フォーキーがウッディとの冒険を経て、自分を愛して、ボニーに対して「オモチャとしての使命」を持つこと。これを達成すればウッディは安心して世代交代ができます。
そして、トイ4のラストまで見れば、その流れになっています。
役目を果たしたメンターは立ち去るようにウッディは去って行きますし、エピローグではボニーが新しく作った手作り人形をフォーキーが迎え入れます。
意義としてはフォーキーはとても重要な役柄なのです。
問題は構成の仕方です。
フォーキーはアクト2に入ってすぐに、ウッディと道を歩いて語るだけで変化を達成してしまいます。一言でいえば、もっと引っ張るべきでした。
せっかくギャビーギャビーに捕まっているのだから、彼女が少女ハーモニーに拒まれる様を見て、自分がボニーに愛されてることを感じるチャンスだってあったはずです。
ボー・ピープと行くか、ボニーのもとへ戻るか迷うウッディに対して、背中を押す役目だってできたはずです。
どう展開するかなどは作家の仕事なので、正誤はありませんが、キャラクターアークを描く主人公レベルとして扱うべき重要キャラクターだったことは確実です。
【ボー・ピープとのラブストーリーだったら?】
もう一人、重要キャラクターであるボー・ピープがいます。扱いがあいまいです。ウッディにとって「オモチャとしての使命」を全うするだけではないことを教える役としているのか、ラブインタレストとして恋人役としているのか、実際はその中間で描かれています。単純な恋愛に落とさないための工夫や、オモチャがラブすぎるシーンを演じることの回避だと思われます。
コテコテのラブとして描くことは選択肢としてなかったとして「自由」と「使命」との葛藤として描くのであれば、登場が遅すぎます。これは構成上の問題です。
フォーキーの成長ををあっさりと決着させてしまい、ボー・ピープとのプロットをメインに据えるのであれば、アクト2に入ってからの再会では遅すぎたと言えますし、後半での内的な葛藤が少ないため、ウッディの変化に繫ぎきれていません。デューク・カブーンといったキャラクターを変化させる時間をボー・ビープに使うべきでした。
あるいは、フォーキーに「カタリスト」「プロットポイント1」といった重要なビートを踏ませていることも問題です。ボー・ビープに重点を置くなら、フォーキーのキャラクターレベルをもっと下げるべきなのです。
とはいえ、ボー・ビープとのプロットはこのままでも成立はしているので、やはり問題はフォーキーの決着にあったといえます。
【ヒーローズジャーニーの先にあるもの】
トイ1~3の成長の旅を経て、メンターとなったウッディはジョーゼフ・キャンベルのモノミスでいうところの「二つの世界の導師」です。
持ち主のアンディのために生きて「オモチャとしての使命」を全うしたウッディ。人間が老いや変化に逆らえないように、オモチャも捨てられる壊れることから逃れられません。それをウッディは悟っているのかもしれません。
モノミスによれば「二つの世界の導師」は「生きる自由」を得ます。ボニーの元へいても、ボー・ビープといても、ウッディは変わらないのでしょう。エピローグではウッディは相変わらず他のオモチャ達の手助けをしています。また誰かに拾われることがあれば、持ち主のために尽くすでしょう。矛盾しているようで、どちらにも囚われないことが「生きる自由」です。
ハリウッド三幕構成はヒーローズジャーニーをベースにしていることも多いのですが、構造だけをつかっていてテーマとしては「宝」を得るところでおわっているものがほとんどの中、モノミスの「生きる自由」を扱った作品は、珍しいと思いつつ、トイストーリー「4」だからこそできるテーマなのだと思います。トイ1でウッディが自由を選んでしまったら話はそこでおわってしまいます。3作品、頑張ってきたウッディだからこそ、選んだ自由の意味はとても大きいのです。
キャラクター概論28『トイ・ストーリー4』から考えるキャラクターレベル5段階
緋片イルカ 2019/08/18
構成について初心者の方はこちら→初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」
三幕構成の本についてはこちら→三幕構成の本を紹介(基本編)
文学(テーマ)についてはこちら→文学を考える1【文学とエンタメの違い】
文章表現についてはこちら→文章添削1「短文化」
「三幕構成について語ろう」という掲示板もありますので、ご自由にご参加ください。
https://www.asahi.com/articles/ASM7B6KN6M7BPTFC00M.html
トイ・迷える中年・ストーリー(小原篤のアニマゲ丼)
「持ち主」にこだわらず自由に生きるボー。持ち主と絆を結ぶこれまでの生き方に固執するウッディ。「おもちゃ」という新しい生き方をかたくなに拒むフォーキー。ウッディのように生きたかったのにその願いがずっと満たされないギャビー・ギャビー。トラウマのため何事にも踏み出せないデューク・カブーンというバイク・スタントマンの人形も登場します。様々な「生き方」がウッディを取り囲むように配置されています。
「まさにそうなんだ! 僕たちの意図を分かってくれてうれしい。様々な違う生き方をウッディに見せるのは、すべて彼の変化を導くためだ。特にボーは、ウッディにとって鏡のような存在だね」
今回の取材で私を導いてくれたのは「ミドルエイジ・クライシス」という言葉。英語では「midlife crisis」と言うらしいですね。人生も半ばを過ぎ、オレはこのままでいいのか? 先はあるのか? なんで生きているのか? 人生の楽しみって何だ? 違う生き方があるんじゃないか? ――あぁウッディも「中年の危機」だったのか! 監督に、こうぶつけてみました。
最初に映画を見た時、ウッディが堕落したとガッカリしました。でもウッディは「中年の危機」にあり、多様な生き方を目の当たりにして、フッと道を外れてみようという気持ちになる。あえて迷子になるのも人生じゃないか。そう思うとすごく共感出来ました。
「あなたの言っていることは分かるし、その通りだと思う。『中年の危機』とおっしゃったけど、『空の巣症候群』のようでもある。ウッディは親のような気持ちで持ち主のことを見ているんだ。世話をして、守ってやらなきゃと思っている。第3作でアンディの成長を見届けたことで、疑問が湧いたんだろうね。子どもが育ったらそのあと自分はどうなるのか。クローゼットの中で残りの『人生』を過ごすのか、新しい目的を見つけるのか?」