一週間にわたって「選考作業から学んだこと」と題して、とりとめもなく書いてきましたが、今回でさいごになります。
いつもは応募する側の身の僕が、選考する側にまわって気づいたこと、学ばせてもらったことは、とても大きかったです。
①「応募者の顔」では、ほんとうに、いろんな応募者がいるんだとということ。
②「第一印象について」では、コンクールを通るということを狙うときに第一印象の大きさは思っている以上に大きいぞということ。
③「わからない作品について」では「読み込み」という作業と同時に、書き手としての責任も考えました。
④「作者の声を聴く」では、人の思想や思いには優劣はないけど、技術としての差が作品の差になるのだということ。
⑤「コロナのネタについて」では「いま」を書くことのむずかしさや覚悟などを考えました。
すべてのことは、書き手としてのじぶんへのブーメランです。
選考側に回ってみることで、よりシビアな目で、じぶんの作品とも向き合えるようになった気がしました。
物語を書いているときは、じぶんの表現したいことが優先されがちで、読み手のことを考える余裕はなかなかありません。
「みんな、オレの小説なんか読んでくれない……」と嘆いている人は、人の話に耳を傾けているのか?
耳の痛い話です。
投げたブーメンランは、じぶんで受け取るものですね。
どこかで紹介していますが、改めて井上ひさしさんの言葉を紹介しておわろうと思います。
いちばん大事なことは、自分にしか書けないことを書くことです。自分にしか書けないことをだれでもわかる文章で書く。これが出来たら、プロの中のプロ。
自分にしか書けないことを書くということは、自分に集中することです。身を縮めて自分を見つめ、自分を研究して自分がいちばん大事に思っていること、辛いと思っていること、嬉しいと思っているということを書く。(中略)みんなひとりひとり少しずつ違う。その違うところを、わかりやすい、いい文章で書けば、それを読んだ人が、みんな感激したり面白がったり、「うーん」とうなったりしてくれるわけです。それだけのことなんですね。
じぶんの物語を書く、誰かの物語を読む、これは作品を通した「対話」なのだと思います。
不安や分断の多い現代、「文学」の役割はまだ失われていない、と思ったりもするのです。
緋片イルカ 2020/06/24