他者に寄り添うこと(文学#45)

たとえば、コンビニエンスストアの店長さんが、若いアルバイトに「この新商品を品出ししておいて」と指示を出します。

数時間後、バイトくんは品出しをしていませんでした。

店長さんは怒ります。「どうしてやってないんだ?」

バイトくん「すいません。忘れてました」

店長さんは呆れて、こう思う。

「アイツ、ダメだ。使えない……」

世界中のあちこちで、これと似たシチュエーションの物語が展開されているのではないでしょうか?

あなたが店長さん側か、バイトくん側かはわかりません。どちらも経験したことがある人もいるでしょう。

相手を理解するというのはとても我慢のいることです。

すこし我慢ができる人であれば、説明の仕方を工夫するかもしれません。

店長さんが「もしかして『品出し』の意味がわからなかったのかな?」「何時までにやっておいてと言わなかったのがいけなかったのかな?」と考える。それで、次の機会には指示の仕方を具体的に変えてみます。

「一時間以内に、この商品をあそこの棚に並べておいて」

それでも、なお、バイトくんがやらなかったら、どうでしょう?

店長さんはイライラして尋ねます(それでも尋ねるという行為には、まだ店長さんには相手を理解しようという姿勢があるのかもしれません)。

「どうして、やってないの?」

「すいません。忘れてました」

店長さんは、このバイトくんを理解することはできるのでしょうか。

我慢の限界が来たとき、彼をクビにするでしょう。

店長さんに理解できなかったバイトくんは「魔物」に見えるかもしれません。

あるいは、安易な言葉で型にはめて、わかったつもりになるかもしれません。

「頭が悪い」「やる気がないやつは何をやってもダメ」「最近の若者は……」

バイトくんには、バイトくんの人生があります。

職場ではほとんど喋らなくても、別のところではペラペラとグチっているかもしれません。

「うっせぇわ」「安い給料でコキ使いやがって」「だから老害は……」

彼からしたら店長の方こそ、前時代の「魔物」で、早くしねばいいなんて思っているかもしれません。

いったい、どうしたらこの「分断」を越えられるのか?

世の中、そんなものだと切り捨てるのは簡単です。

自分には関係ないと無頓着になったり、見て見ぬ振りをすることもできます。

当事者ではないからです。

あなた自身が店長だったら、どうでしょう?

仕事に関していえば、バイトくんのような子はクビになっても自業自得で、どこかで社会の厳しさを経験して、大人にならなければいけないと思う人が多いのではないでしょうか。社会的な常識という観点からみれば、そうでしょう。

では、この関係がコンビニではなく、学校の先生と生徒の関係だったら、どうでしょう?

相手はまだ子供です。ダメなやつと切り捨ててしまうのは社会のあるべき形でしょうか?

あるいは家族だったら、どうでしょう?

「もうダメだ」と、親が子を、あるいは子が親を、殺してしまう悲しい事件も後を絶ちません。

国、民族、人種、宗教そういったところで起こる分断が、どのような結果を引き起こしているか、探してみてください。

こういった「世界の不幸」にどう立ち向かうのか。

綺麗事ならいくらでも言えます。その綺麗事が人を動かし、解決になることがあります。だから綺麗事だって必要なのです。

これは物語でいえばエンタメです。ハッピーエンドで、解決法のひとつを提示することです。

とはいえ、すべての人を掬い上げることはできません。

店長さんも、バイトくんも、個人なのです。

「店長さん」と呼ばれるのは仕事の間で、家に帰ったら「パパ」と呼ばれるかもしれません。

「バイトくん」にも夢があって、その業界では人気があってファンがいたりするかもしれません。

一人として同じ人間はなく、それぞれの人生があるのです。

だから、エンタメのような一般論的な、ひとつの答えで、すべてを解決することなどできません。

一人一人のハッピーエンドが必要なのです。

物語をきちんと描くということは、ひとりひとりの人生に寄り添って、その人の抱える問題に一緒に取り組むことです。

「店長さん」「バイトくん」といったイメージだけで解決をはかろうとすると、一般論の押しつけになってしまいます。

「あいつはダメだ」と切り捨てたり、「老害」だと対話を拒否したりするのと同じです。

「可哀想な人だから」とか「あの子は○○障害だから」といって、親切なつもりでイメージを押しつけている可能性もあります。

さきにも述べたように社会としては綺麗事も必要です。けれど、物語は綺麗事では足りないのです。

緋片イルカ 2021/04/04

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