「ヌミノーゼ」について(文学#50)

オットーのヌミノーゼ

オットーの『聖なるもの 』にある「ヌミノーゼ」について、いろいろと思うところもあって、まとめておきたい気持ちがあるのだが、なかなかむつかしい。

まず「ヌミノーゼ」が何かというと、オットー自身が、

このヌーメン的解釈と評価の範疇はまったく特殊固有なものであり、したがって、根元的な起訴事実がみなそうであるように、厳密な意味で定義することは不可能である。(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳より)

と書いているように、言葉では定義できないものである。

オットーはキリスト教者だったので、定義することを避けながらも、一般的な言葉で言う「神」について語っている。

しかし、それを「神」という言葉にしてしまったとき、本来の「神」が持っていた諸要因が失われてしまう。

名付けて、言語化するということは、意味を限定して、論理構造のなかで取り扱う作業である。裏を返せば、合理性のない現象を、厳密に言語化することはできない。

その、不合理なものを、不合理なまま扱うためにオットーはわざわざ「ヌミノーゼ」という新しい言葉を作ったのだから、その言葉を、ここで定義づけるのは愚かな作業といえる。

オットーの言う「ヌミノーゼ」をわかりたい人は、読むしかないとも言えるが、以下のような文もある。

 われわれはここで、ある強い情動体験、しかもできる限り純粋に宗教的な情動体験の要因を記憶によみがえらせてみる必要がある。
 それができない者、あるいはそのような機会をまったくもたない者は、本書をこれ以上読まないようお勧めしたい。というのは、思春期のときめく気持ちや消化不良の不快感、あるいは社会意識に由来する感情等々はともかく、特殊固有の宗教的感情を思い起こすことのできない者には、宗教研究は困難だからである。(前掲書)

これを、簡易な言葉で要約してしまうなら「体験をしたことがある人にだけわかる、神様と出会ったときのかんじってあるよね?」だろうか。

僕自身、いくつか思い起こせる体験がある。

プライベートなことなので、ここでは書かないが、自意識を超越した瞬間というのを三度、経験したことがある。

ちなみに幽霊を見たといったようなスピリチュアルな体験ではない(オットーも書いているが、そういう類いはヌミノーゼの一要因から派生して生まれてくる下位の現象という意見には同感)。

その超越体験を、僕なりに言語化することもできるが、似たようなことを経験したことがない人が理解できるとは思わない。

その感覚をベースにして、オットーの「ヌミノーゼ」を読んでいると、一致するところが多く、近いものであるとわかる。

オットーの心理学的考察に鋭い指摘には納得するところも多い反面、最終的にはキリスト教概念につなげようとする論理展開には歪みをかんじる。

僕の感覚としては、一般的な言葉でいえば「神との遭遇」よりも仏教的の「無我の境地」に近い。

とはいえ、仏教に入り込んだ人間でもないので、「無我の境地」と名付けてしまえば、それはそれで、僕自身の感覚とのズレを感じる。

結局は、オットーも言うとおり、言語化はできないものであるし、それでもしようとするなら、ヌミノーゼのように僕自身で新しいことば自体を作るしかないと思う。

とはいえ、僕の目的は、宗教的真理の追究ではなく、物語の追究なので、概念をつくりあげることにはあまり興味がない。

むしろ、このヌミノーゼ的なものが、物語にどういう意味があって、どう活用していけるかということに興味がある。

すでに物語論で使っている用語でいえば「究極のリワード」である。

物語と価値観

遠回りにはなるが、いったん自分の言葉から始めていこうと思う。

物語が、無意識的にも、意識的にも、生きている人の人生に大きく関わっているということはすでに書いた(「生きる」ことは物語を紡ぐこと(文学#44))。

そのことに気付くと、物語=人生の意義などは無価値と化してしまう。

すこしだけ説明してみる。

ある人が、苦しみながら大学受験のための勉強を頑張っているとする。

その人は「今は辛いけど、合格して、その大学を卒業することが幸せな未来につながる」と思えるからこそ頑張れるのである。幸せな未来をストーリーでいえばハッピーエンドである。

また別の人は「どうせ、何をやってもムダだ」と努力もしないとする。

この人は、過去に失敗をしたり、成功した経験がないから、今の延長でしか未来を描けていないのである。バッドエンドの人生=ストーリーを生きているといえる。

未来に対する価値観がストーリーとなり、それが行動を決めているといえる。

これは、置かれている状況には直接的には関係ない。

つらい状況で、ハッピーエンドを描くことは、ポジティブにも見えるが、空想がちなだけで自分の足元が見えていない場合もある。

幸せな状況にいても、うつ病のように、いつでもネガティブなことを考える人もいる。

そういう物語をどこかで創り上げてきた過程があるので、それまでの人生と全く関係ないとはいえないが、性格や他者との出会い(物語との出会い)で、価値観自体は変わっていけるので、置かれている状況と持っている物語は、直接的には関係ない。

僕は、ハッピーエンドがいいとも、バッドエンドが悪いとも思わない。いずれも、作り話に過ぎないと思う。

この前、あるオリンピック代表選手が「努力をすれば夢が叶うものだと思った」と言っていた。

それは、その選手自身の体験からでてくる価値観で、他人がどうこう言うものではないが「夢が叶わない人は、努力をしていない」という理屈になる危険性を孕んでいる。

多くの人は、健全な価値観で、健全な人生を歩んでいるので、その選手を応援するだろうし、頑張る選手をみて、自分も頑張ろうなんて思う。

そういう人にはエンターテイメントのストーリーが必要で、それはそれでいいと思う。

けれど、努力をしようがしまいが、うまくいく人と、いかない人がいる。

運が悪かったとでも言わざるを得ないような不幸な出来事もある。

例を挙げるまでもなく、人知を超えた出来事というのがある。そんなことは、オットーのヌミノーゼのような特殊固有の経験などなくても、ある年齢以上の人なら、わかるはずである。

成功した人は、結果論としての自分の体験を、法則化して、真理でも打ち出したような顔をする。信じる人もいる。

人間社会の範疇では、ある程度、通じる法則も、ある範疇では全く通用しない。地球上では通じるニュートンの万有引力の法則が、宇宙では通じなくなるようなものだ。

通用しない世界に遭遇したとき、人は迷ったり、焦ったり、恐れたり、感動したり、震えたり……反応は多種多様だが、それまでの価値観を崩されてしまう。

それまで信じてきた、人間社会でのハッピーエンドは信じられなくなったりする。

そういう時に求められる物語こそが文学の本質だと、僕は考えている。

何を描けばいいのか?

エンターテイメントの構造(すなわち、このサイトでも説明している三幕構成に通じる)は、ひとつの価値観を提示する。

ハッピーエンドを提示したければ、そのために法則がある。これは人間社会での法則で、この法則で物語が作ってしませば、ある程度の人は満足して、売上げもでるだろう。

AIにうまくディープラーニングさせれば、エンタメは作れてしまうだろう(日本でうまくやっている研究をまだ見たことけど)。

けれど、AIには、価値観を提示することはできない。つまり文学は書けない。

答えのないものに答えを出すのは、計算や統計学ではなく、人類の話し合いと決断だからである。

たとえば、地球温暖化問題にAIに答えを出させるのは簡単だ。二酸化炭素をゼロにすればいいし、それをできない人間を法律で取り締まればいいだけのこと。

だけどAIの出した結論に従えるかどうかのが、本当の問題である。

人間は考える動物だし、感情的でもある。

暴力に一時的に屈することはあっても、必ず反発が生まれる。

解決にはならない。

そんな中、「ヌミノーゼ」体験には、問題の本質的な解決へのヒントがある。

キリスト教的な観点から「サウロの回心」のようなものを想像してもいい。けれど、一つの価値観に帰依するということが目的ではない。

日常よりも、一歩踏み込んだ、世界や他者への理解が、自身の変化につながる。

これを物語構造に当てはめるなら「主人公の変化」となる。

これを僕は「究極のリワード」と呼び、その旅を「コズモゴニックアーク」と呼んでいる。

緋片イルカ 2021/05/21

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