コズモゴニーにおける愛について(文学#68)

コスモゴニーは最高次の形式における愛を説明しなければならない。それができなければ、コスモゴニーは虚偽である。

この命題について考えてみる。

コズモゴニーは言葉を超越しているともいえるし、言葉では捉えられないともいえる。

現実世界での二元について、たとえば「白」と「黒」について考えるとき、コズモゴニーにあるのは「グレー」ではない。

コズモゴニーにある、その色は「白」であり「黒」でもあり、同時に「白」でもなく「黒」でもない。

感覚を働かせないと、言葉遊びのように読めるが、解読するなら「白であり黒でもある」という前半部分は「人間が認識できる実体である」といった意味で、後半の「同時に白でもなく黒でもない」というのは、その色を言葉で定義することはできないという意味といえる。

「言葉で定義することはできない」というのは、言葉というものが「実体」を簡略化してしまう機能をもっているからである。

簡略化は、デジタル化してしまうとかデータの圧縮のようなイメージでもよい。

「実体」を「実体」のままとして体験しているとき、それはコズモゴニーにいるのではないかと思う。

実体の体験は、言語認識だけでなく、五感などによる認識も含まれていて、「白」や「黒」といった実体を自我の介在なく体験しなくてはならない。

「ああ、白いな」といった感覚が働いているときには、言語認識をする前段階としての、自我が働いている。その瞬間には感覚的な簡略化が起きている。

つまり、自我の介在なく体験するとは、即ち、同一化することである。

キャンベルの言葉を借りるなら「父親との一体化」が起こり、「神格化」や「究極の恵み」を体感することになる。

仏教の言葉を借りるなら「梵我一如」という言葉が、僕の中ではしっくりくる。

「愛」についての、コズモゴニーとの同一化を考える前に、まずは「白」「黒」のような愛についての二元性を考えてみる。

グレートマザーが参考になる。

「愛」がもっているひとつの側面は「絶対的な許し」や「絶対的な受容」である。包み込む海のようなイメージ。アーキタイプでいう母親的性質(ここに女性という意味合いはない)。

対立項は、臨床的な心理学でいう過保護のような、底無しの沼のようなイメージ。あるいは、そこから襲いかかる荒れ狂う海。アーキタイプでいう「魔女」や、日本的なものでいえば底無しの食欲をもった「二口女」のような。

これらの二元性は、現実世界でのもの。

コズモゴニーでの「愛」は絶対的に許されていて、絶対的な罪を背負っているが、それは愛でも罪でもないようなもの。

「愛」というものと同一化した者のみが、それを体感できる(ただし体感しているときは体感しているとすら認識していない)。

それを体感して帰ってくる者こそ、真の英雄である。ただし、その英雄は現実世界では理解されない。言葉にはできないから。

コズモゴニーにおいては白と黒のような「色」と「愛」にすら違いはないのではないか。

世界にあるものはすべてが同一化していて、その世界に自分も同一化している。

「世界=自分」であり、この点が「梵我一如」という言葉が、とてもしっくりくる理由。

コズモゴニーに同一化しているときは認識ができない。

けれど、同一化する前後では、まるで別人になっている。

これはヒーローズジャーニーがもたらす変化とも繋がる。

コズモゴニーを理屈で説明することはできない。体感したことがない者には想像すらできない。

江戸時代の画家が、本物の虎や象を見たことがないまま想像で描いたように、まるで似ていないのだけど、だけど同時にどこか似ている本質的なものもあるように、理屈では説明できないけど物語を通しては伝えることができるのではないかという、コズモゴニックアークという私論。

緋片イルカ 2022.12.12

追記:コズモゴニーにおける状態は量子もつれに似ている。潜勢力とも。黒でもあり白でもあるが観察や認知された途端、それはどちらかに決まってしまう。

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