「褒めること」について(文学#75)

ドキュメンタリー『100人の回答 世の中の疑問。答えがここに。』にも「アメかムチか」という実験があって、定説通り「批判するより褒めた方がパフォーマンスが上がる」という結果が出ていた。学校にせよスポーツにせよ社員教育にせよ褒める方がいいという価値観が正しいことのように言われているが、見過ごされている少数派もいる。心理実験のすべてにおいていえることだが、統計的な結論が真理のように語られがちだが、たとえば90%の人がそうであっても、10%はそうでない人がいる。褒めて伸びる人もいれば、褒められることに抵抗があったり気持ち悪さを覚える人がいる。学習塾で働き始めるときマニュアルビデオを見せられたが、講師の見本とされている褒め方のようなものは白々しくて笑えた。働かなくてもわかるが、そんなやり方が現場で通用するわけがない。たとえば数学の問題で10問中3問しか正解しなかった。3問できたことを褒めるのが効果的か? 今まで1問しか正解していなかった子が3問できたなら褒めるべきだろう。これは客観的に成長している事実に基づく。けれど、いつも全問正解している子が3問正解を褒められたらどうだろう? 褒め方を間違えると白々しく感じるだろう。「先生は、いつも褒めるだけ」と、講師の言うことを信用しなくなり、その後の指導に差し支える可能性もある。本人が3問しか正解しなかったことを強く気にしている場合であれば慰めの効果がある。次に進める気持ちように後押しするのも悪くない。「うまく褒める」ことができれば、いずれにせよ悪いことではない。けれど、学校教育はあくまで未成年や子供に対する教育。大人の教育としてはどうだろう? オリンピック選手になりたいという子がいたとする。小さな子どものうちであれば「頑張れば、なれる!」と誉めそやしてモチベーションにつなげていけばパフォーマンスは向上していくだろう。けれど、中高生ぐらいになれば現実が見えてくる。自分のレベルではオリンピックどころか、日本選手権にも出れないことに気がつくかもしれない。そんなとき、コーチに求めるのは褒め言葉ではなく、パフォーマンスを上げるための的確な技術指導だろう。初心者のうちは何でもやれば成長する。だから、短絡的にやる気を高めて続けさせるだけでいい。「褒めること」が成長に繋がる。けれど、どんな物事でも褒めるだけで真のトップにはなれない。視野を広げれば上には上がいる。もしも、褒めるだけで世界一になれる人がいたら次元の違う天才だと思うが、現実は天才と言われるような人も血の滲むような練習をしている。トップを目指そうとする人にはやる気があることなど大前提だし、やる気のない人はそもそもトップを目指そうとすらしないだろう。物語ではどうだろうか? 物語はスポーツや学力テストのような数字で結果が出るようなものではない。売上げや興収という目安はある。受賞というのがプロへの認定証のように思われたりもする。職業としてのプロ作家という視点では、そういったことも無視できない。だけど作家は職業だけでなく、生き方そのものともいえる。死ぬまで誰にも作品を見せなかったが、素晴らしい作品を残していた人がいたとする。その人は誰がどう見ても作家だ。
素晴らしい作品なら、死後に出版しても売れるだろう。死ぬまでにネットに作品を挙げつづけていた人がいて、ほとんど読む人がいない作品があるとする。100年後に何かの拍子にたまたまその作品をを読んだ人が生きる力をもらったとする。その人は出版社の人間で、出版して大ヒットして……ともなれば美談にもなろうが、そんなこともなく、生きる力をもらったものの、それきり日常生活に戻って、彼の作品のことすら忘れてしまったとする。誰にも読まれないままネットの海を彷徨っている。そんな作品を生涯、書きつづけてきた彼は作家と呼べるだろうか? 売れてはいない。世間に認知もされていない。何をもって作家と呼ぶかは個人の価値観によるが、僕は彼だって作家だと呼びたい。ありがちな美辞麗句では他人の気持ちを動かすことはできない。演出で誤魔化して雰囲気で詐欺的に騙しこむことはできるが、人生を変えるほどの動かし方はできない。真剣に生きている人を見ると、職業や目的が全く違う世界に生きる人でも、心を動かされる(それはドラマを書くときの本質でもある)。物語を書いて、誰か一人でも心を動かしてくれる人があればいい。それを願って書ける人間こそが作家ではないか。そんなふうに作家を考えたときに、表面的に、作品を褒めるかどうかなど心底どうでもいいことに思える。巧い作品など掃いて捨てるほどある。そんなありきたりの面白さを褒めそやしていたら短い人生は終わってしまうかもしれない。褒められようなんて思わなくていい。ただ真摯に誠実に書きたいことを書くことが大切なんだと、自戒を込めて。

緋片イルカ 2023.3.13

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