あなたがオレンジを買いに八百屋に行ったとします。
「オレンジをください」
ところが、店主がリンゴを取って寄こします。聞き間違えたのでしょうか?
「リンゴではなく、オレンジをください」
「だから、オレンジをとっているだろう」と、店主が苛立つ。
会話が通じないことに驚き、もしかしたら嫌がらせをしているのかもしれないと、あなたも苛立つ。
次に出る言葉は罵り文句になるかもしれません。
どうして店主はリンゴをとったのでしょうか?
「俺の店ではこの赤い果物(リンゴ)をオレンジと呼んでいるんだ」
リンゴやオレンジといった一般名詞は、社会的に常識なので、この店主が本気で言っているとは思えない。だから「嫌がらせをしているのか?」と感じます。
けれど、本当の本当にこの店主の主観の中では赤い果物=オレンジと認識されていたのであれば、どうでしょう?
店主の気持ちになったとき「オレンジと言われて、オレンジをとっているのに文句を言われる」と感じる。だから苛立つ。「オレンジをとってるだろう」と。
一般名詞ではなくて、抽象的なものだったらどうでしょう?
「愛をください」と、親や結婚相手や恋人に伝えたとします。
相手が与えてくれるものが、あなたの求める「愛」とは違ったら?
逆もまたしかり。あなたの与える「愛情」は、相手にとっては迷惑なだけという可能性もあります。
同じようなことは「正義」とか「幸福」といったことでも起きるでしょう。
あなたが店主の表面的な言葉に囚われず「この人は赤い果物をオレンジと呼ぶ」ことを理解したとします。
2つの選択肢があります。
1つは「あなたの認識は社会常識として間違っている」と相手を説得します。
相手が受け入れれば「知らなかったよ。教えてくれてありがとう」と変わってくれるかもしれません。
けれど「誰に何を言われようとも、俺にとってのオレンジはこの赤い果物のことだ」と頑なだったら、また争いが起こります。
自分が「正しい」とか「博識」だとか思っている人は、自分の考えを相手に押しつけがちです。
そもそも、あなたの目的は何だったのでしょうか?
オレンジを手に入れることです。
店主が「赤い果物をオレンジと呼ぶ」のであれば、別の言い方をすれば良いのです。
「そこにあるオレンジ色の果物をください」というと、店主は混乱するかもしれませんが「その果物を下さい」と言えば、オレンジは手に入ります。
「それじゃ、わからない」と言われることもあるかもしれません。
ハンドジェスチャーが国によって違うように、自分の常識が通じないのは言葉だけではありません。
「相手を理解する」とか「多様性」だとか、そういったことを大切だと思う人もいれば、「くそくらえ」だと思う人もいるでしょう。
「世界中が平和になればいい」なら多くの人が思うでしょう。
「世界中」という言葉には、自分や自分の家族も含まれるので、そこまで大きく括れば多くの人は、まあ反対しません。
けれど「平和」には、またそれぞれの価値観があるでしょう。
他所で戦争が起こっていても自分の生活が「平和」だと思っている人もいれば、そうではないと危機感を持つ人もいます。
「平和」という言葉を巧みに利用して、お金儲けしている人もいます。
八百屋の店主のように、人によって「平和」の認識は違うのです。
人間や世界が、そんな風に成り立っているという「視点」を持つことは、良い物語を書くために必要な能力です。
ある本に「作家はレフェリーのようなものだ」という喩えがありました。
よくわかります。
主人公の視点に偏ったストーリーはプロパガンダです。
敵対するキャラクターをチープな悪者に仕立て、作者自身の価値観を、読者に押しつけているだけになりかねません。
そういう一方的なストーリーには嫌悪感を示す人もいれば、信者がつくこともあります。
極めて公平なレフェリーとして書いたとしても、ストーリーの結論だとか主人公の選び方に作者の「視点」が滲みでてしまうでしょう。
それは作家が書く上では避けられないことかもしれません。
だとしたら、作家は自分の言葉に責任を負う必要があるのかもしれません。
間違えることは誰でもあります。
あなたが赤い果物をオレンジだと思うのなら、そう書けばいい。
反論を受けるでしょう。
どんなことを言っても、誰かしらは反論してきます。
身近で話しているだけなら出会わなくても、広いところで発言すれば、そういう人に出会う可能性がたくさんあります。
承認欲求で物語を書いている作家は、自分のストーリーを賛美するファンが増えることを望みます。
やり方が違うだけで、宗教のグルと変わりません。
あなたは世界をどうしたいのか?
その「視点」を持つことは、作家のコアとして、一番大切なのではないかと僕は感じます。
(深夜の思い付きに書く)
緋片イルカ 2024.1.19