ビート説明01「ビートを使った物語の構築」(三幕構成15)

以下は、過去に映画の勉強会に参加していた方達にビートを説明した際に用いた資料です。HDDから発見したので公開しておきます。映画を初見でプロットポイント1、2、ミッドポイントがつかめるぐらいに三幕構成を理解している方に向けています。初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。

例文1「ある男が死んだ」
これはニュースでしかない。物語にするには変化が必要である。
変化には2つのビートが必要。「変化前」と「変化後」である。

例文2「不老不死の男が、死んだ」変化前:不老不死、変化後:死んだ
変化前と変化後というのは、セットアップのアクト1と、ペイオフとしてのアクト3に相当する。セットアップとペイオフが効果的な対比になっていない場合は面白味がない。
例文3「ガンの男が、死んだ」(悪い例)
あたり前すぎて、別のサブプロットやテーマで盛り上げないとつまらなそう。

次に、死んだ理由が必要になる。
例文4「不老不死の男が、悲しみで、死んだ」
変化の原因はアクト2となる。主人公は非日常の最奥部であるMPまで行く体験を通して変化する。このMPの盛り上げが足りない場合は説得力にかける。
例文5「不老不死の男が、くしゃみをして、死んだ」
死ぬ理由がくしゃみとというのはユニークかもしれないが。数分の小話ならともかく、2時間映画でそれでは観客が認めないだろう。
例文6「不老不死の男が、人生初めてのくしゃみをして、死んだ」
これなら、何かありえそうな感じはする。MPまでを盛り上げられるかどうか次第。

例文7「不老不死の男が、絶望して、死んだ」
例文4の、悲しみを絶望と変えると、MPのアークの高さが上がった感じがする。MPの高さは尺やジャンル、テーマ次第なので、一概に高ければいいとは言えない。

上記の「変化前」「原因」「変化後」がそれぞれ三幕法のアクト1、2、3に相当する。これは物語の最小単位であり、小説や連続ドラマなど時間の制限がなければ、物語は永遠に連鎖していくし、解釈をつけようとさえ思えば、どんなものでも三幕に当てはめることができるのはそのためでもある。

映画では尺があるために三幕をバランス良く描く必要がある。
下手にバランスを崩すと、ストーリー自体が変わってしまう。
例文8「ある男が修行の旅に出て仙人と出会い修行をした末に認められて神の水を飲んで不老不死となるが、絶望して、死んだ」(アクト1を長くした例)
これは、アクト1が長すぎるせいで、本来アクト2にしたいはずの「絶望する」がPP2に押し出されていて、アクト2が「修行して不老不死になること」になってしまっている。正しくは「ある男が、修行をして不老不死となるが、世界にむなしさを覚えて絶望して、死んだ」となるべきである。

例文9「不老不死の男が、絶望するが、病院を転々として薬を飲んだり手術を繰り返して何とか生きようとするが死んだ」(アクト3が長くなった例)
これはアクト3が長いため、例文8同様にアクト2が変わってしまっている。「絶望する」がPP1に前倒しされて、アクト2は「生きようと生にしがみつく様」を描くことになる。

ライターの思い入れがどうであろうとアクトのバランスが崩れると、観客の印象が変わる。どちらもジャンルも別物に見える。

アクト2として「絶望する」ためには、PP1、MP、PP2に分解していく。
例文10「不老不死の男が、ある女性と出会い、恋に落ちるが、彼女を失い、死んだ」
ある女性と出会う:PP1
恋のMAX:MP
彼女を失う:PP2
3つのビートで「絶望する」を考える。この時点でラブストーリーであることも決定している。不老不死や、死ぬという設定部分をとって、3ビートだけとって抽象化すれば、「運命の人と出会い、幸せになるが、失う」というラブプロットの一つの骨格が見える(※基本的にラブプロットは映画では、失った後にアクト3で再び運命の人を取り戻してハッピーエンドになるのだが)。

ちなみに時間に制限がない小説などであれば、例文8~10を合わせて、
例文11「ある男が修行の旅に出て仙人と出会い修行をした末に認められて神の水を飲んで不老不死となるが、ある女性と出会い、恋に落ちて幸せの絶頂を迎えるが、彼女を失い、生きる希望を失い、それでも生きようとして病院を転々として薬を飲んだり手術を繰り返して何とか生きようとする」
といった長編も描いてける。新しい女性が表れれば、第二話やパート2が作れる。

PP1、MP、PP2の3ポイントまではシドフィールドにあるような基本中の基本。
この先はブレイクスナイダーのビートシートのように、それぞれの間を埋めていく。ただしSAVE THE CATのビートには隙間があったり、長いシークエンスを一つのビートで捉えていたり、書く上では使いづらいところもあるので、以下はイルカのビートで説明。また物語作りのための解説を目的とするためSAVE THE CATとの定義の違いや、解釈の違いなどは説明せず、物語を作る目的で話していく。

アクト1のビート一覧
・オープニングイメージ
・ジャンルセットアップ
・CC
・カタリスト
・ディベート
・デス
・PP1

例文12「不老不死の男が、生きることに価値を失い、唯一の死ぬ方法であるというイトスギでの首つりをしようとするが、ある女性に一目惚れをして、悶々としたり何とか近付こうとしてあれこれトライするが、彼女の飼い猫を車でひき殺してしまい、不老不死の薬で生き返らせて、彼女と親しくなり……(以後、アクト2へ)」

「オープニングイメージ」はエンドイメージと対になるものなので、後で考えるため今は入れていない。実際、ない映画も多いし、ビートとして機能していない映画も多くて、必ずしも必須のビートではない。

「不老不死の男である=ジャンルセットアップ」ファンタジー設定であることは最初に伝えなくてはいけない。シーンとしては不老不死であることを映像として見せる。セリフだけではウソや妄想なのか観客が判断つかない。その効果をあえて狙うなら良し。コメディやSFなどは、何よりも先にその世界観で始めることを示さないと、観客が勘違いしてしまう。リアルなドラマであれば、必要はない。

「生きることの価値を失い=CC」CCはキャラクターコアの略。キャラクターの中核となる感情。定義は難しい。プレミスやゴールと重なる部分もある。最低限、ビートとして機能させるためには、何をしようとしている人間であるかを、初登場シーンで伝えなければならない。一番簡単な方法は「○○したい」というセリフを言わせること。とはいえ、HSのプレミスやゴールとは厳密には違う(ビートの目的が違う)。例えば、「主人公がただ雑踏を歩いている」映像だけでは観客は何もわからない。有名キャストなら顔でわかるしショットの工夫で、その人物が主人公だとわからせる方法もあるが、脚本上の人物としては弱い。脚本ではト書きで人物名が描かれているので、ちゃんと伝わってる錯覚に陥るライターもいるが、そのキャラのことが分からなければストーリー上は魅力を感じない。
例えば、人物が雑踏を歩いている映像から、道行く人に「すみません、この辺りにイトスギはありませんか?」と聞けば、この人物は「イトスギを探している」ということがわかる。すると、この会話の後ならば、「ただ雑踏を歩いているシーン」でも、イトスギを探して歩いているのだとわかるので、観客は「この人物がイトスギは見つけられるかどうか?」と考えながら見る。あるいは「ところで、何故イトスギを探してるんだろう?」と考えたりもする。その時点で、観客はこの人物にフックされている。これが人物に感情移入させていく一歩目である。この後、それが自殺するためであることなどがわかると、「何故、死にたいのだろう?何があったのだろう?何故イトスギなのだろう?」などなど、この人物を理解しようと思っていけば成功である。(観客を感情移入させるために、猫を助けて善人に見せる必要はない)。

また、CCをメインキャラとサブキャラ、モブを分けるテクニックとしても使うことができる。ある程度、観客に認知させておきたいキャラにはシーンの中でCCをつける必要があるし、ストーリーにほとんど関係ないキャラの魅力を引き出す時にCCを使うと、それまでサブに見えたキャラが重要キャラとして浮かび上がってくるのでビートとしても使える。反対に、エキストラのようなモブキャラにCCをつけるようなセリフを言わせてしまうと無駄に立ってしまうブレてしまう。この辺りは構成というより執筆上のテクニックであるし、キャラクター論に入っていくので、今はビートとしてのCCに限ると、最重要なのは「主人公の初登場シーンで、観客に主人公と分からせ、フックさせる」ことである。これをやらないと、人物が映っていてもただの映像で、物語が何も始まらない。

「ある女性に一目惚れをする=カタリスト」きっかけ。ここから物語が動き出す。例文10で「女性に出会う」をPP1にすると書いたが、ビートに分解した時に、必要があればカタリストに前倒しする。3ポイントだけで物語を捉える人の書いたものは出会いが遅れてなかなか物語が動き出さないことが多い。カタリストは初見の観客にとってはPP1よりも重要で、5~10分以内には起こさなくてはいけない。感覚としては「ジャンルセット」「CC」の後には、すぐにカタリストを持ってきても良い。2つのビートをしっかり入れた後であれば、早ければ早い方がよい。確か宮崎駿が映画は最初の5分だか、10分で決まると言ってたらしいが、それはここまでの3つのビートによる。

「悶々としたり、彼女に何とか近付こうとしてあれこれトライする=ディベート」ディべートはカンフリクトシーンなので、面白いのであれば、いくつあっても良い。そのせいでPP1が多少、遅れてもかまわない。映画によってはディベート自体がアクト2のシーンのように見えて、PP1の遅れなんか気にならないものもある。(そもそも観客はPP1なんて意識して判断してないので)。そういうディベートが面白い映画は、カタリストがPP1のように見える。例文12でも、アクト2の非日常を「女性との出会い」と捉えようとすると、「出会った」カタリストがPP1のようにも見えるし、「女性との関わり」を非日常と捉えるなら、「会話して関係が始まったところ」がPP1に見える。いずれも解釈論でしかないので創作で拘る必要なし。ただし、ディベート=葛藤自体がないものは、CCとのバランスが悪くなる。例えば、この「生きることに価値を失った男」が、女性を見ただけで悶々とせずに女性にアタックし出すと、CCであるはずの生きることに価値を失ったことがウソだったように見ええてしまう。ここに心理学的な意味を込めるなら、主人公とは人生で解決できない問題に直面している必要があると言える(これもキャラクター論になるので詳細省略)。イメージで言えば、PP1という非日常の扉は簡単に開けることはできず、何度も何度もタックルした上でようやく開く、そのタックルの繰り返しがこのディベートである。ともかくビートとしては必須である。

「飼い猫を車でひき殺してしまい=デス」物語論から来ているビートなので映画に必須ではなく、このビートがない映画もけっこうある。物語論では非日常の世界とは、黄泉の国のように異世界であるため、その世界に入るには、死ぬ必要がある。心理学的には通過儀礼としての意味合いもある。その意味では抽象的な「行き詰まり」のような感じもある。例えば「太りすぎてこのままでは死ぬと宣告(カタリスト)された男が、不安になりながらも運動もせず好き放題食べている(ディベート)」が、「近所の人が太りすぎて死んだことで、運動を決心する(以降アクト2に入る)」といったように死そのものとしてのビートもあるし、「ついに体重計が壊れてしまったことでさすがにヤバイと思い運動を決心する」といった場合もあるし、「愛する娘にもうパパとは呼ばないと嫌われる」といったことの場合もある。「体重計の死」「娘からの死刑宣告」といったように捉えればデスと言えるが、その辺りは解釈論に過ぎないので拘らない。要は「ディベートの行き着いた先で、アクト2へ進む勢いをつける感じ」である。

「彼女と親しくなり=PP1」映画全体を三幕として捉える上ではPP1を見極めるのは重要であるが、面白さやストーリーを作る上ではPP1は通過点でしかない。物語論では「門」として捉えられるが、面白いストーリーには「門」を開けるまでの過程の方が重要である。それはPP1より前のビート、CC、カタリスト、ディベート、デスをきちんと描いて、観客を主人公に感情移入させておくことである。この例文12の「生きることに価値を失った男」が悩む様に共感したり、この女性と関係が始まったら何が起こるのか?男は変わるのだろうか?と興味を持ってもらったりした上で、アクト2に入ることである。観客が感情移入してない状態で、アクト2の恋愛が始まる悲惨さは言うまでもない。また分析をする時のPP1は書く時には役に立たないこともある。分析のPP1と書く時のPP1は別物である。、関係が始まるシーンでは、女が「猫を助けてもらったお礼にお茶を勧められる」とか、それを「男が受ける」といった会話が自然とあるはずで、分析ではこういったところをPP1と定義するが、書く上ではこれらは解釈でしかなくて、この関係が始まる前提としてはカタリストの「一目惚れ」していることや、この女性と親しくなるために努力してきたディベートが大事なのである。これらのビートを抜いてみればその意義がわかる。
例文13「不老不死の男が、生きることに価値を失い、唯一の死ぬ方法であるというイトスギでの首つりをしようとするが、たまたま出会った彼女と親しくなり……(以後、アクト2へ)」

アクト2ビート一覧
・バトル(F&G)
・ルール
・ピンチ1
・MP
・リワード
・フォール(迫り来る悪い奴ら)
・ピンチ2
・ディフィート
・オールイズロスト(PP2)
・ダークナイト(オブザソウル)
・TP2

例文14「アクト1:不老不死の男が、生きることに価値を失い、唯一の死ぬ方法であるというイトスギでの首つりをしようとするが、ある女性に一目惚れをして、悶々としたり何とか近付こうとしてあれこれトライするが、彼女の飼い猫を車でひき殺してしまい、不老不死の薬で生き返らせて、彼女と親しくなり彼女との関係が始まる。アクト2:彼女とデートをして喜びを感じる男だったが、やがて彼女には病気の母がいることを知る。母にも薬を飲ませようとする男だったが彼女に「絶対にそんなことをするな」と拒絶される。もう関係は終わったかと落ち込む男だったが、彼女から招待状が届き、母の誕生日パーティーに呼ばれる。母から、彼女の子供の時の話などを聞いたり、「命は尽きるから、花が美しいと思えたり喜びも感じられるのだ」などと言われる。そして、実は彼女も同じ病気であると告げられる。彼女が母に薬を飲ませることを頑なに拒んだのは、病気のまま生き続けたくないという理由からだった。やがて母が死に、彼女にはなんとしても薬を飲ませようとするが、頑なに拒まれ、最後の薬の瓶も割れて花壇にこぼれてしまう。そして、もう男とは会わないと言われる。部屋で悶々とする男。が、決断して彼女の家へ行く(以降、アクト3へ)

「彼女とデートをして喜びを感じる=バトル(F&G)」バトルはアクト2でのカンフリクト、葛藤。とはいえ、MPという頂上を登るためには勝つことが多く、テンポが良かったり、見ていて楽しい感じに描く必要がある。演出的な非日常感も欲しいところ。Fan and Gameというハリウッド用語が印象をつかみやすい。バトルは一回だけでなく、MPに向けて何回かある場合もある。スポーツでトーナメントを勝ち上がっていき,MPで一度チャンピオンになる(False Victoryではあるが)ような感覚である。主人公のMPを目指すゴールがはっきりしてると見やすい。

「やがて彼女には病気の母がいることを知る=ピンチ1」サブプロット。通常、1回目のバトルの後に来るが必ずその順番である必要はない。サブプロットではサブキャラが出てくるか、メインプロットのテーマを掘り下げるようなエピソードが多い。ピンチ1はサブプロットのセットアップ、MP後のピンチ2がペイオフという感じで、対になっていることもあれば、単純にピンチ1、ピンチ2でそれぞれ新キャラが出てきたりすることもある。アクト2に入ってからメインキャラが登場することはあり得ない(アクト1でセットアップしておくべき)ので、タイミングとしてはサブプロットと絡めて登場させることになる。サブプロット自体、多種多様で、アクション映画の中のラブプロットなど、とってつけたようなものもあるし、サブプロット自体が全くない映画もある。

「絶対に母に薬を飲ませるなと拒絶される=ルール」アクト2は非日常の世界なので、アクト1で通用していたことが禁止される場合がある。ある業界に入ればそこでのルールがあるし、魔法には「ただし……」といったルールはつきもの。非日常の世界観がはっきり描かれてあれば、意識しなくても日常との差は出るが、こういったルールを入れると非日常感を鮮明に出すことができる。物語論でいえばイザナキの「後ろを振り返っていけない」といったもの。ジャンルやストーリータイプによってはアクト2に入って変身(衣装が替わる、名前が変わる、身体的な変化=性別変化、身体入れ替え)が起きる。

「招待状が届き、母の誕生日パーティーに呼ばれる=MP」MPではMP感=非日常の最奥部感を演出するイベントを起こすとMPっぽくなる。またピンチで出てきたサブプロットのキャラがMPで絡むのも必須ではないがよくあるパターン。

「彼女の母から『命は尽きるから、美しいと思えたり喜びも感じられるのだ』と言われる=リワード」報酬。MP=最奥部まで行き着いた末に得る「宝物」。スポーツで勝ちあがっていく比喩で言えば、勝利の末に得るトロフィーやチャンピオンベルトのようなもの。そのままプロップで表現される場合もあるが、基本的には「主人公が学んだこと」や、心理的な経験である。例えばバディプロットであれば、MPでそれまで仲が悪かったバディが心の交流を交わし「友情」という宝を得るし、ラブストーリーであれば恋人とキスやベッドタイム。PP1から目指してきたゴールがいったん達成される。物語論で言えば、これを得て、日常への帰還が始まる。宝を得ずに戻ってきたヒーローは心理学的に言えば成長していないことになる。短編や30分ものだったら、ここで終わってもよい。これを得ることで変化は達成されたとも言えるからである(大雑把に用語を使う時は、リワードを含めてMPと呼んでしまう)。

「実は彼女も同じ病気であると告げられる=フォール」落下。Save the catでは迫り来る悪い奴らと書かれているビート。たしかにミステリーやアクションでは強敵が登場したりする。ドラマでは危機や落下の始まりと捉える。あるいはPP1.5と捉えても良いようなものもある。MPで変化を達成した主人公が、次の試練が与えられる感じ。このビートが明確でない映画は、MP以降、だらだらとしている。当然、PP1以降、落下するようなアークを
描く物語では、ここから再生や上昇、逆襲が始まる。

「やがて母が死ぬ=ピンチ2」ピンチ1のペイオフ。次のディフィートと一緒に起きる場合もあるし、トリックスター的なキャラが裏切るといったように、サブプロット自体がディフィートのきっかけになってる場合もある。作品によりけり。

「彼女にはなんとしても薬を飲ませようとするが、頑なに拒まれる=ディフィート」敗北。迫り来る悪い奴らの受けのシーンで主人公が打ち負かされる。アクト2の前半が勝ち上がっていったのに対して、ここでは敗北し今まで得たものを失っていく。勝利が崩れる。このことでMPの勝利がfalse victoryであったことが証明される。バトルは何回も重ねて勝ち上がっていってもよいが、ディフィートは一発で負ける方がテンポが良い。フォールが曖昧だとディフィートも曖昧な映画も多い。

「最後の薬の瓶も割れて花壇にこぼれてしまう。そして、もう男とは会わないと言われる=オールイズロスト」ディフィートの流れですべてを失う。PP2として捉えるなら「もう会わないと言われる」。非日常が終わる感じ。

「部屋で悶々とする男=ダークナイト(オブザソウル)」アクト1のディベートと似ている。葛藤や悩みの時間。日常に戻り、少し悩む。キャラクターの性格や演出によって悩む時間は差がある。もしかしたらパターン化しているだけでなくても良いビートなのかもしれない。

「決断して彼女の家へ行く=TP2」ターニングポイント2。ハリウッドでも人によってプロットポイントと呼んだり、ターニングポイントと呼んだりする。イルカの定義は、プロットポイントは、構成上で全体を三幕に分ける時に目安になる点、ターニングポイントは主人公が次のアクトに乗り込む点という感じ。PP1とTP1がはっきり違う映画は見たことないが、PP2はオールイズロストでとる場合とTP2でとる場合があるので区別が必要。アクト2の冒険を経て、リワードを得てきた主人公は成長しているはずなので、アクト3に入るためのきっかけはない場合が多いので、いきなり決断してしまってもかまわないが、誰かのアドバイスや、あるニュース(ここでは「彼女が入院したと聞く」とか「不老不死の薬がもう一本あった」とか)をきっかけに決断を促される場合もある。こういう場合は、これらがPP2のように見える。ディフィート→オールイズロスト→ダークナイト→TP2の流れはほとんどパターンのようになっていて、ほぼすべての映画であるが、物語論的な意味はあまりないかもしれない。落ち込む必要がないようなキャラまでお決まりパターンで落ち込んでたりする映画もある。また、MP以降にアクト3のビックバトルが起きて、さらに大きなビッグバトルがアクト3である構成もある。研究中。

アクト3ビート一覧
・ビッグバトル開始
・ツイスト
・ビッグフィニッシュ
・エピローグ(エンドイメージ)

例文15「アクト1:不老不死の男が、生きることに価値を失い、唯一の死ぬ方法であるというイトスギでの首つりをしようとするが、ある女性に一目惚れをして、悶々としたり何とか近付こうとしてあれこれトライするが、彼女の飼い猫を車でひき殺してしまい、不老不死の薬で生き返らせて、彼女と親しくなり彼女との関係が始まる。アクト2:彼女とデートをして喜びを感じる男だったが、やがて彼女には病気の母がいることを知る。母にも薬を飲ませようとする男だったが彼女に「絶対にそんなことをするな」と拒絶される。もう関係は終わったかと落ち込む男だったが、彼女から招待状が届き、母の誕生日パーティーに呼ばれる。母から、彼女の子供の時の話などを聞いたり、「命は尽きるから、花が美しいと思えたり喜びも感じられるのだ」などと言われる。そして、実は彼女も同じ病気であると告げられる。彼女が母に薬を飲ませることを頑なに拒んだのは、病気のまま生き続けたくないという理由からだった。やがて母が死に、彼女にはなんとしても薬を飲ませようとするが、頑なに拒まれ、最後の薬の瓶も割れて花壇にこぼれてしまう。そして、もう男とは会わないと言われる。部屋で悶々とする男。が、決断して彼女の家へ行く。アクト3:彼女の元へ行くと、彼女はいない。病状が悪化して入院しているのである。彼女との最後の時間を過ごし、彼女は死んでいく。再び生きる価値を失った男は、イトスギの木の元へ行き首を吊る。しかし不老不死の男は死ねない。唯一の死ねる方法というのはデマだったのだ。絶望した男の前には季節外れの花が咲き続けている。それは不老不死の薬がこぼれた花壇の花である。男は生きることを決意する。不老不死になった猫とともに

「病院で彼女との最後の時間を過ごす=ビッグバトル」アクト3はそのままビッグバトルであるとも言える。アクト2のバトルと関連していて、よりビッグであるべきである。アクト2がアクションであれば、より派手なアクションであるべきだが、ここにきて、彼女をおいて、不老不死の薬を求める旅に出たりしてはいけない。アクト2で「彼女との関係」を描いたなら、そのビッグなバトルであるべきである。ただ派手にすればよい訳ではない。場所を変えたりイベントを起こすのはMPの時と同様、ビッグバトル感を出すコツ。結婚式場へ恋人を奪いに行くとか、サスペンスだと祝賀会の会場で犯人を追い詰めるとか、スーパーヒーロープロットであれば今までで一番派手で強い敵との戦いとかとか。とにかくブレずに派手に。ピークエンドの法則というのがあるが、観客はピークとして一番盛り上がった瞬間と、エンドがよければ満足するというもので、構成で言えばMPとビッグバトルと言えるかもしれない。

「再び生きる価値を失った男は、イトスギの木の元へ行き首を吊る。しかし不老不死の男は死ねない=ツイスト」ビッグバトルは30分ぐらいあるので簡単に勝利はしないので、一度負けたように見えるツイストが入る。いくら派手でも、30分間ずっと銃撃戦をしていたら観客は飽きてしまうので、何らかの変化が必要。ツイストは多くてもかまわないが、テンポと内容次第。アクト3までくると、こうあるべきというパターンはないが、変化は必要。

「男は生きることを決意する=ビッグフィニッシュ」物語のラストであり、ビッグバトルの終わりでもある。この後に来ていいシーンは、簡単なまとめのエピローグだけである。重要な物語が終わっているのにだらだらと後日談などを語ってないか見分けるためのビート。

「季節外れの花=エンドイメージ」花をラストショットにするのであれば、逆算して、その花をオープニングイメージでも見せる。映像的なものなので、脚本よりも監督や編集次第の部分もあるが、ストーリー上に意味のあるものをイメージアイテムとして利用するのは脚本の仕事。

以上、ビートを使った物語の構築でした。

最後に注意点として、ビートを入れる前の例文10を再掲すると、
例文10「不老不死の男が、ある女性と出会い、恋に落ちるが、彼女を失い、死んだ」
当初、PP1においていた「ある女性と出会い」はカタリストにずれたし、PP2においていた「彼女を失い」はアクト3のツイストまで引っ張った。PP2の時点で彼女が死んでしまうとアクト3でヒロインが登場しなくなってしまうので、映画としてありえないことになってしまう。これは、物語論的な非日常への入口・出口と映画のPP1・PP2は別物だという例の一つ。ジョーゼフキャンベルの神話論やプロップの物語論なんかの要素と、映画のビートは似て非なるもので、物語論の定義通りには当てはまらない例も多いです。そもそもサブプロットなんて考え方も物語論にはないし。ビートで分析してみると、そのズレがよく分かります。

以上

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