三幕構成 中級編(まえおき)
三幕構成の中級編と称して、より深い物語論を解説しています。
中級編の記事ではビートを含む用語の定義や、構成の基本、キャラクターに対する基本を理解していることを前提としています。しかし、応用にいたっては基本の定義とは変わることもあります。基本はあくまで「初心者が基本を掴むための説明」であって、応用では例外や、より深い概念を扱うので、初級での言葉の意味とは矛盾することもでてきます。
武道などで「守」「破」「離」という考え方があります。初心者は基本のルールを「守る」こと。基本を体得した中級者はときにルールを「破って」よい。上級者は免許皆伝してルールを「離れて」独自の流派をつくっていく。中級編は三幕構成の「破」にあたります。
以上を、ふまえた上で記事をお読み下さい。
超初心者の方は、初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」から、ある程度の知識がある方は三幕構成の作り方シリーズか、ログラインを考えるシリーズからお読みください。
物語の神秘性
この世界のはじまりはどうなっていたのでしょうか?
誰でも一度は疑問に思ったことがあると思います。
科学ではビッグバン理論が一つの定説になっています。
宇宙は膨張している。それは観測できる事実です。その膨張を逆算していくと、膨大なエネルギーの爆発にいきつく、というわけです。
では、その爆発が起こる前には何があったのでしょう? 誰にも答えられません。
ビッグバンなどなかったという人もいるでしょうし、科学教育を受けていなければ宇宙は卵から生まれたといった神話を信じてもおかしくありません。
「自分が生まれる前」なら遡れます。親から生まれたのだから、年輩の人に聞けばいいのです。
聞いた内容が、本当かどうかはともかく、自分が人間として誕生した事実は、第三者によって確認されています。
誕生とおなじく、やがて「死」が訪れることも必定です。言うまでもありません。
「虚無」ということばがあります。広辞苑を引用すると、
きょむ【虚無】
何も存せず、むなしいこと。空虚。「―感」。特に、価値のある本質的なものがないこと。または、万物の根元としての無。
己の死を考えると虚無をかんじることがあります。
どうせいつか死ぬんだから、生きてるうちに何をしても意味がないじゃないか、と。
虚無主義(ニヒリズム)は一つの思想です。
あるいは虚しさから逃れるため「死後の世界」も想像されました。物語の創造です。
天国や地獄といった世界観は、宗教に限らず、現代のファンタジーにすら生きつづけています。死後の世界を知ることはできないからです。
死んだ者が生まれ変わるという世界観は輪回転生です。生と死という両端を輪っかにして結びつけてしまうと、この発想になります。
地球に住む我々は、自転により一日の始まりと終わりという朝と夜をくり返し、公転により一年の始まりと終わりという季節のくり返しを体感しているので、くり返すというモデルは馴染みやすいのでしょう。
神話や民話といった太古の物語には、この世界に対する捉え方が提示されています。
無から有へ、一から多数へ
世界各地の神話や民話を比較して、そこに共通する要素で並べたものがジョーゼフ・キャンベルのモノミスです。(参考記事:ジョーゼフ・キャンベルの「宇宙創成の円環」)
世界のはじまりを1とするなら、はじまる前は0といえます。
これはどんな創成神話にもあてはまるモデルです。ビッグバンが1であれば、その前の世界は0です。
とにかく、このようにして捉えることが地球という小さい星(宇宙から見たらめちゃくちゃ小さい)に住む人間の理解の限界なのでしょう。
0と1は、無と有に置き換えられます。電気信号の有無でデジタル世界はできています。
一度、1になったものが2や3になるのは同じです。
『古事記』の天地創成について記事を書きましたので、キャンベルのモデルを『古事記』を通して見てみましょう。なお、神さまの名前はその記事で解説しているので、ここでは説明なしに書かせてもらいます。
まず、一行目から天之御中主神(アマノ・ミナカ・ヌシの神)が現れます。どこからとか、どのようにといった説明はありません。ただ生まれるのです。
こういった、自ら生まれる神は創成神話の特徴のひとつで、キャンベルは「創造されず創造する者」=the Uncreated Creatingと呼んでいます。とにかく無から有が生まれるのです。
次に高御産巣日神(タカミ・ムスヒの神)、次に神産巣日神(カミ・ムスヒの神)が生まれて、身を隠します。身を隠すは「お隠れになる」と同等と捉えれば、死んだといえます。
四人目の宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシ・アシカビ・ヒコヂの神)、五人目の天之常立神(アメのトコタチの神)も身を隠したとあります。
六人目の国之常立神(クニのトコタチの神)、豊雲野神(トヨ・クモ・ノ神)にもやはり身を隠したとあります。
生と死がくりかえされるのです。
以上の神は自ら生まれますが、次からはカップルの神さまが生まれてきます。
ここに創成神話のもう一つの特徴「一から多へ」という特徴が現れ始めます。
0から1が生まれると、無と有という二項になります。二項は対立項になります。
陰と陽、天と地、昼と夜、男と女といった対立項のモデルになるのです。
『古事記』では「高天原」と「葦原中国」という空間の二項が生まれています(『古事記』では政治がからんでいるので正統な氏姓とそうでない氏姓という差にもつながります)。
二つになったものは、細胞分裂のように増えつづけます。宇宙の膨張にも似ています。
「神世七代(カミヨナナヨ)」のさいごにはイザナキとイザナミが登場します。ふたりは国生みをして、たくさんの神々を生んでいきます。
創成神話は「生」と「死」を、螺旋のようにくり返しながら、段階を進めて、神から人間世界の物語へとつながっていくのです。
物語への応用「無への旅」
本書第一部「英雄の旅」で、私たちは英雄の救済行為を第一の視点、すなわち心理学的とも呼べる視点から考察した。次に私たちは、それを第二の視点から検討しなければならない。第二の視点に立つと、英雄の救済行為は、本来は英雄自身が形而上の神秘を再発見し明らかにする行為であったために、まさにその形而上の神秘を象徴するものになる。(『千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下』ジョーゼフ・キャンベル著、倉田真木、斎藤静代、関根光宏(翻訳)、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
ハリウッド三幕構成はジョーゼフ・キャンベルの「英雄の旅」をモデルにしています。
「英雄の旅」を一言でいってしまうなら「英雄が冒険にでて宝物を持ち帰る」です。
現代に焼き直すと「主人公が冒険をして帰ってくる」となり、「宝物」は心理学的な意味も加わり主人公の「変化」や「成長」ともなるのです。(参考記事:「葛藤のレベルとアーク」(中級編1)、「リワードというビート」(中級編4))
ハリウッドの冒険アクション映画なら「財宝の類い」を手に入れるための旅です。
深い階層を描いたドラマでは「愛」や「友情」といった人間関係としての「宝物」を得て帰ってくればいいのです。
これらは社会的な価値としての「宝物」です。
さらに深い階層での「宝物」があります。
映画の題材が「夢」や「意識」といったものを扱っているということとは関係ありません。たとえば『インセプション』は人間の「記憶」や「精神」の中といった世界を扱っていますが、あくまで物語はミッションを達成するというアクション映画です。
題材こそ、奥深いものを扱っていますが、それに対して物語ってはいないのです。
一方、ストーリーはシンプルながら深層心理への旅と変化を描いているのは、たとえば『モモ』のような作品です。
モモは「時間が生まれる場所」を見て帰ってきますが、これこそ「創成の世界」のひとつです。
キャンベルは「究極の恵み」に到達している例としてブッダをあげています。
ブッダの悟りは「無我」「梵我一如」と言われたりします。「梵」とは宇宙、「我」とはじぶんのことですから、これらが一対になった瞬間が「梵我一如」と解釈できそうです。
これは創成の虚無へと帰ることを意味します。
英雄の第一の任務は、宇宙創成の円環にける先行段階を意識的に経験し、流出の時代をさかのぼることにある。第二の任務は、流出の時代の深淵から生活の場に帰還し、造物主(デミウルゴス)的な力を潜在的に持つ者として人間世界の変化に寄与することにある。(同書)
流出の場とは、無から有へとエネルギーが流れる源泉。いのちの源と呼んでもいいかもしれません。ぜったいに言葉にはできません。
ここでは「二項」であったものが統一されます。
善と悪のどちらか一方が勝利するのが表層的な物語だとすると、二項を超越するのが深層的な物語です。
二項の超越は、三つ目の答え、第三項の提示ではありません。
矛盾する二項を、矛盾したまま抱えるような世界です。インドのシヴァ神は創造の神でありながら破壊の神でもあります。
こういった創成の神は、男女を超越した両性具有として描かれたり、過去と未来といった時間も超越しているので「永遠」のモデルにもなります。
心理学のアーキタイプモデルでいえば、命を生み愛情を育むグレートマザーは、魔女にもなるのです。
パーソナリティ障害に特徴的な「二分法的な認知」というものがあります。ものごとを「全」か「無」で捉えてしまい、一つの小さいことがうまくいかないと「もうダメだ!死にたい!」となってしまうのです。
ここまで極端ではなくとも、人が悩んだり葛藤しているときには「二分法」に陥っています。安易に一方の結論に進むことは、躁への転換でしかなくて、本質的な変化とはいえません。
恋をしているときは時を忘れます。男女の恋愛だけでなく、楽しいことに熱中しているときは「時間」を忘れています。
終わり際になって「この時間がずっとつづけばいいのに」などとぼやくのです。
けれど「浦島太郎」はふと竜宮城から帰ろうと思います。(参考記事:『浦島太郎』楠山正雄(三幕構成分析#23))
なにかの折に、瞬間的に「永遠」を感じたような気がしても、留まることはできず、やがて「死」が訪れる。それも、また真実です。
キャンベルの「宇宙創成の円環」は消滅で終わります。神話には世界の終末を記したものも多くあるからです。
そこから、また、エネルギーの流出がおこり、無から有生まれるのか(つまりは円環となるのか)、それは誰にもわかりません。
けれど、個人単位の人間でいえば、一人が死んでも、悲しんだり、意志を受け継いだりして、連環としてのいのちは続いていくといえるのでしょう。
緋片イルカ 2020/10/11
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