作品:『貝に続く場所にて』(画像からAmazonへジャンプします)
※分析には文藝春秋版を用いています。選評もついています。
mp3(1時間40分)
youtube版
レジュメ
イルカのレジュメ
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空地空さんのレジュメ
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補足情報
【報告】読書会#3『背高泡立草』古川真人 (三幕構成の音声解説)
『レトリック辞典』
「的を得る」と「汚名挽回」─三省堂国語辞典の訂正をめぐって─
惑星の小径
https://kawano-europe-essay.hatenablog.com/entry/DE-105
アレクサンダー大王の戦い アルブレヒト・アルトドルファー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E5%A4%A7%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ビスマルク塔
https://blog.goo.ne.jp/d-kueche/e/606afadf7d58705050d23b6e1abc9f0d
●「忘れないこと」と「記憶すること」(『群像2021.9 石沢麻衣への15の問い』より引用)
「忘れないこと」には「共感」が、そして「記憶すること」には「理解」が深く関わっているのではないか、ということです。共感は一見すると相手への感情へ寄り添っているようですが、実は自分の身や立場に引き寄せることによって距離を失くすことなのかもしれません。そして、その感情的な強さがあるからこそ、忘れないと自らに言うことができるのでしょう。しかし、感情は常に更新されてゆきます。日々の生活の中で、私たちはいくつもの強い感情に出会いますし、それが自分に関わっていることなら余計にその強度は上がるでしょう。つまり、さらなる感情を喚起する物事と出会った時、忘れられてゆくものが出てきます。感情的なものは消費されてゆく可能性が高いからです。おそらく、震災をテーマに書くことへの嫌悪や危惧があるというのは、潜在的にこの消費の危険性に誰もが気づいているからなのかもしれません。それに対し、理解というのは感情的な接近からスタートしても、それに流されることなく、物事の事実を集めて、そこから考えてゆく態度を表していると思います。「分かった」「分かり合えた」と言うことが目的ではなく、何かに対して問い続けること、それは翻って自分の眼差しの方向を完全に信頼しないことでもあるのでしょう。そして、それこそが記憶を形成してゆくために必要なのかもしれません。
※イルカ補足
読書会の中で読み上げている文章ですが、わかりづらかったので文章化しました。「忘れないこと」と「記憶する」ということは、一般的な言葉としては同じ意味だと思います。広辞苑にも「物事を忘れずに覚えている、または覚えておくこと。」とあり、似たような単語の印象から、対比効果が生まれていないため、理解がしづらい文章なのだと思います。改めて、読み解いてみると「感情的に共感してるだけでは、いつか忘れてしまうから、思考的に理解することで、本当の意味で忘れないようにしよう」ということがおっしゃりたいのかなと、僕には受け取れます。僕なら同じ事を「記憶することじゃなくて記録することが大事」と言うと思います。研究者さんらしい発想だなとも思いました。ついでに、私見として、必要のないこと忘れていくことは正常な機能だと思います。嫌なことをいつまでも忘れられないことはストレスとなり、その最たるものがPTSDです。個人にとって、忘れてしまうことがいいのか、忘れないでいるべきなのかは、どちらが正しいといったものでもないし、それぞれの生き方であり、それを登場人物に託して描くことが物語の役割でもあると、僕は考えます。
分析表
※補足
改めて考えて、ミッドポイントに関して、空地さんがとっていた「背中に歯が生える」はキャラクターアークとしては的確だと思いました。
僕がとった「ウルスラの夕食会」は、映画によくあるミッドポイントで、サブキャラクターなどが集合するパーティーのようなシーンがよくあることからです。そのシーンの中でもっとも「奥」という感じがする蒐集部屋としました。「奥」という感覚は、たとえば冒険ファンタジーのイメージでいえば、洞窟を探索して、最奥部に金銀財宝が隠されているようなものです。この金銀財宝はリワードとも呼べます。この作品を「野宮から逃げる話」とするのであれば、夕食会に野宮が来てことにも意味があるように感じます(野宮と向き合う=false victory)。そのリアクションとして背中に歯が生えて「もう、逃げられない」という折返しの地点になると思います。
小説内での構成とは別に、物語の背景まで考えて構成を考えるのであれば、小説冒頭の「野宮を迎えに行く」シーンはPP1にあたり、それより前に、小説には描かれていないシーンとして以下のような状況があったと考えられます。
アクト1としての日常:ドイツで普通に暮らしている。
カタリスト:澤田から連絡があり、野宮を迎えに行くように頼まれる。
ディベート:どうして野宮が?幽霊なのか?などと動揺する。
(デス:小説内でははじめから野宮を幽霊だと断定しているので、そういう結論にいたる思考があったはず)
PP1:野宮を迎えにいく(=小説の冒頭シーン)
また、テーマとして「死者と向き合う」という物語を目指しながら、肝心の主人公が向き合うことから逃げていて、変化の過程も描かれていない(思考ばかり書かれている)ため、キャラクターアークが掴みづらい作品です。
作者が「野宮は成仏していない」とインタビューで答えていることは音声内でも述べましたが、ネガティブエンド(バッドエンド)であると捉えるなら、旅=アクト2で向き合わなかったこと(変化のリワードを手にいれなかった)が原因となります。
主人公が変化をしていて、ポジティブエンド(ハッピーエンド)であると捉えるなら、旅=アクト2でどんなリワード得てきたのかが、読み取りづらく、とってつけたようなラストとなります。
音声内ではプロットアークだけでとったと言いましたが、印象としてのキャラクターアークを分析表のグラフに追加しました。ビートを踏まえたアークではないので、あくまで主観的な印象によるアークです。
参加者の空地さんのグラフと比べてみても、赤い線(キャラクターアーク)がだいぶ違います(※ちなみに、青い線がだいたい同じなのは、プロットアークでは客観的に共通認識が作れるということを示しています)。
それでも2人とも、赤線の右上がりで終わっていて、これはラストシーンをポジティブエンドと捉えたということになります。
レジュメにも引用した、
p.314 「私は野宮から嗅覚の情報を遮断しようとしていた。彼からの潮の匂い、さらには死の絡みつく匂いがあるのではないかとずっと恐れていた。」
p.394 「記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感。その輪郭を指でなぞって確かめて、野宮の時間と向かい合う。その時、私は初めて心から彼の死を、還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた。」
の文章を拾っても、主人公は変化をしているように読めます。作者が自分に禁止したという「語り手にカタルシスを与える」ことを、気づかないうちに違反しているとも言えます。
作者がどういう意図で描こうとも、物語の構成が、読み手にはテーマとして伝わります。言語の文法のようなもので、英語でいえば、I playと書けば「play」は動詞だし、I like playと書けば(冠詞のaがなくとも)名詞ととられるようなものです。作者は伝えたいテーマを物語の文法に則って描かなければ、相手(読者)には伝わりません。
物語の文法とは主人公の日常(アクト1)、旅(アクト2)、結論(アクト3)のことで、その道程がテーマとして伝わるのです。これがキャラクターアークとテーマの関係です。
キャラクターアークを描くということは「人間」を描くことと同じです。人間がどういう出来事に出会い、何を感じ、考え、変化するに到ったかを描くことです。
そのアークの描き方に無理があったり安易なこじつけがあると、読者は違和感やご都合主義、うすっぺらいキャラクターと感じます(音符やメロディの喩えでいえば不協和音と言えるかもしれません)。
ついでですが、「主人公の定義」を取り違えている人も多くいます。配役がメインキャストであるとか、目立っているのが主人公ではありません。制作進行上の呼び方や、一般人の感覚であれば、そういう捉え方でかまいませんが、物語における主人公はキャラクターアークを持っているキャラクターのことです。
キャラクターアークを持っているキャラクターが2人や3人いても構いません。たくさんいれば群像劇になります(ただし映画では時間制限があるので限界があります)。
群像機についても、裏をかえせば「メインキャストがたくさん出ているだけ」では、本当の意味での群像劇にはならないのです。群像的と呼ばれている映画を分析して違いをみると、よくわかります。
お知らせ
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緋片イルカ 2021/09/04