『人間椅子』江戸川乱歩(三幕構成分析#18)

がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。

今回は、著作権フリーの作品を使って、本文中のビートを示してみます。

この物語は二重の構造を持っています。
一つは「作家が手紙を読む」という大きい構造です。ここでは「手紙」自体がアクト2の「非日常」となっていています。
もう一つは手紙の内容自体で「イス職人があることをする」という小さい三幕構成があるのです。
二つの三幕構成が、入れ子構造になっているのです。

「あること」はネタバレ防止しました。有名な短編なのでバラしてもよいのですが、ビートを確認しつつ初見で読みたい方向けに隠しました。以下、二つの構造のビートについて本文中で解説していき、本文のあとに改めて補足します。ボックスをクリックするとビートの説明がでます。


音声で聞きたい方はこちらもどうぞ。

以下の本文は、青空文庫からの引用です。
ルビが読みづらいと感じる方は、リンク先でお読みください。

『人間椅子』江戸川乱歩(本文約16000字)

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)佳子《よしこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)表題|丈《だけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21]
——————————————————-
 佳子《よしこ》は、毎朝、夫の登庁《とうちょう》を見送って了《しま》うと、それはいつも十時を過ぎるのだが、やっと自分のからだになって、洋館の方の、夫と共用の書斎へ、とじ籠《こも》るのが例になっていた。そこで、彼女は今、K雑誌のこの夏の増大号にのせる為の、長い創作にとりかかっているのだった。
 美しい閨秀《けいしゅう》作家としての彼女は、此《こ》の頃《ごろ》では、外務省書記官である夫君の影を薄く思わせる程も、有名になっていた。彼女の所へは、毎日の様に未知の崇拝者達からの手紙が、幾通となくやって来た。
 今朝《けさ》とても、彼女は、書斎の机の前に坐ると、仕事にとりかかる前に、先《ま》ず、それらの未知の人々からの手紙に、目を通さねばならなかった。
 それは何《いず》れも、極《きま》り切った様に、つまらぬ文句のものばかりであったが、彼女は、女の優しい心遣《こころづか》いから、どの様な手紙であろうとも、自分に宛《あて》られたものは、兎《と》も角《かく》も、一通りは読んで見ることにしていた。


「主人公のセットアップ」:主人公の佳子が作家であること、ファンレターは目を通すようにしていることがセットアップされています。

 簡単なものから先にして、二通の封書と、一葉のはがきとを見て了うと、あとにはかさ高い原稿らしい一通が残った。別段通知の手紙は貰《もら》っていないけれど、そうして、突然原稿を送って来る例は、これまでにしても、よくあることだった。それは、多くの場合、長々しく退屈極る代物であったけれど、彼女は兎も角も、表題|丈《だけ》でも見て置こうと、封を切って、中の紙束を取出して見た。
 それは、思った通り、原稿用紙を綴《と》じたものであった。が、どうしたことか、表題も署名もなく、突然「奥様」という、呼びかけの言葉で始まっているのだった。ハテナ、では、やっぱり手紙なのかしら、そう思って、何気なく二行三行と目を走らせて行く内に、彼女は、そこから、何となく異常な、妙に気味悪いものを予感した。そして、持前《もちまえ》の好奇心が、彼女をして、ぐんぐん、先を読ませて行くのであった。


「プロットポイント1(PP1)」:佳子にとっては「手紙の内容」がアクト2となります。厳密にビートを分析するなら手紙を受け取ったことを「カタリスト」として「気味悪いものを予感した」あたりは「ディベート」ととれなくもありませんが、佳子はメインプロットである手紙を挟み込んでいるだけととれば、細かいビートは無視してもよいでしょう。以下、手紙の内容です。入れ子構造の小さい方のビートが改めて始まります。

 奥様、
 奥様の方では、少しも御存じのない男から、突然、此様《このよう》な無躾《ぶしつけ》な御手紙を、差上げます罪を、幾重《いくえ》にもお許し下さいませ。
 こんなことを申上げますと、奥様は、さぞかしびっくりなさる事で御座いましょうが、私は今、あなたの前に、私の犯して来ました、世にも不思議な罪悪を、告白しようとしているのでございます。
 私は数ヶ月の間、全く人間界から姿を隠して、本当に、悪魔の様な生活を続けて参りました。勿論《もちろん》、広い世界に誰一人、私の所業を知るものはありません。若《も》し、何事もなければ、私は、このまま永久に、人間界に立帰ることはなかったかも知れないのでございます。
 ところが、近頃になりまして、私の心にある不思議な変化が起りました。そして、どうしても、この、私の因果な身の上を、懺悔《ざんげ》しないではいられなくなりました。ただ、かように申しましたばかりでは、色々|御不審《ごふしん》に思召《おぼしめ》す点もございましょうが、どうか、兎も角も、この手紙を終りまで御読み下さいませ。そうすれば、何故《なぜ》、私がそんな気持になったのか。又何故、この告白を、殊更《ことさら》奥様に聞いて頂かねばならぬのか、それらのことが、悉《ことごと》く明白になるでございましょう。


「オープニングイメージ」:なにかとても不可思議な内容であることを予感させます。具体的に映像的なイメージはありませんが「人間界から姿を隠して」「悪魔の様な生活」とは何だろう? 「不思議な変化が起こりました」とは何だろう?と興味をそそります。

 さて、何から書き初めたらいいのか、余りに人間離れのした、奇怪千万な事実なので、こうした、人間世界で使われる、手紙という様な方法では、妙に面《おも》はゆくて、筆の鈍るのを覚えます。でも、迷っていても仕方がございません。兎も角も、事の起りから、順を追って、書いて行くことに致しましょう。
 私は生れつき、世にも醜い容貌の持主でございます。これをどうか、はっきりと、お覚えなすっていて下さいませ。そうでないと、若し、あなたが、この無躾な願いを容《い》れて、私にお逢《あ》い下さいました場合、たださえ醜い私の顔が、長い月日の不健康な生活の為《ため》に、二《ふ》た目と見られぬ、ひどい姿になっているのを、何の予備知識もなしに、あなたに見られるのは、私としては、堪《た》え難《がた》いことでございます。
 私という男は、何と因果な生れつきなのでありましょう。そんな醜い容貌を持ちながら、胸の中では、人知れず、世にも烈《はげ》しい情熱を、燃《もや》していたのでございます。私は、お化《ばけ》のような顔をした、その上|極《ご》く貧乏な、一職人に過ぎない私の現実を忘れて、身の程知らぬ、甘美な、贅沢《ぜいたく》な、種々様々の「夢」にあこがれていたのでございます。
 私が若し、もっと豊な家に生れていましたなら、金銭の力によって、色々の遊戯に耽《ふ》けり、醜貌《しゅうぼう》のやるせなさを、まぎらすことが出来たでもありましょう。それとも又、私に、もっと芸術的な天分が、与えられていましたなら、例えば美しい詩歌によって、此世《このよ》の味気《あじき》なさを、忘れることが出来たでもありましょう。併《しか》し、不幸な私は、何《いず》れの恵みにも浴することが出来ず、哀れな、一家具職人の子として、親譲りの仕事によって、其日《そのひ》其日の暮しを、立てて行く外《ほか》はないのでございました。
 私の専門は、様々の椅子《いす》を作ることでありました。私の作った椅子は、どんな難しい註文主にも、きっと気に入るというので、商会でも、私には特別に目をかけて、仕事も、上物《じょうもの》ばかりを、廻して呉《く》れて居りました。そんな上物になりますと、凭《もた》れや肘掛《ひじか》けの彫りものに、色々むずかしい註文があったり、クッションの工合《ぐあい》、各部の寸法などに、微妙な好みがあったりして、それを作る者には、一寸《ちょっと》素人の想像出来ない様な苦心が要るのでございますが、でも、苦心をすればした丈け、出来上った時の愉快というものはありません。生意気を申す様ですけれど、その心持ちは、芸術家が立派な作品を完成した時の喜びにも、比ぶべきものではないかと存じます。
 一つの椅子が出来上ると、私は先ず、自分で、それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。そして、味気ない職人生活の内にも、その時ばかりは、何とも云えぬ得意を感じるのでございます。そこへは、どの様な高貴の方が、或《あるい》はどの様な美しい方がおかけなさることか、こんな立派な椅子を、註文なさる程のお邸《やしき》だから、そこには、きっと、この椅子にふさわしい、贅沢な部屋があるだろう。壁間《かべ》には定めし、有名な画家の油絵が懸《かか》り、天井からは、偉大な宝石の様な装飾電燈《シャンデリヤ》が、さがっているに相違ない。床には、高価な絨氈《じゅうたん》が、敷きつめてあるだろう。そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、西洋草花が、甘美な薫《かおり》を放って、咲き乱れていることであろう。そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、自分が、その立派な部屋の主《あるじ》にでもなった様な気がして、ほんの一瞬間ではありますけれど、何とも形容の出来ない、愉快な気持になるのでございます。
 私の果敢《はか》ない妄想は、猶《なお》とめどもなく増長して参ります。この私が、貧乏な、醜い、一職人に過ぎない私が、妄想の世界では、気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に、腰かけているのでございます。そして、その傍《かたわら》には、いつも私の夢に出て来る、美しい私の恋人が、におやかにほほえみながら、私の話に聞入って居ります。そればかりではありません。私は妄想の中で、その人と手をとり合って、甘い恋の睦言《むつごと》を、囁《ささや》き交《かわ》しさえするのでございます。
 ところが、いつの場合にも、私のこの、フーワリとした紫の夢は、忽《たちま》ちにして、近所のお上《かみ》さんの姦《かしま》しい話声や、ヒステリーの様に泣き叫ぶ、其辺《そのあたり》の病児《びょうじ》の声に妨《さまた》げられて、私の前には、又しても、醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。現実に立帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、哀れにも醜い、自分自身の姿を見出《みいだ》します。そして、今の先、私にほほえみかけて呉れた、あの美しい人は。……そんなものが、全体どこにいるのでしょう。その辺に、埃《ほこり》まみれになって遊んでいる、汚らしい子守《こもり》女でさえ、私なぞには、見向いても呉れはしないのでございます。ただ一つ、私の作った椅子丈けが、今の夢の名残《なご》りの様に、そこに、ポツネンと残って居ります。でも、その椅子は、やがて、いずことも知れぬ、私達のとは全く別な世界へ、運び去られて了うのではありませんか。
 私は、そうして、一つ一つ椅子を仕上げる度毎《たびごと》に、いい知れぬ味気なさに襲われるのでございます。その、何とも形容の出来ない、いやあな、いやあな心持は、月日が経つに従って、段々、私には堪え切れないものになって参りました。
「こんな、うじ虫の様な生活を、続けて行く位なら、いっそのこと、死んで了った方が増しだ」私は、真面目に、そんなことを思います。仕事場で、コツコツと鑿《のみ》を使いながら、釘を打ちながら、或は、刺戟《しげき》の強い塗料をこね廻しながら、その同じことを、執拗《しつよう》に考え続けるのでございます。「だが、待てよ、死んで了う位なら、それ程の決心が出来るなら、もっと外に、方法がないものであろうか。例えば……」そうして、私の考えは、段々恐ろしい方へ、向いて行くのでありました。


「主人公のセットアップ」:入れ子構造の手紙の中で、改めてイス職人がセットアップされています。醜い容姿であることや、仕事の腕は良く、妄想に耽ることもあるが、反面、現実に返ると「死んで了った方が増しだ」とさえ思うような性格であること。「もっと外に、方法がないものであろうか。例えば……」これは主人公のWANTでもあります。

 丁度その頃、私は、嘗《か》つて手がけたことのない、大きな皮張りの肘掛椅子の、製作を頼まれて居りました。


「カタリスト」:これが、この後に起きる非日常へのきっかけになります。

此椅子は、同じY市で外人の経営している、あるホテルへ納める品で、一体なら、その本国から取寄せる筈《はず》のを、私の雇われていた、商会が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、やっと註文を取ったものでした。それ丈けに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。本当に魂をこめて、夢中になってやったものでございます。
 さて、出来上った椅子を見ますと、私は嘗つて覚えない満足を感じました。それは、我乍《われなが》ら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。何という坐り心地のよさでしょう。フックラと、硬《こわ》すぎず軟《やわら》かすぎぬクッションのねばり工合、態《わざ》と染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、鞣革《なめしがわ》の肌触り、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えて呉れる、豊満な凭《もた》れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、両側の肘掛け、それらの凡《すべ》てが、不思議な調和を保って、渾然《こんぜん》として「安楽《コンフォート》」という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。
 私は、そこへ深々と身を沈め、両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。すると、私の癖として、止めどもない妄想が、五色《ごしき》の虹の様に、まばゆいばかりの色彩を以《もっ》て、次から次へと湧《わ》き上って来るのです。あれを幻《まぼろし》というのでしょうか。心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、私は、若しや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなった程でございます。
 そうしています内に、私の頭に、ふとすばらしい考えが浮んで参りました。悪魔の囁きというのは、多分ああした事を指すのではありますまいか。それは、夢の様に荒唐無稽《こうとうむけい》で、非常に不気味な事柄でした。でも、その不気味さが、いいしれぬ魅力となって、私をそそのかすのでございます。
 最初は、ただただ、私の丹誠《たんせい》を籠《こ》めた美しい椅子を、手離し度くない、出来ることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい、そんな単純な願いでした。それが、うつらうつらと妄想の翼を拡げて居ります内に、いつの間にやら、その日頃私の頭に醗酵《はっこう》して居りました、ある恐ろしい考えと、結びついて了ったのでございます。そして、私はまあ、何という気違いでございましょう。その奇怪極まる妄想を、実際に行《おこな》って見ようと思い立ったのでありました。
 私は大急ぎで、四つの内で一番よく出来たと思う肘掛椅子を、バラバラに毀《こわ》してしまいました。そして、改めて、それを、私の妙な計画を実行するに、都合のよい様に造り直しました。
 それは、極く大型のアームチェーアですから、掛ける部分は、床にすれすれまで皮で張りつめてありますし、其外、凭《もた》れも肘掛けも、非常に部厚に出来ていて、その内部には、人間一人が隠れていても、決して外から分らない程の、共通した、大きな空洞《うつろ》があるのです。無論、そこには、巌丈《がんじょう》な木の枠と、沢山なスプリングが取りつけてありますけれど、私はそれらに、適当な細工を施して、人間が掛ける部分に膝を入れ、凭れの中へ首と胴とを入れ、丁度椅子の形に坐れば、その中にしのんでいられる程の、余裕を作ったのでございます。
 そうした細工は、お手のものですから、十分手際よく、便利に仕上げました。例えば、呼吸《いき》をしたり外部の物音を聞く為に皮の一部に、外からは少しも分らぬ様な隙間を拵《こしら》えたり、凭れの内部の、丁度頭のわきの所へ、小さな棚をつけて、何かを貯蔵出来る様にしたり、ここへ水筒と、軍隊用の堅《かた》パンとを詰め込みました。ある用途の為めに大きなゴムの袋を備えつけたり、その外《ほか》様々の考案を廻《めぐ》らして、食料さえあれば、その中に、二日三日|這入《はい》りつづけていても、決して不便を感じない様にしつらえました。謂《い》わば、その椅子が、人間一人の部屋になった訳でございます。
 私はシャツ一枚になると、底に仕掛けた出入口の蓋《ふた》を開けて、椅子の中へ、すっぽりと、もぐりこみました。それは、実に変てこな気持でございました。まっ暗な、息苦しい、まるで墓場の中へ這入った様な、不思議な感じが致します。考えて見れば、墓場に相違ありません。私は、椅子の中へ這入ると同時に、丁度、隠れ簑でも着た様に、この人間世界から、消滅して了う訳ですから。


「プロットポイント1(PP1)」:「手離し度くない、出来ることなら、その椅子と一緒に、どこまでもついて行きたい」という「ディベート」を経て、椅子に隠れることで「この人間世界から、消滅」します。これは「デス」です。そして「人間椅子」としての非日常が始まります。

 間もなく、商会から使《つかい》のものが、四脚の肘掛椅子を受取る為に、大きな荷車を持って、やって参りました。私の内弟子《うちでし》が(私はその男と、たった二人暮しだったのです)何も知らないで、使のものと応待して居ります。車に積み込む時、一人の人夫が「こいつは馬鹿に重いぞ」と怒鳴《どな》りましたので、椅子の中の私は、思わずハッとしましたが、一体、肘掛椅子そのものが、非常に重いのですから、別段あやしまれることもなく、やがて、ガタガタという、荷車の振動が、私の身体《からだ》にまで、一種異様の感触を伝えて参りました。
 非常に心配しましたけれど、結局、何事もなく、その日の午後には、もう私の這入った肘掛椅子は、ホテルの一室に、どっかりと、据えられて居りました。後で分ったのですが、それは、私室ではなくて、人を待合せたり、新聞を読んだり、煙草《たばこ》をふかしたり、色々の人が頻繁《ひんぱん》に出入りする、ローンジとでもいう様な部屋でございました。
 もうとっくに、御気づきでございましょうが、私の、この奇妙な行いの第一の目的は、人のいない時を見すまして、椅子の中から抜け出し、ホテルの中をうろつき廻って、盗みを働くことでありました。椅子の中に人間が隠れていようなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことを、誰が想像致しましょう。私は、影の様に、自由自在に、部屋から部屋を、荒し廻ることが出来ます。そして、人々が、騒ぎ始める時分には、椅子の中の隠家《かくれが》へ逃げ帰って、息を潜《ひそ》めて、彼等の間抜けな捜索を、見物していればよいのです。あなたは、海岸の波打際《なみうちぎわ》などに、「やどかり」という一種の蟹《かに》のいるのを御存じでございましょう。大きな蜘蛛《くも》の様な恰好をしていて、人がいないと、その辺を我物顔に、のさばり歩いていますが、一寸でも人の跫音《あしおと》がしますと、恐ろしい速さで、貝殻《かいがら》の中へ逃げ込みます。そして、気味の悪い、毛むくじゃらの前足を、少しばかり貝殻から覗かせて、敵の動静を伺って居ります。私は丁度あの「やどかり」でございました。貝殻の代りに、椅子という隠家を持ち、海岸ではなくて、ホテルの中を、我物顔に、のさばり歩くのでございます。
 さて、この私の突飛《とっぴ》な計画は、それが突飛であった丈け、人々の意表外に出《い》でて、見事に成功致しました。ホテルに着いて三日目には、もう、たんまりと一仕事済ませて居た程でございます。いざ盗みをするという時の、恐ろしくも、楽しい心持、うまく成功した時の、何とも形容し難《がた》い嬉しさ、それから、人々が私のすぐ鼻の先で、あっちへ逃げた、こっちへ逃げたと大騒ぎをやっているのを、じっと見ているおかしさ。それがまあ、どの様な不思議な魅力を持って、私を楽しませたことでございましょう。
 でも、私は今、残念ながら、それを詳しくお話している暇はありません。私はそこで、そんな盗みなどよりは、十倍も二十倍も、私を喜ばせた所の、奇怪極まる快楽を発見したのでございます。そして、それについて、告白することが、実は、この手紙の本当の目的なのでございます。
 お話を、前に戻して、私の椅子が、ホテルのローンジに置かれた時のことから、始めなければなりません。
 椅子が着くと、一《ひと》しきり、ホテルの主人達が、その坐り工合を見廻って行きましたが、あとは、ひっそりとして、物音一つ致しません。多分部屋には、誰もいないのでしょう。でも、到着|匆々《そうそう》、椅子から出ることなど、迚《とて》も恐ろしくて出来るものではありません。私は、非常に長い間(ただそんなに感じたのかも知れませんが)少しの物音も聞き洩《もら》すまいと、全神経を耳に集めて、じっとあたりの様子を伺って居りました。
 そうして、暫《しばら》くしますと、多分廊下の方からでしょう、コツコツと重苦しい跫音が響いて来ました。それが、二三間向うまで近付くと、部屋に敷かれた絨氈の為に、殆《ほとん》ど聞きとれぬ程の低い音に代りましたが、間もなく、荒々しい男の鼻息が聞え、ハッと思う間に、西洋人らしい大きな身体が、私の膝の上に、ドサリと落ちてフカフカと二三度はずみました。私の太腿《ふともも》と、その男のガッシリした偉大な臀部《でんぶ》とは、薄い鞣皮一枚を隔てて、暖味《あたたかみ》を感じる程も密接しています。幅の広い彼の肩は、丁度私の胸の所へ凭れかかり、重い両手は、革を隔てて、私の手と重なり合っています。そして、男がシガーをくゆらしているのでしょう。男性的な、豊な薫《かおり》が、革の隙間を通して漾《ただよ》って参ります。
 奥様、仮にあなたが、私の位置にあるものとして、其場の様子を想像してごらんなさいませ。それは、まあ何という、不思議千万な情景でございましょう。私はもう、余りの恐ろしさに、椅子の中の暗闇で、堅く堅く身を縮めて、わきの下からは、冷い汗をタラタラ流しながら、思考力もなにも失って了って、ただもう、ボンヤリしていたことでございます。
 その男を手始めに、その日一日、私の膝の上には、色々な人が入り替り立替り、腰を下しました。そして、誰も、私がそこにいることを――彼等が柔いクッションだと信じ切っているものが、実は私という人間の、血の通った太腿であるということを――少しも悟らなかったのでございます。
 まっ暗で、身動きも出来ない革張りの中の天地。それがまあどれ程、怪しくも魅力ある世界でございましょう。そこでは、人間というものが、日頃目で見ている、あの人間とは、全然別な不思議な生きものとして感ぜられます。彼等は声と、鼻息と、跫音と、衣《きぬ》ずれの音と、そして、幾つかの丸々とした弾力に富む肉塊《にくかい》に過ぎないのでございます。私は、彼等の一人一人を、その容貌の代りに、肌触りによって識別することが出来ます。あるものは、デブデブと肥《こ》え太って、腐った肴《さかな》の様な感触を与えます。それとは正反対に、あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨《がいこつ》のような感じが致します。その外、背骨《せぼね》の曲り方、肩胛骨《けんこうこつ》の開き工合、腕の長さ、太腿の太さ、或は尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21]骨《びていこつ》の長短など、それらの凡ての点を綜合して見ますと、どんな似寄った背恰好の人でも、どこか違った所があります。人間というものは、容貌や指紋の外に、こうしたからだ全体の感触によっても、完全に識別することが出来るに相違ありません。
 異性についても、同じことが申されます。普通の場合は、主として容貌の美醜によって、それを批判するのでありましょうが、この椅子の中の世界では、そんなものは、まるで問題外なのでございます。そこには、まる裸の肉体と、声音《こわね》と、匂《におい》とがあるばかりでございます。
 奥様、余りにあからさまな私の記述に、どうか気を悪くしないで下さいまし、私はそこで、一人の女性の肉体に、(それは私の椅子に腰かけた最初の女性でありました。)烈しい愛着を覚えたのでございます。
 声によって想像すれば、それは、まだうら若い異国の乙女《おとめ》でございました。丁度その時、部屋の中には誰もいなかったのですが、彼女は、何か嬉しいことでもあった様子で、小声で、不思議な歌を歌いながら、躍《おど》る様な足どりで、そこへ這入って参りました。そして、私のひそんでいる肘掛椅子の前まで来たかと思うと、いきなり、豊満な、それでいて、非常にしなやかな肉体を、私の上へ投げつけました。しかも、彼女は何がおかしいのか、突然アハアハ笑い出し、手足をバタバタさせて、網の中の魚の様に、ピチピチとはね廻るのでございます。
 それから、殆ど半時間ばかりも、彼女は私の膝の上で、時々歌を歌いながら、その歌に調子を合せでもする様に、クネクネと、重い身体を動かして居りました。
 これは実に、私に取っては、まるで予期しなかった驚天動地《きょうてんどうち》の大事件でございました。女は神聖なもの、いや寧《むし》ろ怖《こわ》いものとして、顔を見ることさえ遠慮していた私でございます。其《その》私が、今、身も知らぬ異国の乙女と、同じ部屋に、同じ椅子に、それどころではありません、薄い鞣皮《なめしがわ》一重を隔てて肌のぬくみを感じる程も、密接しているのでございます。それにも拘《かかわ》らず、彼女は何の不安もなく、全身の重みを私の上に委《ゆだ》ねて、見る人のない気安さに、勝手|気儘《きまま》な姿体を致して居ります。私は椅子の中で、彼女を抱きしめる真似をすることも出来ます。皮のうしろから、その豊な首筋に接吻《せっぷん》することも出来ます。その外、どんなことをしようと、自由自在なのでございます。
 この驚くべき発見をしてからというものは、私は最初の目的であった盗みなどは第二として、ただもう、その不思議な感触の世界に、惑溺《わくでき》して了ったのでございます。私は考えました。これこそ、この椅子の中の世界こそ、私に与えられた、本当のすみかではないかと。私の様な醜い、そして気の弱い男は、明るい、光明の世界では、いつもひけ目を感じながら、恥かしい、みじめな生活を続けて行く外に、能のない身体でございます。それが、一度《ひとたび》、住む世界を換えて、こうして椅子の中で、窮屈な辛抱《しんぼう》をしていさえすれば、明るい世界では、口を利くことは勿論、側へよることさえ許されなかった、美しい人に接近して、その声を聞き肌に触れることも出来るのでございます。
 椅子の中の恋(!)それがまあ、どんなに不可思議な、陶酔的《とうすいてき》な魅力を持つか、実際に椅子の中へ這入って見た人でなくては、分るものではありません。それは、ただ、触覚と、聴覚と、そして僅《わずか》の嗅覚《きゅうかく》のみの恋でございます。暗闇の世界の恋でございます。決してこの世のものではありません。これこそ、悪魔の国の愛慾なのではございますまいか。考えて見れば、この世界の、人目につかぬ隅々では、どの様に異形な、恐ろしい事柄が、行われているか、ほんとうに想像の外《ほか》でございます。
 無論始めの予定では、盗みの目的を果しさえすれば、すぐにもホテルを逃げ出す積《つも》りでいたのですが、世にも奇怪な喜びに、夢中になった私は、逃げ出すどころか、いつまでもいつまでも、椅子の中を永住のすみかにして、その生活を続けていたのでございます。
 夜々《よなよな》の外出には、注意に注意を加えて、少しも物音を立てず、又人目に触れない様にしていましたので、当然、危険はありませんでしたが、それにしても、数ヶ月という、長い月日を、そうして少しも見つからず、椅子の中に暮していたというのは、我ながら実に驚くべき事でございました。
 殆ど二六時中、椅子の中の窮屈な場所で、腕を曲げ、膝を折っている為に、身体中が痺《しび》れた様になって、完全に直立することが出来ず、しまいには、料理場や化粧室への往復を、躄の様に、這って行った程でございます。私という男は、何という気違いでありましょう。それ程の苦しみを忍んでも、不思議な感触の世界を見捨てる気になれなかったのでございます。
 中には、一ヶ月も二ヶ月も、そこを住居《すまい》のようにして、泊りつづけている人もありましたけれど、元来ホテルのことですから絶えず客の出入りがあります。随《したが》って私の奇妙な恋も、時と共に相手が変って行くのを、どうすることも出来ませんでした。そして、その数々の不思議な恋人の記憶は、普通の場合の様に、その容貌によってではなく、主として身体の恰好によって、私の心に刻みつけられているのでございます。
 あるものは、仔馬《こうま》の様に精悍《せいかん》で、すらりと引き締った肉体を持ち、あるものは、蛇の様に妖艶《ようえん》で、クネクネと自在に動く肉体を持ち、あるものは、ゴム鞠《まり》の様に肥え太って、脂肪と弾力に富む肉体を持ち、又あるものは、ギリシャの彫刻の様に、ガッシリと力強く、円満に発達した肉体を持って居りました。その外、どの女の肉体にも、一人一人、それぞれの特徴があり魅力があったのでございます。
 そうして、女から女へと移って行く間に、私は又、それとは別な、不思議な経験をも味いました。
 その一つは、ある時、欧洲のある強国の大使が(日本人のボーイの噂話によって知ったのですが)其偉大な体躯を、私の膝の上にのせたことでございます。それは、政治家としてよりも、世界的な詩人として、一層よく知られていた人ですが、それ丈けに、私は、その偉人の肌を知ったことが、わくわくする程も、誇らしく思われたのでございます。彼は私の上で、二三人の同国人を相手に、十分ばかり話をすると、そのまま立去《たちさっ》て了いました。無論、何を云っていたのか、私にはさっぱり分りませんけれど、ジェステュアをする度に、ムクムクと動く、常人よりも暖いかと思われる肉体の、くすぐる様な感触が、私に一種名状すべからざる刺戟を、与えたのでございます。
 その時、私はふとこんなことを想像しました。若し! この革のうしろから、鋭いナイフで、彼の心臓を目がけて、グサリと一突きしたなら、どんな結果を惹起《ひきおこ》すであろう。無論、それは彼に再び起つことの出来ぬ致命傷を与えるに相違ない。彼の本国は素《もと》より、日本の政治界は、その為に、どんな大騒ぎを演じることであろう。新聞は、どんな激情的な記事を掲げることであろう。それは、日本と彼の本国との外交関係にも、大きな影響を与えようし、又芸術の立場から見ても、彼の死は世界の一大損失に相違ない。そんな大事件が、自分の一挙手によって、易々《やすやす》と実現出来るのだ。それを思うと、私は、不思議な得意を感じないではいられませんでした。
 もう一つは、有名なある国のダンサーが来朝した時、偶然彼女がそのホテルに宿泊して、たった一度ではありましたが、私の椅子に腰かけたことでございます。その時も、私は、大使の場合と似た感銘を受けましたが、その上、彼女は私に、嘗《か》つて経験したことのない理想的な肉体美の感触を与えて呉れました。私はそのあまりの美しさに卑しい考えなどは起す暇《ひま》もなく、ただもう、芸術品に対する時の様な、敬虔《けいけん》な気持で、彼女を讃美したことでございます。
 その外、私はまだ色々と、珍しい、不思議な、或は気味悪い、数々の経験を致しましたが、それらを、ここに細叙《さいじょ》することは、この手紙の目的でありませんし、それに大分《だいぶ》長くなりましたから、急いで、肝心の点にお話を進めることに致しましょう。


「ミッドポイント」:男は椅子の中で人の触れ合いを感じていきます。
最初の「荒々しい男」から始まり、「あるものは、デブデブと肥こえ太って、腐った肴さかなの様な感触」、「あるものは、コチコチに痩せひからびて、骸骨がいこつのような感じ」「あるものは、仔馬こうまの様に精悍せいかん」「あるものは、蛇の様に妖艶」「あるものは、ゴム鞠まりの様に肥え太って」「あるものは、ギリシャの彫刻の様」、さらには「欧洲のある強国の大使」と一つ一つの触れ合いが「バトル」に相当します。そして「有名なある国のダンサー」に到って「嘗つて経験したことのない理想的な肉体美の感触」「あまりの美しさに卑しい考えなどは起す暇ひまもなく、ただもう、芸術品に対する時の様な、敬虔な気持で、彼女を讃美した」と、触れ合いの頂点に達していて、ここがミッドポイントになります。PP1~MPまでは作品のメインテーマでもあります。この男の気味悪さと同時に、人肌を求める孤独も理解でき、まさにこの作品の魅力です。ミッドポイントに達したあとは物語に変化が起こります。

 さて、私がホテルへ参りましてから、何ヶ月かの後、私の身の上に一つの変化が起ったのでございます。といいますのは、ホテルの経営者が、何かの都合で帰国することになり、あとを居抜きのまま、ある日本人の会社に譲り渡したのであります。すると、日本人の会社は、従来の贅沢な営業方針を改め、もっと一般向きの旅館として、有利な経営を目論《もくろ》むことになりました。その為に不用になった調度などは、ある大きな家具商に委託して、競売せしめたのでありますが、その競売目録の内に、私の椅子も加わっていたのでございます。
 私は、それを知ると、一時はガッカリ致しました。そして、それを機《き》として、もう一度|娑婆《しゃば》へ立帰り、新しい生活を始めようかと思った程でございます。その時分には、盗みためた金が相当の額に上っていましたから、仮令《たとい》、世の中へ出ても、以前の様に、みじめな暮しをすることはないのでした。が、又思い返して見ますと、外人のホテルを出たということは、一方に於《おい》ては、大きな失望でありましたけれど、他方に於ては、一つの新しい希望を意味するものでございました。といいますのは、私は数ヶ月の間も、それ程色々の異性を愛したにも拘らず、相手が凡て異国人であった為に、それがどんな立派な、好もしい肉体の持主であっても、精神的に妙な物足りなさを感じない訳には行きませんでした。やっぱり、日本人は、同じ日本人に対してでなければ、本当の恋を感じることが出来ないのではあるまいか。私は段々、そんな風に考えていたのでございます。そこへ、丁度私の椅子が競売に出たのであります。今度は、ひょっとすると、日本人に買いとられるかも知れない。そして、日本人の家庭に置かれるかも知れない。それが、私の新しい希望でございました。私は、兎も角も、もう少し椅子の中の生活を続けて見ることに致しました。
 道具屋の店先で、二三日の間、非常に苦しい思いをしましたが、でも、競売が始まると、仕合《しあわ》せなことには、私の椅子は早速《さっそく》買手がつきました。古くなっても、十分人目を引く程、立派な椅子だったからでございましょう。


PP2「プロットポイント2」:「もう一度娑婆へ立帰り、新しい生活を始めようかと思った」というのは非日常が終わった気持ちです。具体的にはホテルのラウンジという非日常の時間が終わりました。男は椅子から出ず、道具屋の店先で「二三日の間、非常に苦しい思い」をして(重要ではないが「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」にあたる)、買手がついたことにより、いよいよクライマックスである「アクト3」=ビッグバトルへと入って行く。ミステリーやサスペンスのクライマックスとは、解決やオチへと向かうことです。

 買手はY市から程遠からぬ、大都会に住んでいた、ある官吏《かんり》でありました。道具屋の店先から、その人の邸まで、何里かの道を、非常に震動の烈しいトラックで運ばれた時には、私は椅子の中で死ぬ程の苦しみを嘗《な》めましたが、でも、そんなことは、買手が、私の望み通り日本人であったという喜びに比べては、物の数でもございません。
 買手のお役人は、可成《かなり》立派な邸の持主で、私の椅子は、そこの洋館の、広い書斎に置かれましたが、私にとって非常に満足であったことには、その書斎は、主人よりは、寧ろ、その家の、若く美しい夫人が使用されるものだったのでございます。それ以来、約一ヶ月の間、私は絶えず、夫人と共に居りました。夫人の食事と、就寝の時間を除いては、夫人のしなやかな身体は、いつも私の上に在《あ》りました。それというのが、夫人は、その間《あいだ》、書斎につめきって、ある著作に没頭していられたからでございます。
 私がどんなに彼女を愛したか、それは、ここに管々《くだくだ》しく申し上げるまでもありますまい。彼女は、私の始めて接した日本人で、而《しか》も十分美しい肉体の持主でありました。私は、そこに、始めて本当の恋を感じました。それに比べては、ホテルでの、数多い経験などは、決して恋と名づくべきものではございません。その証拠には、これまで一度も、そんなことを感じなかったのに、その夫人に対して丈け私は、ただ秘密の愛撫を楽しむのみではあき足らず、どうかして、私の存在を知らせようと、色々苦心したのでも明かでございましょう。
 私は、出来るならば、夫人の方でも、椅子の中の私を意識して欲しかったのでございます。そして、虫のいい話ですが、私を愛して貰い度く思ったのでございます。でも、それをどうして合図致しましょう。若し、そこに人間が隠れているということを、あからさまに知らせたなら、彼女はきっと、驚きの余り、主人や召使達に、その事を告げるに相違ありません。それでは凡《すべ》てが駄目になって了うばかりか、私は、恐ろしい罪名を着て、法律上の刑罰をさえ受けなければなりません。
 そこで、私は、せめて夫人に、私の椅子を、この上にも居心地よく感じさせ、それに愛着を起させようと努めました。芸術家である彼女は、きっと常人以上の、微妙な感覚を備えているに相違ありません。若しも、彼女が、私の椅子に生命を感じて呉れたなら、ただの物質としてではなく、一つの生きものとして愛着を覚えてくれたなら、それ丈けでも、私は十分満足なのでございます。
 私は、彼女が私の上に身を投げた時には、出来る丈けフーワリと優しく受ける様に心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分らぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女の身体の位置を換える様に致しました。そして、彼女が、うとうとと、居眠りを始める様な場合には、私は、極く極く幽《かすか》に、膝をゆすって、揺籃《ようらん》の役目を勤めたことでございます。
 その心遣《こころや》りが報《むく》いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、夫人は、何となく私の椅子を愛している様に思われます。彼女は、丁度|嬰児《あかんぼ》が母親の懐《ふところ》に抱かれる時の様な、又は、処女《おとめ》が恋人の抱擁《ほうよう》に応じる時の様な、甘い優しさを以て私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、身体を動かす様子までが、さも懐《なつか》しげに見えるのでございます。
 かようにして、私の情熱は、日々に烈しく燃えて行くのでした。そして、遂には、ああ奥様、遂には、私は、身の程もわきまえぬ、大それた願いを抱く様になったのでございます。たった一目、私の恋人の顔を見て、そして、言葉を交すことが出来たなら、其《その》まま死んでもいいとまで、私は、思いつめたのでございます。
 奥様、あなたは、無論、とっくに御悟《おさと》りでございましょう。その私の恋人と申しますのは、余りの失礼をお許し下さいませ。実は、あなたなのでございます。あなたの御主人が、あのY市の道具店で、私の椅子を御買取りになって以来、私はあなたに及ばぬ恋をささげていた、哀れな男でございます。
 奥様、一生の御願いでございます。たった一度、私にお逢い下さる訳《わけ》には行かぬでございましょうか。そして、一言でも、この哀れな醜い男に、慰めのお言葉をおかけ下さる訳には行かぬでございましょうか。私は決してそれ以上を望むものではありません。そんなことを望むには、余りに醜く、汚《けが》れ果てた私でございます。どうぞどうぞ、世にも不幸な男の、切なる願いを御聞き届け下さいませ。
 私は昨夜、この手紙を書く為に、お邸を抜け出しました。面と向って、奥様にこんなことをお願いするのは、非常に危険でもあり、且《か》つ私には迚も出来ないことでございます。
 そして、今、あなたがこの手紙をお読みなさる時分には、私は心配の為に青い顔をして、お邸のまわりを、うろつき廻って居ります。
 若し、この、世にも無躾なお願いをお聞き届け下さいますなら、どうか書斎の窓の撫子《なでしこ》の鉢植《はちうえ》に、あなたのハンカチをおかけ下さいまし、それを合図に、私は、何気なき一人の訪問者としてお邸の玄関を訪れるでございましょう。

 そして、このふしぎな手紙は、ある熱烈な祈りの言葉を以て結ばれていた。


手紙が終わります。入れ子構造の小さい方の物語が終わります。手紙を読んでいた奥様=佳子のもとへ行くことは、大方の読者の予想通りだったとは思いますが「約一ヶ月の間、私は絶えず、夫人と共に居りました」という気味悪さは見事ともいえます。「バトル」と「ビッグバトル」はテーマが関連していて、しっかりと機能しています。ここで手紙は終わり、入れ子構造のうち小さい方の「イス職人の三幕構成」はいったん終わります。しかし「お邸の玄関を訪れる」とあり、事態は終わっていません。佳子(と読者)にとっては、手紙の中の他人事だった話が、急に身近に迫ってきた怖さがあります。ホラー話でよくある電話をとると「いま、あなたの後ろ」という驚かしと同じです。そのまま、話は佳子へと戻ります。佳子にとってのアクト3「この後、どうなるのか?」が始まるのです。

 佳子は、手紙の半程《なかほど》まで読んだ時、已《すで》に恐しい予感の為に、まっ青になって了った。
 そして、無意識に立上ると、気味悪い肘掛椅子の置かれた書斎から逃げ出して、日本建ての居間の方へ来ていた。手紙の後の方は、いっそ読まないで、破り棄《す》てて了おうかと思ったけれど、どうやら気懸《きがか》りなままに、居間の小机の上で、兎も角も、読みつづけた。
 彼女の予感はやっぱり当っていた。
 これはまあ、何という恐ろしい事実であろう。彼女が毎日腰かけていた、あの肘掛椅子の中には、見も知らぬ一人の男が、入っていたのであるか。
「オオ、気味の悪い」
 彼女は、背中から冷水をあびせられた様な、悪寒《おかん》を覚えた。そして、いつまでたっても、不思議な身震いがやまなかった。
 彼女は、あまりのことに、ボンヤリして了って、これをどう処置すべきか、まるで見当がつかぬのであった。椅子を調べて見る(?)どうしてどうして、そんな気味の悪いことが出来るものか。そこには仮令、もう人間がいなくても、食物その他の、彼に附属した汚いものが、まだ残されているに相違ないのだ。
「奥様、お手紙でございます」
 ハッとして、振り向くと、それは、一人の女中が、今届いたらしい封書を持《もっ》て来たのだった。
 佳子は、無意識にそれを受取って、開封しようとしたが、ふと、その上書《うわがき》を見ると、彼女は、思わずその手紙を取りおとした程も、ひどい驚きに打たれた。そこには、さっきの無気味な手紙と寸分違わぬ筆癖《ふでぐせ》をもって、彼女の名宛《なあて》が書かれてあったのだ。
 彼女は、長い間、それを開封しようか、しまいかと迷っていた。が、とうとう、最後にそれを破って、ビクビクしながら、中身を読んで行った。手紙はごく短いものであったけれど、そこには、彼女を、もう一度ハッとさせた様な、奇妙な文言《もんごん》が記《しる》されていた。

 突然御手紙を差上げます無躾を、幾重にもお許し下さいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別封お送り致しましたのは、私の拙《つたな》い創作でございます。御一覧の上、御批評が頂けますれば、此上の幸《さいわい》はございません。ある理由の為に、原稿の方は、この手紙を書きます前に投函致しましたから、已に御覧済みかと拝察致します。如何《いかが》でございましたでしょうか。若し、拙作《せっさく》がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。
 原稿には、態《わざ》と省いて置きましたが、表題は「人間椅子」とつけたい考えでございます。
 では、失礼を顧《かえり》みず、お願いまで。匆々《そうそう》。


見事なオチです。このオチがあってもなくても、イス職人の孤独と異常行動だけでも素晴らしい作品だと思いますが、それが受け入れられない読者には安心できるオチがついています。手紙が原稿用紙に書かれていたことも忘れてしまいますが、しっかり伏線がひかれています。

底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第五巻」平凡社
   1931(昭和6)年7月
初出:「苦楽」プラトン社
   1925(大正14)年10月
※底本では、親本を「江戸川乱歩全集 第一巻」としていますが、該当書籍を確認の上、「江戸川乱歩全集 第五巻」にあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:湖山ルル
2016年1月1日作成
2016年11月12日修正
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

入れ子構造の構成

このように入れ子構造の構成は、手紙やビデオ、回想といった別の物語を、ほかの時空の物語(人間椅子でいう佳子)で挟むことで作れます。ただし、プロローグとエピローグ的な挟み込みでは機能しません。あってもなくても同じと言えます。たとえば「イス職人が罪悪感を覚えて自殺した」というオチであったら、佳子からすれば「可哀想な人ね」で終わり、物語上いらないのです。挟み込むかぎり、その前後、つまり「手紙を読む前後」で変化が起きてなくてはいけません。この作品では、手紙への入りも興味をひく気味悪さを演出してありますが、手紙からの戻り方も、急で恐ろしく、非常に効果的になっています。オチの爽やかさは、ここまでで読者を引き込んでいるからこそ働いています。このオチだけ真似したところで「実は嘘でした」という夢オチでしかありませんので機能しません。面白さの本質はオチではありません。怖いところまで読者を連れていって「もう勘弁してくれ~」という気持ちにさせてから「ウソでした」と言われるからホッとするのです。こっちは怖がってもいないのに「ウソだけどね」と言われたところで、読んでる方は時間をムダにしたとかしか思いません。これは「夢オチ」がくだらないと言われる原因にもなっています。きちんと機能させれば、「夢オチ」(=ハリウッドでは「ターン」と呼ぶ)ほど強力なオチはありません。
また、この入れ子構造をいくつも重ねていくと「回想型構成」になっていきます。ちょうど「読書会」で解説しておりますので、興味のある方はあわせてご覧下さい。

緋片イルカ 2020/03/11

ほっこり朗読 江戸川乱歩『怪人二十面相』(1) はしがき/鉄のわな

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