『脚本の科学 認知と知覚のプロセスから理解する映画と脚本のしくみ』
映画を見るとき頭の中では何が起きているのか?
一本の映画にのめりこむために観客には何が必要か?
認知神経心理学をフル活用した、一歩先に進むための脚本術!(Amazon商品解説より)
※詳細はリンク先でお読みください。
物語を人間が認知する仕組みというのは、作者からした感覚としては「観客がどう思うか、どう感じるか」を把握すること。
三幕構成をはじめ、物語論関連の本では、書き手の理屈によって説明されることが、この本では認知科学の言葉で言い換えているというかんじ。
ある程度、物語論をつかんだ人が、読んでみることで気付かされる側面はあると思うが、わかっている人には同じというかんじか。
科学的な説明が苦手な人には向かないが、合う人にはわかりやすいと思う。
三幕構成関連書籍→ストーリー機能・分類・関連書籍まとめ
以下、研究会でとりあげた作品なので、気になったところの引用とメモ書きです。
第1章 情報の流れの科学
カナダのプリンス・エドワード・アイランド大学の心理学者A・J・コーエンは、トップダウンとボトムアップの交差を、読者あるいは観客の脳内で「制作中の物語」(working narrative)が形成されることと説明している。(p.15)
物語はテキストそのものではなく、観客・読者の脳内で再生される。
この「ワーキング・ナラティブ」という感覚は作者が絶対的に掴まなくてはいけない感覚だと思う。
外界からの刺激――映画でいえば映像、音楽、カラー、ライトなど、小説でいえばテキストから連想されるイメージで、作られる。
たとえば「囲炉裏」などと言っても、知らない人には連想できない。映画の方が、映像として見せることができるので、観客の負担は少ない。
トップダウンの情報には、スキーマによる判断が含まれる(参考記事:スキーマとキャラクターコア)
それを踏まえた上で、テキストを書かなければならない。
「スキーマの破壊」というのは、簡単に言えばセットアップ、ペイオフのことだが、機能しているかどうかは「ワーキング・ナラティブ」に対する感覚が不可欠。
鈍いライターは、不十分なのにセットアップしたと思い込んでしまったり、必要以上にセットアップしてストーリーの停滞を招く。スマートにやることが大事。
『お熱いのがお好き』(59)から引いたこの場面で、スパッツ・コロンボ(ジョージ・ラフト)は彼のスキーマのスクリプトを破壊されるだけではすまない。以下のことに注意してほしい。銃を持った男が誕生日パーティーのスキーマのスクリプトを明らかに破壊しているのに対し、この場合観客は銃を持った男についてあらかじめ情報を得ていたので、厳密に言えば、観客のスキーマのスクリプトは破壊されていない。犠牲者のスキーマのスクリプトだけが破壊されたのだ。(p.24)
観客の「スキーマの破壊」と、登場人物の「スキーマの破壊」は違う。これを取り違えてる作品はよく見る。
登場人物が驚けば、観客が驚くわけではない。注意書きに書いてあることがだが重要な指摘だと思う。
第2章 メインキャラクターと感情的につながることの科学
キャラクターについて「主人公は善人じゃなきゃいけない」といったチープな物語論で、授業のあとしている学校もあるが、そんなことはありえないのは言うまでもないこと。
人間の生存本能から、主人公への「同期」が生まれるといった考え方は、一応の理屈は通っているが、それがすべてか少々疑問。答えは出ない問題だとは思う。
第3章 コントラストの科学
ストーリー上にコントラストを取り入れること。
明暗と境界。
音楽の静と動、緩急、強弱。
ストーリー展開上の緊張と緩和。
心理学者は感情を、誘発性という言葉で理解している。これは[人を惹きつける]正の誘発性、[回避させようとする]負の誘発性、中立的な誘発性というカテゴリーに分かれる。さらに、心理学者たちは次のことを発見してきた。正の誘発性は、中立的な誘発性と組み合わされるとコントラストを生み、このコントラストに観客はより緩やかに、とはいえ長続きする注意によって立ち会う。一方、負の誘発性と中立的な誘発性との組み合わせは、すばやく、とはいえ長続きしない注意のプロセスを要求するコントラストだ。(p.73)
この点は、ものすごく示唆に富んでいる。知ってると知らないでは、テクニックに大きな差が出る。構成でも考えるべきこと。
第4章 状況説明の科学
新米の(及びそれほど新米出ない)脚本家の犯すひとつのよくある間違いが、脚本をすぐにストーリーによって始めてしまうことだ。実際には、パズルで始めるのがベストだ。観客にさまざまな手がかりと合図をパズルにして投げ出すのだ。観客が映画の中で出会いつつある世界についてのある特定の理解を作り出せるようにデザインされたパズルだ。そして構造主義的心理学による非意志的な無意識の情報操作に残りを委ねること。このやり方であれば、少なくとも情報を「食べやすい」寿司のようにスムーズに咀嚼させることはできるだろう。(p.94)
全くその通りだと思う。伝えづらい感覚だが、科学的な理屈から良く説明できていると思う。ただ、科学的であろうが、直感的説明であろうが、わかる人にはわかる、分からない人にはわからないのだろう。
脚本家/監督は、想像力の産物を認知能力によって把握できるようにするために十分な「現実」を持ち込むことに注意を払わなければならない。スキーマ、もしくは映画やさまざまな脚本あるいは舞台についての観客の広範囲にわたる既存の知識が、理解を支えるために役立つだろう。ニューロンはもともと個別的な細胞だが、ニューロンどうしが連結して連鎖をなすことによってはじめて活動できる。一度活動を始めたニューロンは寄り集まって、いわば、あとから入ってくる情報に対して新たに反応できるように待ち構えていなければならない。それゆえ、想像力の産物ではない物体あるいは出来事を十分に内容に盛り込むことで注意深くバランスをとったシーンとシークエンスは、観客のスキーマをはたらかせることになる。観客自身の人生経験が映画に対する観客の感情的なつながりを生み出し、脚本家/監督が観客の注意を合図に向けつづけることを可能にする。観客はその合図をつかむだろう。(p.97)
難しいことを言ってるようだが、一言で言ってしまえば、観客を惹きつけるように情報与えたり、刺激を与えたりし続けること。
そのバランス感覚は「ワーキング・ナラティブ」を掴めているかどうかによる。
(緋片イルカ 2022.3.13)
第5章 原因と結果の科学
反復を通じて脳はポジティブフィードバックの経路を打ち立て、それは直接、言語中枢を横断する。それゆえ私たちは自分の言葉と他人の行為との結びつきを理解するときに心地よいと感じる。あるいは逆に、心地よさを感じるとき、私たちは自分の言葉と他人の行為との結びつきを理解している。言語を通しての意思疎通はこのようにして「心地よいと感じる」システムの最良の活性体となる。なぜなら、脳は賢明にも、言語の理解にエンドルフィンという褒美をつけることで、私たちが是が非でも理解しようとするようにしたのだ。(p.107)
物語以前に言語を理解することとが快感ということは、作家は覚えておくべき。
参考記事:物語の快感
読みやすさの上で、イメージや知識欲が刺激されることが読書の快感といえそう。
さらに、ある程度の読書の快感を提供した上で、つまずきを与えることは、読者への挑戦状のようなもの。
読書と作者の間にあるゲーム性のようなもの。
心理学者たちは意図というものを動機と説明している。そして動機というものは原因と結果についてのより複雑な理解を要求する。物理的な原因と結果の連鎖(水が火を消す)はすぐに理解されるが、動機あるいは計画というものは、次のような理解を要求する。すなわち、意図の表現においては一つのゴールかあらかじめ設定されており、このゴールへの一連の行為によって意図は理解される。これは物理的な原因と結果ほどわかりやすくはない。なぜならゴールへと導く可能性のある行為は一つではなく、数かぎりなくあるからだ。これが意味するのは、ゴールへと向かう、あるいはゴールから遠ざかるという観点からキャラクターが開始するひとつひとつの行為を、読者あるいは観客が評価しなければならないということだ。この認知活動は観客の関心を引きつけたままにしておくが、疲れるものだ。脳機能イメージングの研究が示すところによれば、脚本を読んで出来事あるいは行為が前述の意図あるいはゴールと一貫しているとき、脳は比較的スムーズな電気的パターンを生み出す。一貫していない行為という印象が現れる時、鋭いネガティブな脳波(N400)が理解のプロセスを妨害する。これは科学者たちの説明では、何かがうまくいっていない――つまりゴールの状態が危機にある――と脳が私たちに知らせる方法だ。(p.113)
ゴールはキャラクターのwantによって表される。
wantはセリフで言わせててでも、明確に伝えるべきだというのが僕の考え方だが、脳機能と一致している。
脳のプロセスを脚本家が適切に使うには、観客が下意識的な視点からキャラクターについての情報を求めていることを受け入れることだ。人間の本性は因果的説明を求めるものだが、この本性は生得的なものではない。現実世界における経験が観客の感情的反応と期待を形成することに重要な役割を果たすからだ。脚本家に覚えておいてほしいのは、因果的な説明を探そうとする期待こそ、観客がいわゆる鉤(フック)の問いを作り出す理由であるということだ。「彼女はこの窮状から脱出するのか? 彼女は○○するのか?」など。言い換えれば、ボトムアップの視覚的・聴覚的情報の流れは、文字どおり感情に包み込まれていて、観客は意識していないかもしれないが、その感情こそがボトムアップの情報の流れから導き出される問題、注意、関心を方向づけ、予見するのだ。(p.116)
セットアップとペイオフ、フリとオチというのはミステリーやサスペンスのエンジンを機能させる最小単位。その因果関係を求める気持ちが「生得的なものではない」というについては疑問だが、その感情に基づいて物語は求められるということには依存ない。
第6章 共同注意の科学
フランク・ダニエルが脚本家について述べたように、「私たちはコミュニケーション産業の中にいる。コミュニケーションとは何かを言うことではなく、理解してもらうことだ」。(p.121)
これは、エンターテイメントという業界全般に言えること。
アートに「自分のため」とか「芸術のため」といった高尚さを求める人もいるが、エンタメ産業と程度の差こそあれ、アートにも理解者は必要だ。
理解者の一切、存在しない作品は歴史上から消え去っていくし、そもそも、そんな作品をアートと思う人すらいない。
むしろ、みんなに理解してもらいたいと表現しても、理解してくれない人が必ずいる。あえて、理解しづらく書く必要などないのだ。そんなのはくだらない気取り、欺瞞、自己満足だ。
自分の書くべきことを優先して、分かりやすさが犠牲になってしまうときはある。それは仕方ない。そういうときは書くべきことを躊躇なく書くべきだ。それでも、もっと伝わりやすい書き方がないかを追求する努力も作家には必要だ。
注意というものは正確には何なのか?
ウィリアム・ジェームズはアメリカの心理学の「創設者」とみなされているが、だいたい次のようなことを述べた。世界のうち選別された少数のものへ注意を向ける心の性質は、直接視線に結びついていると。「何百万というもの[……]が私の感覚に差し出される。それらは私の経験にけっしてすべて入ってくるのではない。なぜか? なぜならそれらは私にとって関心がないからだ。私の経験とは、私が注意を払うことに同意するもののことだ。[……]注意がなんであるかは誰でも知っている。それは心による所有。同時に所有することが可能と思われるいくつかの物体あるいは思考のうちから一つのものだけを、明晰で生き生きした形で所有することだ[……]それは実際に他のものと取り替えるためにいくつかのものを取り下げることを暗示する」。(p.122)
注意を向ける=興味をもつということは、視線につながる。
視線だけに限らないと思うが、他の感覚に比べて、視覚は、素早く、広範囲にわたって、多くの情報を入手できるからだと思う。
見る行為(あるいは感じること)によって、その対象を「所有すること」という捉え方は面白い。
恋愛の例、情報欲求、偶像崇拝にもつながる。
また、「所有すること」は同時に「所有しないものを放棄すること」でもある。取捨選択。
一人の相手と結婚するなら、それ以外の相手とは結婚できない。
一夫多妻制(一妻多夫制でもいい)があったとしても、世界中のすべての人と結婚することなどできない。
人生には時間の限りがある。
情報の一部分だけを選別して参照するときと、私たちはその他の全ての情報を削除することで[脳が]疲れ切ってしまうことを免れている。それゆえ、こう考えることができる。観客の認知活動を疲弊させるのを避ける最良の方法は、単一の刺激を与え、一切の脱線を排除して、本質的な価値のない刺激の削除を成し遂げられるようにすることだと。
しかし、その逆が真実なのだ。分割された注意と選別された注意の違いについての初歩的な研究、および視覚器官の理解に基づくいくつかの実験が明らかにしているように、この貴重な商品はほぼ完全に制御可能だ。分割された注意――つまり同時に一つ以上のことをすること――は、日常生活においてほとんど常に起こっている。私たちは車を運転しながら乗客と会話し、交通を制御し、法律を守り、目的地を覚えておき。車の速度と位置どりに細かい訂正をほどこしている。このような見かけ上、「散漫な」運転は交通事故を引き起こしやすいと直感的に思う人がいるかもしれないく。しかし、注意の失敗は注意への必要がまったくない時にこそ起こるのだ。長く単調に伸びた道路で、一人で物思いにふけっているときに、運転手はうとうとしたり白昼夢を見たりする。友人を店に送ったり学校に子供を迎えに行くときではない。ここで二つの興味深い事実が明らかになる。マルチタスク処理は関心、ひいては注意を保持するということ。そして複数の認知活動に関わることは、同時に私達の注意を活発な状態にとどめるということだと。(p.123)
面白い指摘だと思うが、文面通りにすべてを受け取ってはいけない。
作者のするべきことは、観客・読者のワーキングナラティブをコントロールすること。
マルチタスク処理=「情報負荷が多い」と呼び変えてみる。
情報負荷が少ない場合は、注意力が散漫になるという指摘は正しい。
ゆえに「物思いにふける」。余裕ができた処理スペースで別のことを行うというのだ。
これは観客をリラックスさせる効果もあるだろうし、観客自身のトップダウンの情報(体験)を呼び起こす余裕も与える。
緊張感に満ちていたら、物語に集中してしまうため、観客の体験を思いだしている余裕がない。
あえて「思い出させて、共感させたいとき」などは、この余裕をつくってやる。
一方、注意を向けさせたい場合には、物語の中で起きている情報量を増やしてマルチタスク処理を強いるように展開する。
簡単な言葉で言えば、メリハリをつけるということ。
ゆっくりと感情移入させたいようなシーンであれば緩め、何が起こるか注意させたいようなシーンであれば処理を強いる。
あくまで脳の原理を理解した上で、コントロールすることこそが作家の仕事。
また、緩急どちらのシーンなのかという判断には、全体からの構成に対する視点をもっていないといけない。
第7章 葛藤の科学
この章では引用したい文章は見つからなかった。
「葛藤」「サブテクスト」など、大切なことを書いてはいるが他の本でも、このサイトでも十分に語っている。
読んでいて、改めて思いついたのは「物語内の葛藤」と「観客内の葛藤」について。
物語内でキャラクターが葛藤していても、その結果が予想出来る場合は観客にとっての葛藤にはならない。つまり予定調和。
反対に、キャラクターが葛藤していなくても、例えば「本人は安全だと思って渡る橋を渡ろうとしているが、観客はそこに爆弾が仕掛けられていることを知っている場合」は、観客に葛藤が起こる。
これも、言ってみればワーキングナラティブの感覚があるかどうかに過ぎないのだが。
(緋片イルカ 2022.4.3)
第8章 想像力の科学
いかにルールを守るかを知るまではルールを破らないことが賢明だ。――T・S・エリオット
この書籍の作者の言葉ではないが、率直にその通りだと思った。『荒地』も読みたいと思って読めていないな。
この章で書かれている「準備する」~「インキュベーション」~「閃き」という過程は、有名なので特筆することはない。
第9章 構成の問題
構成についても、たぶん、このサイトのが詳しい。
第10章 神経科学で読みとく『スター・ウォーズ』
翻訳者のあとがきに以下のようにあった。
著者のガリーノはすでに『脚本術:シークェンス・アプローチ(Screanwriting: The Esquence Approach)』という本格的な教科書を本書の原著と同じ版元(Bloomsbury)から出している。読者の便宜のために若干の解説を加えておくと、これは彼がコロンビア大学でその謦咳に接し、ミロス・フォアマンやデイヴィッド・リンチの師としても知られる伝説の脚本教師フランク・ダニエルによって導入された「シークェンス・メソッド」という方法論を体系化したもので、シークェンスを一本の短編映画のようなある程度の独立性をもった単位と見なすが、あるシークェンスにおいて生じた葛藤がそのシークェンス内では完全に解決されないまま後続するシークェンスにリレーされるという形でシークェンスどうしを有機的に結びつける。これによって脚本家は作品全体の構成を過度に気にすることなくそのとき書いているシークェンスに意識を集中させることができるというメリットがある。本書の掉尾を飾る『スター・ウォーズ』全編の見事な分析においてこのメソッドがフルに活用されていることをたしかめていただきたい。(p.142)
「シークエンス・メソッド」というのは初めて聞いたが、このあとがきでの解説を読むかぎり、当たり前のことを言っているというかんじで、特別なメソッドには思えない。
シークエンスを独立性をもった単位とみなすというのは、シーンやシークエンスレベルでもビートを持たせるということだし、葛藤をリレーさせるというのは、主人公の感情でいえばキャラクターアーク、演出的な視点からいえばストーリーエンジンで説明できる。構成至上主義への斑駁としては有効だろうが、メリットとしてあげられている「シークエンスに意識を集中させる」というのも、脚本家はマクロからもミクロからも、シーンやキャラクターの一挙一動、一字一句に意識を集中させるべきなので、メリットというより、これも当たり前のことという印象。初心者には有用かもしれないが。そう思って、改めて、作者の構成を批判する視点に、むしろ偏りをかんじなくもない。「構成よりも大事なものがある→それは観客がどう感じるか?」という主張は同感だが、それを科学だけで説明しようとしていることに、この作者の狭さがでている。これは将棋に似てるかもしれない。AIと人間のプロとどちらが強いかという問いのように、物語は神経医学だけでは説明しきれない部分があって、それを切り捨ててしまうせいで、視野が狭くなっている。いずれは、科学だけで物語が作れるかもしれないが、まだまだ先だ。
以上
(緋片イルカ 2022.5.20)