※この記事は結末までのネタバレ含みます。
音声解説
mp3(34分09秒)
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スーパーヒーローとは何か?
この映画は「スーパーヒーロープロット」の一例としてリモート分析会で取りあげました。
ブレイク・スナイダーの10のストーリータイプでは、10:スーパーヒーローSuper Heroというタイプがあります。
細かい分類では以下になっています。
10-1:実在のスーパーヒーローReal Lofe Superhero『レイジング・ブル』
10-2:ストーリーブック・スーパーヒーローStorybook Superhero『ライオン・キング』
10-3:ファンタジーヒーローFantasy Superhero『マトリックス』
10-4:民衆のスーパーヒーローPeople’s Superhero『グラディエーター』
10-5:コミックブック・スーパーヒーローComic Book Superhero『スパイダーマン2』
この分類を見ると、いくつかの疑問が浮かびます。
「スーパーヒーロー」という言葉からは「超人的な力をもった主人公が、悪と戦う」といったイメージが浮かびます。
その点で、スーパーヒーロープロットとして『スパイダーマン2』が一番しっくり来るという方は多いと思います。『マトリックス』のネオも、まあ許せそうです。
けれど『レイジング・ブル』や『グラディエーター』はスーパーヒーローなのでしょうか?
ヒーローと呼ぶことに違和感はありませんが、スーパーヒーローとは何なのか?
ブレイク・スナイダーの別のタイプには4:難題に直面した凡人 DUDE with a Problemというタイプがあります。
その中には『ダイ・ハード』や『ディープ・インパクト』が含まれます。
こういった作品の主人公もヒーローと呼べるでしょうが、スーパーヒーローではないのか?
また「超人的な力を手に入れる主人公」といった要素だけとるなら『ブルース・オールマイティ』などの3:魔法のランプ Out of the Bottleという分類もあります。
こういった作品の主人公はスーパーヒーローにならないのか?
ブレイク・スナイダーの分類は定義があいまいです。説得力のある分類がされているグループもあれば、表面的な一要素だけで同じグループとして括っているものもあります。
そういった混乱を避けるため、このサイトでは「ストーリータイプ」と「プロットタイプ」を分けて考えます。
この違いについては、語り始めると長くなるし、他の記事で何度も書いていますので、詳細は割愛しますが、簡単に言うと以下のようになります。
「ストーリータイプ」:設定や題材などの表面的な要素で似ているストーリーや、ジャンル分けのようなざっくりとした分け方。定義はない。例えば『メン・イン・ブラック』と『未知との遭遇』はまるで違う映画ですが、「宇宙人が出てくる話」として同じストーリータイプと呼んでもいい。幽霊ものなら『シックス・センス』とか『ゴースト/ニューヨークの幻』を同じと考えてよい。
「プロットタイプ」:スリーポインツを中心としたビートに類似のある構成で作られているストーリー。展開が似ていれば、必然的にストーリータイプも似るので、ストーリータイプと重なることは多々あるが、構成が違えば同じプロットタイプとは言わない。
(参考:「三幕構成と恋愛(プロットタイプとストーリータイプの違い)」)
僕の定義では「スーパーヒーロープロット」は「超人的な力を手に入れた主人公が、悪と戦う」構成をもったものを指します。
必然的にアクト1では「平凡な主人公が超人的な力を手に入れるまで」が描かれ、
非日常にあたるアクト2では「スーパーヒーローとしての活躍」が描かれ、ミッドポイントで頂点に達します。
その直後、フォールで敵が迫り(ブレイク・スナイダーが言うところの「迫りくる悪いやつら」)、PP2では、一度、ピンチに陥り、
アクト3では「敵とのビッグバトル」となります。
これが「プロットタイプ」としての「スーパーヒーロープロット」です。
以下、『シャザム!』で見ていきましょう。
※補足:物語論において「ヒーロー」という言葉は単に「主人公」という意味でも使われます。これは、物語論がモノミスやヒーローズジャーニーを土台に発展してきたためです。
スリーポインツ
PP1:シャザムになる(36分27%)
MP:テレビ取材を受ける(72分55%)
PP2:敵に囲まれる(92分70%)
感想・構成
この映画を「ダラダラしている」「ストーリーがなかなか進まない」「展開が遅い」などと感じた人は多いのではないでしょうか?
スリーポインツは上記に示したとおり「スーパーヒーロープロット」のセオリー通りです。
三幕構成では各アクトを「1:2:1」と分ける目安がありますが、その観点からして、PP1の27%はやや遅いといえます。
しかし「ダラダラしている」原因は、むしろカタリストが機能していないことです。
物語全体の構成としてはPP1というのは重要ですが、観客の感情を引っ張るビート(ストーリーエンジン)としてはカタリストの方が重要です。
カタリストがどこにあるのか、探してみます。
まずは映画冒頭の2分、少年が異世界へ招かれますが、力を与えるにふさわしくない者として拒否されます。
これがカタリストであれば、とても早い展開ですが、この少年は主人公ではなくヴィラン役です。
本当の主人公が出てくるのは8分過ぎで、これだけの時間があれば、主人公のセットアップを終えて、カタリストを起こせていますが、ようやく登場なのです。(※トリップシークエンスとして機能させれば可ですが、機能していません。トリップシークエンスの解説は上級編のみ)
さて、観客は気をとりなおして主人公のカタリストを待つことになります。
ちなみに僕は、ヴィラン役の少年時代が、成長して、この主人公になったのだと錯覚しました。分析会の参加者にもいました。
この原因は「ヴィラン役の少年」→「主人公の少年」が時間経過の順序として滑らかで、さらに「力に相応しくないと拒まれた」ことと「警察にイタズラする」という行動が、キャラクターとして一貫性をもっているように見えるせいです。
ともかく、この主人公の登場である8分過ぎが映画全体のリズムからみると「カタリスト」と呼べそうな感触はあります。
映画では、ストーリー的に(キャラクターアーク的に)意味がなくとも、演出上でリズムをつけるので、こういう機能していないものも、一応「カタリスト」と分析することがあります。
ただし「カタリスト」というビートの意義いうのは、主人公に起こる最初の事件であり、非日常へのきっかけとなる事件なので、ビートとしては機能していません。
機能していないということは、観客の関心を惹かないということです。
分析会の参加者でも同意見だったと思いますが、このカタリストでも機能する可能性があるのが「原作のファン」です。
原作ファンであれば、冒頭の少年がヴィラン役であるのも知っているし、主人公の少年が出てきたところで「お、待ってました!」となるのかもしれません。
アメリカではそれなりの興行収入を上げている作品です。
「DCエクステンデッド・ユニバース」としてDCコミックス原作の一連作品の映画化の1つとして展開されているので、アメリカでは原作を知って見に行く人が多い作品なのかもしれません。
日本のマンガ原作作品の映画化でも、締りのない構成でも、キャストや原作ファンによって成立してしまっていることと似ている気がします。
主人公の少年が登場してすぐ、過去のトラウマ=遊園地で母親に捨てられた回想が入ります。
主人公に感情移入させるのであれば、このシーンを冒頭にもってくるべきですが、これも原作ファンであれば共感しやすいシーンなのかもしれません。
カタリスト探しに戻ります。
映画の25分。大人になったヴィラン役(ハゲのオッサン)が、異世界への扉を見つけます。
これが、ようやくカタリストです。
ヴィラン役が悪の力を解放したため、主人公の少年が勇者として選ばれるPP1(36分あたり)のきっかけとなるのです。
主人公の知らないところで起きるカタリストというのはあります。
たとえば、4:難題に直面した凡人 DUDE with a Problemの構成であれば、隕石でも宇宙人でもいいのですが、地球壊滅規模の危険が迫っているというカタリストが起こります。これは通常、専門的な観測所などで探知されるので、主人公の知らないところで起きています。けれど、観客の中では、この事件が主人公に繋がっていくことは暗黙の了解なので、カタリストとして機能するのです。その後、対策本部のようなところから、何らかの専門家である主人公に依頼が来たりします。キャラクターアークとしてはこちらがカタリストになることもありますが、映画全体として(プロットアークとして)は、主人公のがいないところでカタリストが起きていても機能します。たいていは「危機の探知」と「主人公への依頼」は連続的なシーンで配置されるので、どちらでとっても、バランスとしては大差ありません。
「難題に直面した凡人」型の構成であれば、よいのですが『シャザム!』は「スーパーヒーロープロット」です。
スーパーヒーロープロットは、本来、平凡な日常(たいていは冴えない日常)を送っていた主人公が、ふとしたきっかけで、超人的な力を手にいれるというところに、面白味があります。
主人公の冴えなさに共感できる観客にとっては、能力が憧れにもつながります。
それゆえ、カタリストを主人公の知らないところで起こすというのは、ビートの意義を考えると危険な構成だと感じます。(※この映画にはデスもありません)
25分のシーンでヴィラン役にやられているはずの魔術師は、36分あたりで主人公を呼び寄せたときにはピンピンしていて、繋がりとして不自然です。
また、主人公は「清らかな心の持ち主」として選ばれたのか、仕方なく選ばれたのかも、セリフから曖昧でわかりません。
「仕方なく、とんでもない奴が、ヒーローになってしまった」という展開は魅力的で、これが意図であれば「カタリストが主人公と関連のないところで起こる」のもあり得るかと思いますが、何度か見直してみても、この辺のキャラとしての描写が中途半端です。原作に起因するのかもしれません。
ともかく、主人公が「スーパーヒーロー」に選ばれるきっかけとして、「ヴィラン役が異世界を襲ったこと」はカタリストといえそうですが、25分という時間も遅すぎます。
カタリストは遅くても10分以内というのは、僕が決めている基準ですが、大幅に過ぎています。
この映画を「ダラダラしている」と感じる人が多いとすれば、原因は「カタリストの大幅な遅れ」「主人公の魅力のなさ」が原因でしょう。
アクト2=シャザムになってからの、コメディチックなシーンは気楽に見れますが、それまでがコメディ要素が足りていない(ジャンルのセットアップ)が出来ていないため、今さら、笑いづらいところもあります。
動画をとってネットに上げるというセンスは今風のようで、映画としての面白味としては『キック・アス』の既視感があります。
ヴィラン役が、会社の会議室で父親と兄を殺すシーンも『ロボコップ』の既視感です。
クイーンの音楽に乗せたモンタージュシークエンス(映像に乗せてテンポよく見せる演出。ストーリー上は無意味)が2回も入るのは苦し紛れな演出にも感じます。
落下しそうなバスを助ける、スパイダーマンの既視感のあるシーンで、ヒーローとしての賞賛を受けるところでミッドポイント。
直後に、ヴィラン役が現れアクションがフォール。
セオリー通りの展開です。
先述したように「スーパーヒーロープロット」としてのPP2は主人公の敗北です。
その意味から、異世界に連れていかれ、敵に囲まれるところです。
これも、原作に起因するのでしょうが、落下(オールイズロスト)としては、とても弱いといえます。
主人公を「名前を言え(能力を奪われる)」というところまで、追い込んで置きながら、言わないまま逃亡します。
原作を無視して、タイトな構成をするのであれば「名前を言ってしまい、すべての能力を奪われるところ」まで落とすべきです。
絶望的な展開からの逆転に観客は興奮します。アクト3の盛りあがりにつながるのです。
この映画では、兄弟の物理的な攻撃で安易に助かってしまいます。これが後のフリ(弱点のヒント)になっているとしても、主人公がボコボコにされるぐらいの演出は欲しかったところだと思います。
ともかく、逃亡の末、遊園地という舞台へ行き着き、アクト3「ビッグバトル」が始まります。
遊園地は、主人公が母親に捨てられた場所です。
この舞台で「母親に捨てられた少年が新しい家族を手にする」などと言葉を添えてやれば、聞こえはいいですが、宣伝文句にしかなりません。
構成がそうなっていなければ、観客には伝わりません。
この点で、考えるのが「母親との再会シーン」(88分あたり)です。ここをPP2ではないかと感じる人がいるかもしれません。
主人公は登場シーンで、母親を探しています。
しかし、アクト2でやっていることはシャザムの力による遊び(バトル)です。
よくある「(ネットで)有名になれば母親が見つけてくれるかもしれない」といった動機も見えません。
サブプロットとして情報が出て来ますが、主人公は「母親を探す」行動をしていないのです。
ずっとずっと探していた結果が、あのシーンであれば、悲しい話で、それだけで一本の映画が作れます。
だから、母親にぞんざいな態度をとられることは可哀想ではありますが、構成の流れからして、ちょっと情緒的なシーンというだけです。
母親とのことが、アクト3での主人公の行動に影響を与えるとも思えませんし、ビートにはなりません。
もう少し、巧みにキャラクターアークを描いていれば、その感情がアクト3の盛りあがりへと繋げられたのに、非常にもったいないところです。
アクト3の話に戻ります。
ビッグバトルは、アクションなのでこれといって特筆することはないのですが、ツイストとして兄弟たちもスーパーヒーローになるというシーンがあります。
原作を知らないと、ちょっと笑ってしまうシーンです。
兄弟たちが、それぞれの能力が違うので、それを見せていると分析会の参加者の方が指摘していました。
エピローグでのヴィラン役も含めて、この作品自体が『シャザム!』をシリーズ展開する上でのセットアップであり、アクト1と言えるのでしょう。
これが、構成に締まりがない原因です。
まだアメコミ映画化になっていない時期につくられた『スパイダーマン』との違いはここにあります。
『ロード・オブ・ザ・リング』と『スターウォーズⅣ』のシリーズの違いについても以前、書きました。
シリーズ前提だとしても、映画一本分もアクト1を見せられるというのは間違った構成です。
マーベルのシリーズでも起こっていることですが、クロスオーバーを前提として資金も確保されているため、ひとつひとつの作品が雑になっているけれど、それを見ないと他のシリーズ作品を見られないので、見る。
結果的に興行収入は確保される。
こういった商売としては旨味があるのでしょうが、作品としては質の悪いものが量産されている気配を感じるのは僕だけでしょうか?
緋片イルカ 2021/10/31
この作品はリモート分析会の課題作品としてとりあげた作品です。今後は「分析会」をリモートではなく教室で行う形式に変更していく予定です。それに伴い、これまでは音声解説を録音していましたが、形式も変更する予定です。次回の分析会は12月の予定です。一ヶ月前には告知しまうので、詳細はそちらをご覧ください。